坂本弘司撮影 七月最終日(三十一日)、区切りよく週末日曜日の夜明けを迎えている。気象庁の予報は外れず、おとといあたりから日本列島には、本格的な夏が訪れている。その証しには、日中には暑熱をともなう厳しさがあり、そのぶん朝夕には、冷気をともなう心地良さがある。きょうの夜明けは、典型的な夏の朝である。冷気は肌身にひんやりとして、すこぶるつきの心地良さである。顧みれば七月は、文章の出来はともかく、皆勤賞をもらってもいいほどに、無欠席で書いた。皆勤賞がなければ自己惚れ、すなわちちょっぴり自惚れてみたくなっている。「一寸の虫にも五分の魂」。私は掲示板のリニューアルに報いるため、かなり気張って書いた。それゆえ、いくらかその役割は果たせたかなと、これまた自負しているところである。しかしながら実際には、「草臥れ儲け」だけのところもある。「一寸先は闇の中」、八月はその反動で休みがちになりそうである。わが年齢は七月の半ば(十五日)にあって、八十二歳に到達した。だから気張ったところで、人生燃え尽き症候群の後半を生きながらえている。疲れは即、命の絶え時でもある。もはやわが人生は、相撲の土俵になぞらえれば「徳俵(オマケ)」を踏んでいる。こんな遠回しに言わずズバリ言えば、「ハッケヨイヨイ、残った、残った!…」の状態である。生まれついて無い頭脳は、加齢を理由にして日々止めどなく衰えるばかりである。とりわけ、語彙(言葉と文字)の忘却が進めば文章は、たちまち書き止め状態に見舞われる。加えて、これまた生まれつき指先不器用がさらに進めば、キー叩きは文字どおりお手上げ状態になる。こんな心境で、七月最終日を迎えている。加齢とは人間にかかわる切ない現象であり、だれにも明日の生存の保証はない。まして現在、この世は新型コロナウイルスの蔓延禍にある。それゆえ、私にかぎらずだれしも、心して八月を迎えるところであろう。本格的な夏の訪れにともなう暑熱の厳しさは、ひたすら耐えるより便法はない。八月すなわち真夏に向かうにあってわが願うのは、天変地異の鳴動のない夏空である。夏空に望むのは、「夕立と虹」くらいである。 七月三十日(土曜日)、週間天気予報によれば、今週末すなわちきょうあたりから、本格的な夏の訪れである。この予報はぴったしカンカンで、清々しい夜明けの訪れにある。私には風景を芸術的に描写する能力はない。だから、肩ひじ張らず眼前に見たままに描けば、朝日に照らされて大空一面は、真っ青の日本晴れである。言うなれば天上は、本格的な夏空である。地上はそのおこぼれを頂戴し、さわやかな夏の朝である。さて、私は文章を書いて、恥を晒すことには吝(やぶさ)かでない。しかしながら、身には堪えている。それは、継続のためにはネタ不足を補うために、自分自身の恥を晒してまでも、ネタ不足を埋めているからである。ネタさえあれば文章は、文意に沿って語彙(言葉と文字)を並べてゆくだけである。確かに、これだけでは文章には程遠いけれど、一応格好はついてひとまずほっとする。六十(歳)の手習いにすぎない私が文章論を記すことは、烏滸(おこ)がましいかぎりである。それでも私なりに、文章を書くにおいて、意をそそぐものはある。反面それは、間違ってはいけないと、気を懸けるものである。それらの筆頭は、文意を外れた文脈の乱れである。究極、これだけで、文章とは言えない。だから、そのほかは、誤りの枝葉である。そしてそれらには、用いる語彙の不適当、漢字の誤り、パソコンで書いているから転換ミスの放置、さらには誤字脱字など、うっかりミスが多々ある。すると、「書かなきゃよかった!」、すなわち気分が晴れることはない。「捨てる神あれば拾う神あり」。ただし、ときたま憂鬱気分が癒されることがある。それは、思いがけずふと、文脈にふさわしい語彙が浮かんだときである。そのときは、まさしく快感である。ときたまと書いたけれど、実際にはめったにないゆえ、訂正しなければならない。なぜなら、十五年ものの長いあいだ書いてきたけれど、快感をおぼえた記憶はない、いや少しはあっても薄らいでいる。快感がないのはずばり、六十(歳)の手習いの祟(たた)りであろうか。きょうは起き立てにあって、いやきょうもまた、独り善がりに「犬も食わない」文章を書いてしまった。ひたすら、忝(かたじけな)く思うところである。短い文章ながら、文章の体(てい)に誤りがあれば、たちまち気分が滅入るところである。それであればきょうは、ようやく訪れた夏の朝の気分を堪能し、気分を癒したいものである。朝日の輝きが照らす、天上、地上、そしてその空間は、真空管さながらにきわめてさわやかに清浄である。文章は手に負えない。 七月二十九日(金曜日)、きのうの昼間を引き継いで、いよいよ訪れた真夏の夜明けを迎えている。夏好き、夏嫌いの人もいることから、良い悪いは別にして本格的な夏モードである。肌身に感じる夜明けの心地良さは、これまた夏モードである。真夏にあっては、昼間の暑さには辟易する。確かに、きのうの昼間の暑さには、それを実感した。そのぶん、夏の朝、夏の夕暮れの心地良さは、これまた格別である。しかし、地震をはじめとする天災がなければ、夏の暑さなどなんのその! 自然界の恩恵は無限大である。しかしながら現下の日本の国にあっては、そんな暢気(のんき)なことは言っておれない。なぜなら、新型コロナウイルスス蔓延のせいで、「医療破綻」が日々現実味を増している。医療破綻とは、病気になっても病医院へは掛かれない、診てあげたくも医者が診てやれないということであろう。挙句は、患者のほったらかしである。具体的には、「当院は、診療および診察、お断りします」ということなのであろうか。そうであれば当該の病医院とて、経営が成り立たないはずである。だからまったくの診療拒否ではなく、患者が多くて手に負えない状態であろう。わが下種の勘繰りをすれば、なんだか腑に落ちない医療破綻である。子どもの頃のわが家の茶の間の棚には、まるでそのためにわざわざ棚をこしらえたごとくに、富山の配置薬の薬箱がいくつも押し込められていた。人の好い母は、どれもこれもが断り切れずに置いたのであろう。入れ替わりめぐって来る配置薬の人には、そのたびに頭を下げ背中をエビ型にして、こう言って謝っていた。「ちっとも、服んでいませんもんね、申し訳なかです。そろそろ、回ってこられるから、ちっとは服まんといかんばいとは、言ってはいましたばってん…」。ところが、回ってくる人はみな、まるで親戚のごとく愛想の良い人ばかりだった。「薬は、服まれないことに、越したことはなかですよ」と言っては、悪びれずニコニコ顔で数えていた。私は風船を欲しさに、傍(そば)に立っていた。母の支払いは小銭程度であっても、風船はたくさんくれた。目下、新型コロナウイルスは、さらに感染力を強めて蔓延中である。だけど、わが家には配置薬はおろか、市販の薬の買い置きを入れる薬箱はない。病医院からもらった服み残しの薬袋は、てんでんばらばらに散らばっている。これらのことから現在の私は、思案投げ首状態、手っ取り早く言えば思案中のことがある。それはコロナ下にあっては、市販の解熱剤と鎮痛剤くらいは買い置きしておくべきか! ということである。もちろん、医療破綻を見越しての事前の備え(配置薬)である。防災には様々な備えのグッズ(備品)がある。それらを真似てとりあえずは、頓服薬の解熱剤と鎮痛剤に限るものである。言うなれば、新型コロナウイルス対応の防災グッズ(薬剤)である。私は、実際の医療破綻現場は知るよしない。しかし、日に日にこの言葉が現実味を帯びて、わが身を脅かしている。きわめて、厄介な言葉でありかつ現実である。真っ白けの朝日の輝きに、恐ろしいウイルスが潜んでいるとは思いたくはない。 七月二十八日(木曜日)、気持ちの良い夏風が網戸から吹き抜けてくる。気のせいであろうか、これまでとは違う感じのする夏風である。今週末、すなわち明日あたりから、「本格的な夏の訪れ」という予報がある。本格的な夏とは、暑熱の厳しさをともなう真夏である。もちろん盛夏とも言われて、巷間では「暑中お見舞い」の言葉や葉書が、飛び交う季節である。人間のみに与えられたすぐれた交情である。そして、いつの間にか、「残暑お見舞い」へと、変わってゆく。日月どころか歳月のめぐりは、体操競技の大車輪のごとしである。昨夜は悶々としているうちに、いくらか二度寝にありついていた。それゆえ寝起きの現在は、執筆時間に迫られて、心が急いている。二度寝にありつけず起き出すと、執筆時間は余るほどある。どっちもどっち、碌なことはない。就寝時の私は、安らかな睡眠願望である。人間の基本の基、すなわち最も心安らぐはずの睡眠に脅(おびや)かされるとはなさけない。もちろん、若いときには思い及ばなかった仕打ちである。加齢は、いろんなところで心身を蝕(むしば)んでくる。心は急いているけれど、とりたてて書くネタ、書きたいネタもない。無理矢理書けば、新型コロナウイルスのことばかりが浮かんでくる。しかしながらこれには、もう飽き飽きしている。だからきょうは、これで書き止めである。もちろん、表題のつけようはない。本格的な夏の訪れの二日前にあって、朝日は外連味(けれんみ)なく澄明(ちょうめい)に輝いている。心は急くものの気持ちの良い朝である。朝御飯の支度の前に、しばしこの気分を堪能するために、これで結文とする。 へそ曲がりの私には、例年とはかけ離れて早い、今年の梅雨明け宣言にたいし、本当かな? 気象庁は、ミスっているのではと、思うところがあった。この思いは、大雨による災害なくすんなりと梅雨が明けるはずはないという、過去体験にもとづいていた。この体験を裏打ちするかのように梅雨明け宣言後にあって、日本列島の各地で大雨被害が続出した。だからきのう(七月二十六日・火曜日)の私は、このニュースにびっくり仰天した。「気象庁は26日午前、東北北部が梅雨明けしたとみられると発表した。平年より2日早く、昨年より10日遅い。これで梅雨のない北海道を除き、全国で梅雨明けが発表された。(読売新聞)」。これにより日本列島は、今週末あたりから真夏が訪れるという。言うなれば、気象庁の真夏宣言である。 私は訝(いぶか)りネット記事を漁った。すると、私だけでなく、ネット上の記事にも二度目の梅雨明け宣言? という見出し付きで、人様の思いがあった。確かに、梅雨明け宣言後にあっても、本当に梅雨は明けているのか? と思うほどに、梅雨明けらしくない日が続いた。梅雨明けと思う暑い気象は、一週間ほどで打ち切りとなり、多くはぐずついた。きょう(七月二十七日・水曜日)は、きのうの雨模様の夜明けからすっかり変わって、確かな夏の朝らしい夜明けが訪れている。おのずから梅雨明け宣言後に、長くさ迷っていたわが気分はすっきりしている。さて、新型コロナウイルスにたいしては、政府、専門家、医師、こぞって、打つ手がないかのような状態が続いている。今のところはコロナも、地震をはじめとする自然災害状態にある。それは、いっこうに終息が見えてこない怖さである。私なりに、感染防御策をめぐらしている。すると、究極の防御策は、対面を避けること、すなわち人に会わないことしか浮かばない。これは言うは易く、実際には不可能である。職業や職場を持たない私であっても、妻以外の人に会わないで済む生活はまったくできない。だから屁のツッパリにもならないけれど、それでもこのところ私は、買い物と通院行動をできるだけ間遠(まどお)にしようと、思い立っている。すなわち、外出行動の自粛である。しかしながらこれは、命綱を断つことでありもちろん空論にすぎず、実際にはいのち欲しさに出かけざるを得ない。まして、外働きの職場を持つ人や、学び舎へ通う児童、生徒、学生は、外出行動を止めることはできない。一時期もてはやされていたオンライン出勤とかオンライン授業とかは根づかず、しだいに鳴りを潜めつつある。結局、新型コロナウイルス防御策は、ウイルス自体の衰えを待って、洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込むありさまである。感染力を増し続けるコロナのせいで今年もまたつらい、本格的な夏の訪れになりそうである。 七月二十六日(火曜日)、小雨模様の夜明けです。雨はときには豪雨となり、大きな災害をもたらします。新型コロナウイルスは感染力を強めて、日々感染者数を増やし続けています。加えてきのうは、日本の国に初めて「サル痘」罹患者が現れたという、緊急ニュースが飛び交いました。桜島(鹿児島市)は天高く噴火して、一部の住民は避難を余儀なくしています。どこどこに地震発生という、テロップが流れない日はありません。毎年、台風には何号という、号数が振られる有様です。災害列島・日本の国にあって、生き抜くことは人生の一大事業です。 七月二十五日(月曜日)、待ち望んでいた夏の朝、さわやかな夜明けが訪れている。満天、朝日輝く澄み切った日本晴れである。ところが、心境は穏やかではない。今度ばかりは、コロナにビビっている。このところは、いたずら書きを長い文章で書き続けてきた。それゆえにご常連の人たちも、読み飽き、読み疲れて、減り気味である。もちろん無駄な抵抗であり、私も疲れてまた書く甲斐もない。だからきょうは、意図してずる休みを決め込んでいる。案外、想定外の長い夏休みになるのかもしれない。五分程度の走り書きだから疲れはまったくなく、いやいや気分はすこぶるつきのさわやかさである。私は、網戸から吹き抜けてくる夏の風を堪能している。そして、凡愚のわが身を癒している。文脈の乱れに脅かされて、無理に書く気張ることはない。 結局、二度寝にありつけない祟りは、しょうもないことの書きすぎに表れている。 七月二十四日(日曜日)、清々しく夏の夜明けを迎えている。顧みれば一年前のこの日は、「東京オリンピック」の開幕日だった。新型コロナウイルスの蔓延下にあっては、世論騒然とする中での異様きわまりない開幕式だった。オリンピックがどうのこうのと言うより、私は時の流れの速さを感じている。ところが、コロナ騒動だけは一年前とまったく変わらず、いや感染者数を弥増(いやま)して、今なお終息をみない。コロナのしつっこさには、ただただ唖然とするばかりである。さて、「ひぐらしの記」の書き始めの経緯(いきさつ)を繰り返し書けば、こうである。「前田さん。なんでもいいから書いてください!」。現代文藝社を主宰される大沢さまは、わが六十(歳)の手習いを見抜いて、たちまち天にも昇りたくなるようなご好意を差し伸べてくださったのである。大沢さまの真意を曲解しているように思えるところはあるけれど、私は果報を素直に喜び、さらにはお言葉に甘えて駄文を連ねている。何を書いても良く、そのうえ賜った命題は「ひぐらしの記」である。手習い中の私にとっては、もちろんこれを超える書き易さはほかにない。その証しに私は、十五年ものの長い間、書き続けている。賜ったお言葉は、まさしく大沢さまの優しさが滲む出るものだった。私にすれば「何を書いてもいい」、ということになる。すると、きょうの私は柄でもなく、ふとこんなことを浮かべて書いている。お釈迦様は自己都合丸出しに、この世には四苦(生・老・病・死)、さらに四苦を加えて、四苦八苦があると説教されては、極楽浄土がるとからと言って、あの世へ無理矢理導かれる。確かに、この世には四苦のみならず八苦がある。だからと言って私には、お釈迦様に騙されて、早やてまわしにあの世へ行くつもりは毛頭ない。いくらか負け惜しみだけれど現在の私は、泰然と死に向かう心構えを育成中である。四苦とは文字どおり、生まれることの苦しみ、老いることの苦しみ、病になることの苦しみ、死ぬことの苦しみである。まことにわかり易い説教である。これに重なる四苦は、「愛別離苦」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとくく)」、「五陰盛苦(ごおんじょうく」である。つごうなべて、四苦八苦である。愛別離苦:愛する者との別れの苦しみ、怨憎会苦:恨み憎む者に会う苦しみ、求不得苦:求めているものを得られない苦しみ、確かにさりなんとおもうところ大ありである。五陰盛苦:心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ。五陰すなわち、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)、と説かれても、私にはさっぱりわからない。いや、お釈迦様の身勝手な唱えなど、わからなくても構わない。だから自分なりに考える。究極、人間すなわち人生のテーマ(課題)は、「生と死」である。これに付き纏う感情の言葉は、「喜怒哀楽」と言えそうである。喜び多く生きるか、憤懣をたずさえて生きるか、悲しく生きるか、楽しく生きるか。すなわちそれは、抗(あらが)えない死に至るまでの生き方と言えそうである。人生行路とは喜びと楽しみ多く、生をまっとうしたいためのはるかな道の苦闘と言えそうである。だとしたらできれば、喜び勇んで楽しく死に赴きたい!。こんな叶わぬ欲望があっていいのかもしれない。「前田さん。なんでもいいから書いてください!」。しかし、こんなバカげたことまで、書いていいのだろうか。すると、十五年の継続は、厚かましいわが面(つら)汚しと言えそうである。わが身をわきまえない苦しみを表す言葉があってもよさそうである。咄嗟のわが造語はこれである。「身知得苦(みちとくく)」、すなわち身のほど知らずで、あるいは身のほどを知りすぎて苦しむこと。四度目のワクチン接種の痛みは、接種後三日目にして跡かたなく消えている。だから、気分を良くして、夏の朝のいたずら書きをしたためたのである。ただし、大沢さまへの謝意だけには真剣みがあふれている。いたずら書きの対象はお釈迦様である。神仏にすがることなく私は、「生と死」にたいして、わがありったけの知能をめぐらしたのである。朝日の輝きが増している。神仏とは異なり自然界の営みには、胡散臭さはまったくない。何でも書いていいけれど、半面それは、たやすいことではない。だから多くは、バカなことを書いている。 「もう、書きたくない。もう、書けない。もう、止めよう」。現在のわが偽りのない心境である。ところが、書いている。しかも、このところは、長い文章を書いている。それは、一度目覚めると二度寝にありつけず、そのため、たっぷりと執筆時間があるせいである。寝床で悶々とすることに耐えきれず起き出すと、夜明けまでの時間を埋めるためには、おのずからパソコンに向かわざるを得ない。なんと、なさけなく、かつ苦々しい「ひぐらしの記」の執筆事情であろうか。決断力に乏しい、すなわち優柔不断は、わが生来の「身から出た錆」の一つである。「止めたいけれど、止み切れない」。それには、こんな恐れのせいがある。一つは、生きる屍(しかばね)状態への恐れである。そして一つは、止めれば認知症に見舞われるのではないか、という恐れである。こう思う半面、「やはり止めたい!」、すなわち潮時に苛(さいな)まれている。現在の私は、揺れ動く心境をありのまま、すなわち正直に書いている。止めたい理由をもう一つ加えれば、それは文章の難しさゆえである。さて、加齢とは、人間が避けて通れない、文字どおりいのちの宿命である。加齢は日々、人間の生活を蝕(むしば)んでゆく。金無しと、妻の喘息、ほかもろもろの事情で余儀なく私は、都会の僻地に宅地を買い求めて住んでいる。もちろん、いやおうなく終(つい)の棲家(すみか)となる。現在八十二歳、とうとう私は、山際の日常生活に手を焼いている。日課とする周回道路の掃除はままならず、庭中の夏草取りには手古摺り、大船(鎌倉市)の街への買い物は、日を追って難民状態になりつつある。肝心要の病医院への足取りは、診察券が増えるたびに重くなるばかりである。総じて加齢は、一気にわが日常生活を脅(おびや)かしている。確かに、鏡さえ見なければわが心中の姿は、(青年像)のままである。ところがどっこい、やはり加齢のしわ寄せは日常生活にあっていたるところ、もはや精神力では補えないところまできている。確かに、「鼓舞とか発奮とか」いう、自己奮励の言葉がある。しかしながら加齢の場合は、笛吹けども踊らず状態にある。書くまでもないことを書いて、時間をつぶしたつもりだけれど、夜明けまではまだたっぷりと時間がある。指先、しどろもどろに書き終えても、壁時計の針は、四時あたりをめぐっている。わが人生はたそがれどきを過ぎて、宵闇である。こんな文章、書かなければよかった。やはり、「ひぐらしの記」は、潮時である。
七月最終日
文章は手に負えない
医療破綻にかかわる下種の考察
気持ちの良い朝
いよいよ、コロナをともなう本格的な夏の訪れ
災害列島・日本の国
夏休み? いやずる休み
無念
生と死
再びの「雑念」