
坂本弘司撮影 大沢さん、高橋さん花の感想ありがとうございます。 今朝は古閑さんちの庭の花に「わあー、素敵!」と思わず声をあげていました。画面を次々に映し出し、ため息が出ました。カメラ片手に花巡りなさっている古閑さんの姿が目に浮かびます。そして、運転免許の更新も素晴らしいです。古閑さんの前向きな暮らしぶりはいつも勇気と元気をいただいています。 古閑さん、本日は自動車運転免許の更新お疲れさまでございました。 今回の花々も鮮やかで素晴らしいです♪♪♪♪♪♪ 掲示板を汚しました。疲れました。もう連載や長い文章は書き止めです。いや文章自体、書き止めが近づきました。 昭和二十二年初旬、まだ桜の花が散り残る頃、私は熊本県北部地域にある当時の内田村、村立内田小学校の正門をくぐった。花の盛りは過ぎていたけれど、校舎周りの桜の花はいくらか散り残り、ピカピカ一年生の心は華やいだ。繋いでいた温もりのある母の手の平から離されると、同じように母親に連れられてきた友達に交じり、私はおそるおそる土間のコンクリートの上に置かれていた踏み板を踏んだ。そして、右脇にあった下駄箱に履いてきた運動靴を入れた。初めて、学校の廊下に上がった。素足だったか、靴下を穿いていたか、何かの上履きか、あるいはスリッパに履き替えたのか、これらの記憶はまったくない。廊下の感触はガタガタと音を立てた踏み板とはまったく違って、滑りこけるようなすべすべした感触だった。全身に、うれしさと緊張感がすばやく駆けめぐった。やがて、担任の渕上孝代先生の下、授業が始まると小学唱歌『さくら』を歌った。私は弥生(三月)の意味さえ知らないままに、馴染め始めたクラスの友達と大きな声で歌った。『さくら』を歌うとそれだけで、小学校一年生になった気分がこれまた全身に駆けめぐった。桜の花の季節になるといつも、私にはこのときの桜の花が懐かしくよみがえる。わが人生の原点(スタート)だったからなのかもしれない。そして桜の花は、こののちのわが人生行路に常に付き添っている。私は内田村で年月を重ねて、中学生、高校生になった。高校を卒業すると上京して、昭和三十四年、大学生になった。四年後の昭和三十八年、大学を卒業するとそのまま東京で、社会人一年生になった。これまた、新調の背広に身を包んだ、ピカピカの社会人一年生だった。しかし、このときの桜の花は、小学校一年生で見た内田村のものとは趣(おもむき)を異にし、華の都・東京で散り残っていた。桜の花は学び舎だけにかぎらず、そののちのわが人生行路の折節についてまわり、眺める風景は違っても、私自身を存分に愉しませてくれた。同時に桜の花は、常にわが小心を鼓舞し、強く生きるように励ましてくれた。換言すればわが人生行路は、桜の花との二人三脚とも言えるものだったのである。私には来年、還暦が訪れる。還暦とは、六十歳の異称という。そして古来、還暦の言い伝えには、六十年まわって再び、生まれた年の干支(えと)に還るというものがある。実際のところ私の場合は、童心すなわち小学校一年生の頃へ還るのであろう。だとしたら還暦、すなわち定年退職のおりに見る桜の花もまた、よみがえるピカピカの小学校一年生の気分で見たいものだ。しかしながらそれは、意図して還暦にことよせたわが切ない願望にすぎない。もとより、当時のように華やいだ気分で眺めることはできないであろう。欲のツッパリだけれど定年退職のおりに、仮にピカピカの小学校一年生の気分で桜の花を眺められたら、それこそ「祝還暦」に万々歳である。この先の一年のめぐりにあっては、私はできるだけそれが叶うように心して、身を引き締めた日常生活に努めようと決意する。そして、六十年を耐え忍び、再び迎える第二の人生のスタートにあっては、一陣の風に散り急ぐ桜の花のように、すぐに躓(つまず)き落ちないよう気張ろうと思う。実際の定年退職日は、きりよく西暦2000年(平成12年)9月末日である。できれば桜の花の散り際にあやかり、他人様に惜しまれて第二の人生へステップアップしたいものである。『桜つれづれ』、すなわち私は、つれづれに桜の花と総じて桜木のことを書いてきた。あらためて、なぜ? 書いたのかと、自問を試みる。答えは桜の花の咲き様と散り様が、私のみならず人生行路の浮き沈みに似かよっているからである。共に「哀歓」があれば、共に「哀感」だけの場合もある。桜の花は咲いて人に楽しみを与えて、散ることで人を悲しませる。人生行路もほぼ同様である。だから私は、桜の花にかこつけて、わが人生行路を心象に映して見たかったのである。桜の花はただ美しいだけで、人の心を惹くものではない。桜の花は咲いて散ることによって人に、ときには歓(よろこ)びと哀しみを(哀歓)をもたらし、またときには哀しみだけを(哀感)つのらせるのである。これこそまさしく、桜の花と人生行路がぴたりと符合し、共鳴するところでもある。両者共に、「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)あり」。これにも人は共感をおぼえて、人生行路の折節に桜の花と出合うと人は、茨道を桜の花と共に歩むのである。 桜の花をめぐるいろんな思いを胸に収めて、私は桜の花の下を歩いて行く。時を合わせるかのようにウグイスが、「ホケキョ、ホウケキョケキョ」と、鳴いている。桜前線の北上を待っていても、待つほどには桜の花は、私の前に長居をしてくれない。桜の花が自然界の摂理に遭遇し、一夜にしていのちを絶った光景を何度目にしたことだろう。桜の花のいのちの絶ち方は、みずからの病葉(わくらば)や桜木が枯れたせいではなく、多くは風の吹き荒らしのせいである。だから、その光景を見るときの私には、余計切なさが込み上げる。ときには澄み渡る青空の下、そよ風さえ吹かないなかで、チラチラと舞い落ちる花びらを見ることはある。しかしながら、桜の花のいのちの絶ち方の多くは、大嵐、小嵐、強風はたまた微風にとどまらず、一陣の風が吹けば追い立てられるようにあちこちへ舞って、落ち場所がわからないままに地上のどこかにべたつく。桜の花が有終の美を飾ろうと花吹雪を満目に見せると人は、「まあ、綺麗」と言って、桜の花に愛惜と称賛の思いを募らせる。これこそ古来、「桜の花は咲いて良し、散りてまた良し」と、言われるゆえんである。鳥のように飛翔あるいは滑空する花びらを見上げて人は、散り際の美を誉めそやすのである。密をなしていた花びらは散りじりになりながら人の目に、終焉の華やかさを見せて舗道に舞い落ちて、こんどは花絨毯を敷き詰める。桜の花の大団円は、バラバラになろうと、再び密になろうと、絵にも描けない晴れ姿である。ところがこれにはまた、常に切なさがともなって、桜の花が人にさずける美的風景でもある。もちろん人の終焉は、こんな感興にはなれない。散り際の美的風景にあずかる人の心は、散りゆく桜の花の嘆きなどつゆ知らず、しばしその見事さに酔いしれる。一方、心ならずも有終の美を飾った桜の花は、その先には一年間の眠りに就く。そして、薫風に葉桜が緑を深める頃や、晩秋に朽ち葉が紅色や黄色に染まる頃には、こんどは桜の花に替わって桜木自体が束の間、また人の口の端に上るのである。こののちの桜木は、葉っぱを落とし尽くして、裸木をさらけ出して冬ごもりに入る。そして、いっとき桜木は、人の口の端から消えてゆく。いやときには、「桜木には毛虫が着き易いから、わたしはサクラが大嫌いです」などと言われて、お門違いの声に晒されることもある。この季節の桜木は耐え忍ぶことこそが、再び訪れるわが世の春までの美徳なのだ。強風をともなって夜来の雨が容赦なく降った朝、私は山あいの通勤道路を急ぎ足で歩いて行く。濡れた靴底のぬめりを通して、全身までもが濡れている気分になる。きのうの帰り道には夜桜として見上げた花びらは、一夜にして朝の舗道に打ちのめされていた。私は死に神にでも取り憑かれたかのような気分になり、舗道に濡れ落ちている花びらをできるだけ踏むまいと、全神経を尖らしている。ところが、思いとは逆に私は、いっそう歩度を強めて、速めて、歩いて行く。私は濡れ落ちている花びらに湧いた束の間の同情心は捨てて、鬼心に変えている。靴底にまつわりつく花びらを避けることはできない。いや、心ならずも蹴散らすばかりである。なぜなら、このときの通勤の足は、わが生計を立てるための無情の足なのだ。わが家から最寄りの「JR横須賀線北鎌倉駅」までは、急ぎ足で歩いても二十分ほどかかる。途中の山道には桜の花の頃にあっては、ソメイヨシノ、大島桜、そして野生の山桜などが、てんでんばらばらに咲いている。ところが、通勤を急ぐ私には、それらの織り成す美的風景を眺める心の余裕はない。代わりに出遭えるのは、舗道に敷き詰めている濡れた花絨毯の汚(きたな)らしい光景である。夜来の雨の上がった朝の通勤道路は、濡れた花絨毯との葛藤の場と化している。濡れた花絨毯を無下に踏むときはやはり切ない。しかし、惨(むご)たらしく踏んででも急がなければ、乗車を予定している電車に乗り遅れるのだ。私は濡れた花絨毯をさらに小汚く蹴散らし、ときには駆けて北鎌倉駅へ急いだ。乗車予定の上り電車は寸分の狂いなく、十五両を連ねて長いプラットホームに滑り込んだ。間に合って、安堵した。夜来の雨上がりの冷たい朝だったが、私は背広のポケットからハンカチを取り出して汗を拭いた。幸運にも、座れた。革靴の周りに濡れた桜の花びらがついているかどうかを確かめた。私はズボンの裾に跳ねついていた花びらを、そっとテイッシュで取り、カバンに入れて車内に目を逸らした。
ありがとうございます。
大沢さんのご実家では新鮮な野菜が収穫できそうですね。禅寺丸柿も沢山収穫できるといいですね。日本最古の甘柿はどんな味がするのでしょうか。素敵!
私も今週は月曜から二泊三日で古河の実家に行ってきました。畑周りの草取り、夏野菜(キュウリ、トマト、ピーマン、ナス、スイカ、モロヘイヤ、里芋など)を植えました。また、何物かに実をさらわれるのを覚悟しました。
次回に訪ねたらニンニクが収穫できそうです。大根は、ちょうどお手頃サイズで、葉はのびのびと育っています。妹と私と二本ずつ持ち帰りました。
禅寺丸柿の実が今年は沢山ついててます。落ちなければ良いのですが、楽しみです。♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
薔薇の花が終了する時期で残念ですね↓↓↓
個人的には、薔薇の花は”『耽美主義』を象徴する花”だと思っております☆☆☆謝罪
連載『桜つれづれ』、三日続き三日目(完結)
連載『桜つれづれ』、三日続き二日目











