坂本弘司撮影 3月最終日(31日・金曜日)の夜明け前にある(4:45)。「春眠暁を覚えず」には程遠い。熟睡に誘われず、仕方ない起き出しである。もちろん、モチベーションは低下し、文字どおり気力は損なわれている。起き出しながら、脈略なくこんなことを浮かべていた。一つは、時節柄のことで桜の花のことを浮かべていた。「花の命は短りき」。花にからんで、世の中の多くの人が認知する定番の表現である。この場合は、ずばり桜の花(花びら)をさしている。確かに桜の花には、花びら自体の弱さと、咲く期間の短さがある。これらに輪をかけて虐め尽くすのは、桜の花時をめがけて荒れ狂う雨・風・嵐の仕打ちである。ところが、弱弱しく見える花びらにも、これらに耐える意地と根性は強いものがある。私は歩きながら両手を重ねて、桜応援にパチパチ叩いた。きのうの私は、行動予定どおりに大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。そのおりの最寄りのバス停「半増坊下」までの道すがらにあっては、未だに散り残りの桜の花びらが青空に映えていた。思いがけない風景に遭遇し、私は意識して童心返りを演じていたのである。確かに、何ら脈絡はない。もう一つは、こんなことを浮かべていた。生きるためのコスト、すなわち大雑把に言えば、生きるための生活費(金、費用)の様々である。すると、真っ先に浮かんだのは、総体的に「衣・食・住」にかかる金である。もちろん、このほかにも諸々ある。大きなところでは修学にまつわる学費、社会人になっての遊興費および交際費、そして、リスキル(学び直し)を望めば新たな学費が要り用になる。さらには、終活、婚活、育活、さらには終活にも金がかかる。加えて現下、物価高で困惑を極めている電気・ガス・上下水道料などがある。なお現在、身に沁みて馬鹿にできないものでは、パソコンやスマホ、電話などの通信費がる。冠婚葬祭費では、冠婚のほうは少なくなったけれど、葬祭費は増えるばかりである。終身にあっては、様々な税金から免れることはできない。最後に書かなければならないのはやはり、心身の健康維持にまつわる限りのない医療費全般の多さである。死ぬのも、ただ(無料)では済まない。火葬や葬式代もかかる。きょうの文章は、「嗚呼、無常、無情」の抱き合わせである。夜が明けた(5:43)。こんな実のない文章など、書き殴りとはいえ、苦労して書かなければよかった。二度寝にありつけない祟りである。夜明けが訪れた。なんだかすっきりしない、桜の花びらの息の根を止めそうな雨空である。しかし、早起きのウグイスは鳴いている。今の私は、いつもなら嵌めない集音機を両耳に嵌めている。ウグイスの鳴き声を聞くためである。確かに、生きるには様々な生活費がかかる。だからと言って、みずから死に急ぐことはない。こんな気持ちになるのは、山のウグイスのおかげである。案外、桜の花もわが生存に貢献しているのかもしれない。 ピンクの花は◎ハナズオウ◎なのですね♪♪ 大沢さん、高橋さん感想の投稿ありがとうございます。 古閑さん、私たち花友(はなとも)ですね。小鳥が運んでくれた種が育って花までプレゼントしてくれたのですね。美しい色に撮れていますね。アーマンディの写真から香りがたちこめて、こちらにまで届いてきそうです。 3月30日(木曜日)、春三月のブービー日を迎えている。現在の時刻は(4:19)であり、窓の外は暗闇である。だから夜明けてみないと、天気の良し悪しを知ることはできない。ただ、きのうの気象予報士によれば、きょうの昼間は晴れになるという。気象プロの予報だから信じてはいるけれど、ときには当たり外れがある。特に、このところの自然界(気象)の営みは、雨・風・嵐をともなって、腹の立つほどの気まぐれである。それゆえに私には、気象予報士の予報に対し、かなり疑心暗鬼がつのっている。もちろん私は、予報どおりの晴れ間を願っている。なぜならきょうの行動予定には、きのう行きそびれた、大船(鎌倉市)の街への買い物がある。きのうは夜明けの頃のぐずつきを脱し、昼間へ向かうにつれて胸の透く好天気になった。まったく久しぶりのことであり、わが心身はすぐさま小躍りした。早速、わが日常生活における一つの役割に向かって、行動を開始した。私は妻に向かって、「きょうは、左近允医院へ行くよ!」と、呼びかけた。妻もこの日を心待ちにしていたのか、「そうね。パパ、一緒に行ってくれるの?」と言って相好を崩して、のろまに準備にとりかかった。当医院は住宅地内にある、わが家かかりつけの開業医院である。患者対応の男性先生の診察は、きわめて懇切丁寧かつ優しくて評判が良く、語弊はあるけれど外来患者多く、とてもはやっている。私は通院のたびに、先生のお人柄にふれている。住宅地内には一つの当院と、一つの歯科医院がある。ところが、歯科医院は一度だけ試しに行ったけれど、もうこりごりですぐさま診察券を破り捨てた。要らぬ診察券はそうでもしないかぎり、雨後のタケノコさながらに増えるばかりである。かかりつけの医院は、最寄りだからといって、済むものではない証しである。この点、左近允院が住宅地内に在るのは、天の配剤にも思えている果報である。わが家と当医院間における時間のかかり具合は、わが足であれば片道速足で約10分、ノロ足であれば15分足らずである。妻の足でも正常であれば、私とほぼ同タイムである。ところが妻は、大腿部骨折、入院、手術、そして退院以降、病身となりリ現在はリハビリのさ中にある。それゆえに妻の日常生活、とりわけ外出行動にあって私は、頼りにならない細い杖代わりの、頼りになる図体太い杖の役割を担っている。きのうは嵐が去った好天気に恵まれて、わが役割の一つを果たしたのである。そしてきょうは、もう一つのわが役割である、買い物行を予定している。幸いなるかな! きのうに続いてきょうの昼間は、晴れの予報である。現在(4:49)、夜明けの天気は知るよしない。しかしながら私は、生来のへそ曲がりを正して、気象プロの気象予報士の予報を信じている。あれれ! 五月雨式にキーを叩いて訪れた薄明りの大空は、曇天、今にも雨が降り出しそうである。いや、目に見えぬ小雨が落ちているかもしれない。山から、ウグイスの鳴き声が響けば、御の字である。 アーマンディは、雨が降っても変わらずボリューム感があり、素晴らしいですね♪♪ 3月29日(水曜日)、起きてきて、脇のカーテンを開いた。一基の外灯が闇夜を照らしている。舗面を見る。雨はない。山の枝木と葉っぱの揺れはない。ようやく、雨・風・嵐のない、夜明けになりそうである。わが脳髄は、未だ睡眠状態を断ち切れずに空っぽである。身体は水ぶくれのごとくぷよぷよし、精神は夢遊病者さながらである。身体はともかく、心境は文章を書く状態にない。このところのわが日常生活は、玄関口を出ない茶の間暮らしに明け暮れている。生存の糧の買い物にさえ行く気を止められ、おのずから食品尽きて、冷蔵庫は用無し状態にある。食品が尽きれば、命が尽きる。だからそろそろ、買い物だけには行かないと、生存自体が危ぶまれる。こんな切羽詰まった思いをたずさえて、カーテンを開いた。わが買い物の足を止めているのは、このところ荒れ狂っている雨・風・嵐のせいである。もちろん私は、これまでの経験で、「花に嵐はつきもの」と、固く覚悟していた。ところが、日を替えて吹き荒れる嵐に出遭い、わが覚悟は萎えていた。挙句、この間のわが日常生活は、まるでカタツムリのごとく動きのない、茶の間のソファに凭れるだけの日が続いている。そのせいで身体は体重が増し、(なんだか、ぷよぷよと膨れたなあ…)と、実感するところにある。加えて、外気を吸っていないせいなのか精神は、モチベーション(気力)の低下に見舞われている。もとより、こんな状態では心象風景で紡ぐ文章は書けない。無理矢理書けば出鱈目である。これを断ち切るには、効果覿面のカンフル剤にすがるしか便法はない。すると私の場合、手っ取り早い無償のカンフル剤は外出行動である。ところがそれも、遠出は望みようなく、もっぱら普段の大船(鎌倉市)の街への買い物行動にすがるだけである。いや、もう一つわが外出行動には、妻の通院における引率同行がある。ところがこのところはこちらも、嵐のせいで先延ばしになっている。共に命大事、わが買い物行と妻の通院における引率同行は、わが現在の大事な役割である。ほのぼのと夜が明けた。雨戸を閉めず、カーテンを掛けていない、前面の窓ガラスを通して眺める大空と家並みには、ほのかに朝日射し始めている。きょうは、わが日常生活における再始動に恵まれそうである。長引いた雨・風・嵐のせいで、もはや花見の行動はない。見ようにも桜の花は、視界から消えている。
起き立の妄想
♪古閑さんへメッセージです♪
教えてくださり、ありがとうございます*(^o^)/*ありがとうございます。
ピンクの花の名前は、「ハナズオウ」です。癒やされます
春三月は、ブービー
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
ピンクの花は、なんという花かわかりませんが、綺麗です♪♪ようやく、雨・風・嵐止んで、再始動
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