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私事、感慨!

「ひぐらしの記」とほぼ同時期誕生の孫娘は、中3になり関西方面の修学旅行へ旅立ちました。ひぐらしの記の継続にたいし、独り感慨ひとしおです。この間、支えてくださった皆様にたいし、あらためて伏して御礼を申し上げます。

高橋弘樹様へ 感謝!

度々のエールを賜りながら返礼を怠り、平に謝りいたします。
高橋様のエールは、わが「元気の素(基)」を成しています。
感謝にたえません。ありがとうございます。

楽しい投稿

高橋さんの植物園もいろいろな事件が起きますね。
それらは楽しい、愉快な事件ですよ。みんな生きるのに
必死なんですから。大切にしていると、目が行き届いて
いろいろな現象に出会いますから、刺激になります。
 虫たちに目を付けられて荒らされますが、それもまた
日々の活力になります。なにしろ自分の楽しみのために
やっていることなんですから楽しいです。

起きつけの「ふるさと慕情」

子ども心の一つ覚えの如くに懲りなく、無限に繰り返し書いている。望郷と郷愁は、わが心の支えである。これに、今は亡き父母や多くの兄姉(きょうだい)たちの面影を浮かべて偲べば、まさしく懐郷は鬼に金棒である。これらの思いには一点を除いて、曇りや翳りはなく常に晴れ渡っている。これまた、繰り返し書いているけれど、きょうだい中で私は、十三番目の誕生である。わが下、すなわちしんがりの十四番目に生まれた弟は、誕生後十一か月の幼児のおり、あたら命を絶った。よりによって悔恨きわまる、わが子守時(四歳半頃)の不始末による、儚い「さようなら」であった。言葉を重ねれば、わが生涯において尽きない悔恨である。わが唯一の償いは、あえて「敏弘」という名前を記して置くらいである。バカな私は、恥ずべき悔恨事を『さようなら物語』(立松和平・池田理代子・選、双葉社)に紡いで投稿した。結果は千編余りの投稿文の中から、三十八編が選ばれて単行本となり上梓された。わが投稿文も掲載されていた。華のJR東京駅近くにある、当時日本一と謳われていた大書店「八重洲ブックセンター」には、これまた当時人気作家の選のためなのか、平台に山積みされていた。決して、喜ぶべき題材ではなのに、バカな私は小躍りしてそれらを何度も手にして、意気揚々と幾冊かを購入した。それらは現在、わが書棚を飾っている。顧みれば誇らしげに飾っていると言ってならず、今では弟にたいして相済まない気持ちになり替わっている。しかしながら一方、この単行本は、この世における弟の確かな誕生の証しを記している。このことは、これまで「ひぐらしの記」に何度か書いている。自分勝手に言えば、これこそ、呻吟きわまりない「ひぐらしの記」の作者冥利でもある。それゆえ、大沢さまのご好意にたいして、感謝尽きるところはない。起き立の書き殴りにあって、こんな無粋な私事をなぜ書いたかと言えば、梅雨入りを間近にして、今や「故郷」へとなりかわった、この時期の水田風景が心中に甦っているからである。眼裏(まなうら)に浮かぶ亡き父母や兄姉の面影はみな優しく、稚(いとけな)い弟はひたすら可愛かった。水田風景にかぎらず、心中におけるふるさと情景は、常に輝いている。確かに、常々「ふるさと慕情」に浸れるのは、人間固有の特権である。そして、わが「ふるさと慕情」は、「ひぐらしの記」継続の要を成して、私は行き詰まるとそれを引き出して、これまで継続にありついてきたのである。あしからず、平に詫びるところである。梅雨入り前の朝日は、飛び切り輝いている。五月三十日(月曜日)、ふるさとの空へ、思いを馳せている。

♪大沢先生へメッセージです!!

それはたいへんですね!!
ぼくのほうも、白&薄ピンクの薔薇の葉が、体長5mm×幅1mm位の幼虫に食われていて、6匹駆除しました。
葉を丸めて存在をわからなくしているところが、なんともかしこいな、と思いました(苦笑)。
それから、黄色の薔薇は、ベランダ日光浴の時に、葉に黒い超小粒の卵のようなものを毎回産み付けられていて、フラワースタンドへ戻すときに、綿棒で除去しました。
黄色の薔薇は、ベランダへ鉢を並べる時、ベランダの最前線(柵側)に配置していたのですが、奥側に並べかえたら、産み付けられなくなりました(笑)。

めげたりしない大沢先生へ大大大エールを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

♪前田さんへメッセージです!!

そうですね、最高幹部は出所しましたが、国際手配されている7人のメンバー(内1人は女性ですね)と連絡を取る可能性もありますから、サリン事件を起こしたカルト教団同様、警視庁公安部は目が離せない、といったところでしょうね。

それらはどうであれ、今回も前田さんへ大大大エールを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

文章断ちを恐れての、いやずら書き

五月二十九日(日曜日)、すでに夜は、煌煌、満々と明けている。このところの長いずる休みを断って、きょうぐらいは何かを書かなければ、もはやこの先の執筆は、沙汰止みになりそうである。かてて加えて、肝心要のパソコンの使い方も忘れそうである。こんな恐怖に慄いてどうにか、パソコンを起ち上げている。もとより渋々状態であり、「引かれ者の小唄」の心境とは、ほど遠いものがある。せっかく咄嗟に浮かんだ成句だから、電子辞書を開いてお浚いを試みる。「引かれ者の小唄」:負け惜しみで強がりを言うこと。「引かれ者」とは、処刑のために刑場へ引かれていく者。その罪人が平気を装って、小唄を歌う意から。もちろん、現在のわが心境とは、何ら、繋がりはない。ただ、ちょっとだけ難解な、成句の復習を試みたにすぎない。きのうのテレビニュースは、かつての「日本赤軍」最高幹部、某女性の刑期終えを伝えていた。二十二年間の獄中生活だったという。この間、四度、がんの手術が行われたという。風貌を老いの姿に替えた某女性の心境など、もちろん私は知るよしない。ただ、映像に観る姿は、街中の人出の中で見る、買い物回りの同年齢の女性たちの姿とまったく変わりない。かつてのしでかしをとことん、悔いていてくれるであろうか。悪徳きわまりない事件をかんがみれば、刑期終えなど望まず、悔い疲れてくれてもいいのかもしれない。人様の人生には、もちろん測り知れないものある。「人のふり見てわがふり直せ」。こちらは、電子辞書を開くまでもなく、日常的にわが身にふりかかる成句である。何ら実のないこの文章でも、あしたへ繋がれば儲けものである。ただ、私にかぎらず人様すべて人生は、一先は藪の中である。「明日は明日の風が吹く」と、うそぶくことができないのは、わが生来の小器ゆえである。

私の畑

 今朝の畑に出てみると、昨日まで何でも無かった
緑の葉っぱは虫食いだらけになっていた。ブロッコ
リーの双葉は、茎だけの状態だ。一気に気温が上が
って、地中の虫たちが活動を始めたのだろう。
 無事な時期はほんの一瞬である。それでも私は
めげない。虫が食べるということは、安全でおいし
いからだ。虫食いも何のその。せっせと収穫をして、
手作り野菜の味を楽しみましょう。

私の畑

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我が家のベランダの畑は、雨上がりの爽やかな空気と、
輝く日光に包まれている。野菜たちは緑の葉を光らせて
元気いっぱいである。
 今朝は、サニーレタス、しその葉、大根、ラベンダー、
ミントの収穫をした。ラベンダーは玄関につるし、外出
用のマスクを一緒につるしておく。ラベンダーの香りが
マスクに移り、爽やかである。
 収穫したばかりのミントでミントティーを作った。
穏やかな朝のひとときである。