掲示板

坂本弘司撮影

遅くなった”蛇の話”をします。

 6月15日、大沢サン投稿の「ここからだいぶ戻ったところで蛇が電線に絡まって感電していて、断線したのですよ。見つけるのに時間がかかりました」に・・・交番勤務時代の昔々の事を思い出しました。
 ボクが新地の交番で勤務している時です。40過ぎの奥様風の女性が「屋上のベランダに蛇がいます。何とかして下さい」と駆け込んで来ました。
 奥さんについて行くと、2階屋根上のベランダの物干竿に、2メートル(本当はもっと小さかったのかも?)くらいの青大将が、・・・ボクは奥さんからビニールのごみ袋を貰い、青大将を入れて交番に持って帰りました。
 そして、その青大将の始末をどうするか?・・・に困りました。交番は繁華街中にあります。蛇を放す場所がありません。
 よくよく考えた末に「動物園の鷲の餌にならないか?」と思い動物園に電話しました。でも、「病原菌を持っているかも知れない、蛇は餌にはできません!」と断られました。
 ほとほと困った末に、職員に泣きつきました。そしたら、動物園の職員も、ボクに同情してくれ、「わかりました」と・・・ボクは早速、パトカーの後部座席に青大将を大事に乗せ動物園まで送りました。その後の青大将の事は知りません。

つぶやき

 故郷の想い出はつきませんね。他人の思い出でもそれに関連して遠い昔の事が蘇って、昔話に見事な花が咲いてしまいます。一日が満たされていきます。

♪大沢先生へメッセージです♪

大沢先生、感想の御投稿とタレント日記のコーナーへのUPをどうもありがとうございました。
ぼくの家は、花々の種類が少ないので、なんとか世話ができていますが、種類が豊富ですと、お手上げです!!
特に望月窯は広大ですから、毎回、先生は妹様とたいへんな労力で、お世話をされていることと思います。

本日の前田さんの《連載『自分史・私』、20日目》は、前田さんのお父様の看病の様子が描かれ、大沢先生に同感です!!
☆前田さんの素晴らしい文章力☆で描写されています☆☆

ボクの名医は相良先生

 ボクが日本一の名医と思うのは、家から坂道を下って、歩いて、2分、相良医院の二代目先生である。ボクは夏になると中耳炎で毎年、相良医院に通った。相良先生がボクの、お尻にペニシリンを撃ってくれると、耳垂れは、たちどころに治った。ボクにとっては、学校医の内田先生より、相良先生の方が、名医であった。

思いやり

 高橋さんは本当に心優しい方なんですね。物言わぬ植木の思いをちゃんと察して、お仕事が大変でも世話をなさる。野菜や植木の世話をする私でも、そこまでは気が回りません。きっとクチナシは高橋さんの思いやりに応えてくれることでしょうね。
 今回(二十日目)の前田さんの自分史は、お父さんの看病の様子が胸に迫ってきます。作品を書きながら当時を思い出し涙する作者の思いも胸に迫ってきて、一緒に泣きたくなってしまいました。読者の記憶をも呼び覚ましてくれる感動の一文でした。

連載『自分史・私』、20日目

わが家が日頃からかかりつけにしていた内田医院は、父親の老医師から二代目の長男・青年医師に代替わりをはじめていた。二代目の内田医師は、色白の眉目秀麗でお顔がふっくらとして、見るからに人格高潔で寡黙な医師だった。九州大学医学部を卒業し、インターンを終えて、父親が開いている「内田医院」へ、Uターンされたばかりだった。二代目内田医師は、一日に何度も往診に来てくださった。母の診察を終えて医院へ帰り着かれたばかりなのにまた、看護団のだれかが往診依頼へ駆けつけていた。母の病床で見守りを続けているだれかが、母の容態の変化に居たたまれず、内田医院まで20分ほどの道のりを全速力で駆けていたのである。こんな繰り返しが続いていた。母はなお、高熱に魘され、そのたびに幻覚症状が現れて、「ほら、壁に、いっぱい虫が這ってるよ」などと、意味不明の譫言(うわごと)をひとしきり唸り続けた。それが止むとこんどは、疲れ果てたのか? 死人のように眠り続けた。母の病床のかたわらで見守る者にとっては、どちらも不安だらけだった。父は内田医師の往診のたびに戸口元で爪先立って、一秒でも速く内田医師の到着を待ちわびた。内田医師が到着されるたびに父は、「助けてやってください。お金はどんなにかかってもええから、助けてやってください」と、内田医師に取りすがり歎願し続けた。現在、敏弘のことを書いたときのように私の目から、涙がぽたぽたと落ちている。内田医師の懸命の診立てにもかかわらず、母の病名は不明のままに日が過ぎてゆく。見守る者の多くは、人知れず匙を投げかけていた。表情をひた隠し、すでに絶望している者もいた。父とて、とうに諦めかけて、一縷の望みにすがっていたはずだ。しかし、自分が諦めないことが母への愛情と思い父は、耐えて内田医師にすがり続けていたのだ。父は病の母に重ねて、先妻を亡くし後添えに母を迎えて、子沢山に恵まれた人生を浮かべているのかもしれない。異母が産んだ子どもたち、母が産んだ子どもたち、共に母の支えがあってこそ、みんな仲良く輪になって、この世に存在することができたのである。「絶対に死なせてはならぬ。助けなければならぬ」。父の並々ならぬ決意には、数奇な人生を母と二人で乗り越えてきた思いがあったのであろう。不断の父には、後継の妻そして年齢差19の母への罪償いもあったのであろうか。なぜなら、亡くなった異母が遺した長男(私の異母長兄・護)には、母の妹のイツエを妻として迎えている。いや、罪償いは、父の母への最大かつ最良の配慮でもあったのであろう。日常生活における父の母へのいたわりで、私が見たエピソードにはこんなものがある。鶏をさばいていたときなど、わずかばかりとれた珍味の笹身に、父はみずから醤油をかけて、「ニワトリは笹身が一番うまいところだから、食べてみてよ。早く食べないと、だれかに食われるぞ!」と言って、箸先に摘まんでは真っ先に母の口に入れた。こんな思い出の数々が、看病する父の脳裏によぎっているのか、父は眠る母の唇を武骨な指先がそっと撫でた。「父ちゃん。なんとしても、母ちゃんを助けてあげようね」「ああ、大丈夫だ。母ちゃんはきっと助かる。助けてやらねばならぬのだ!」。父は、自分自身に言い聞かせでもするかのように強く言った。固い結束の看護団も日に日に疲弊した。方々の農家では、猫の手も借りたいほどに多忙な麦の穫り入れに併せて、一年じゅうでそれを超えてもっとも多忙な田植えの準備がはじまっていた。一日に何度も重なる内田医師の往診と、熱意ほとばしる施療だけが、並み居る看護団の頼りであった。病臥の母の寝息は、いつまでもつであろうか。

本文の追加です!!

規定では、画像は5枚までだそうですが、知らずに7枚投稿したところ、なぜか7枚はUPされましたが(驚き)、そのかわり、本文が一部欠落してしまいました(笑)。

1枚目〜3枚目は、クチナシの葉が黄色く変色した状況画像
4枚目は、植え替え後のクチナシで、黄色い葉は剪定済みの画像
5枚目は、江戸錦の落ち葉した状態画像
6枚目は、植え替え後の江戸錦です。
7枚目は、各種土と植木鉢ですが、これを1枚目に持って行きたかったのですが、間違えてしまい、申し訳ございませんでした

最近、仕事が忙しくて、まとまった時間が取れず、枯れたりしないだろうか、と毎日ヒヤヒヤ状態でした(冷汗)。
漸く植え替えができました(^^)(^^)
ですが、これでNGならば、万事休すです!!

♪HIROKIのタレント日記!!

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《クチナシ&江戸錦(椿)の鉢植え替え》
クチナシの蕾と葉が落下したり、葉が黄色に変色したり、江戸錦(椿)の葉が落下するような状況になったため、鉢の植え替えをする事にしました。
健康的な蕾や葉が落下したり、変色するという事は、根詰まりか根腐れを起こしている可能性が高い、という事になるそうです。
鉢は、画像7枚目の通り、それぞれ元鉢より1回り大きいサイズ(クチナシ⇒6号鉢・鉢の直径約18cm、江戸錦⇒5号鉢・鉢の直径約15cm)を用意して、今回の用土(花用の培養土なら簡単です・笑)は、園芸学的に(大笑)、クチナシ⇒赤玉土7:腐葉土3の割合で混ぜた土を、江戸錦⇒赤玉土1:鹿沼土1:腐葉土1の配合土を作って植え替えました。
元鉢から出した時、やはり根が集まり過ぎていて、塊のようになっていました。
できる限り、元土を振り落として、鉢の底には、根腐れ防止のため、それぞれ鉢底石を敷いて、その上にある程度、配合土を被せてから、しっかりと植え替えました。

☆前田さんへメッセージです!!☆

前田さん、即行の御返事御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*\(^o^)/
これからも前田さんの☆”大大大活躍”☆を楽しみにしております♪♪♪

髙橋弘樹様へ、感謝!

「ひぐらしの記」の誕生日を覚えていただいており、感謝申し上げます。加えて、大大大エールをたまわり、お礼申し上げます。