
坂本弘司撮影 10月7日(土曜日)、雨の無いどんよりとした曇り空の夜明けが訪れている。しかし、空の端には朝日が昇り始めて、薄っすらと光が紅色に染めている。時間を追ってきょうもまた、晩秋の日本晴れになりそうである。きのうの天候は一日じゅう満天、胸の透く日本晴れだった。10月になって初めて出合えた快晴であり、それゆえにわが肌身を潤す快感だった。たちまち私には、これでこそ好季節の恵みと思えていた。好天に釣られて私は、出かけて二つの行為を叶えた。一つは、最寄りの掛かり医院・S院へ出向いて、インフルエンザの予防注射を打った。新型コロナウイルスの7回目の予防注射は、当院で一週間前に済ましていた。ところが、このときの私は初めて、注射後の二日間はあちこちに痛みが生じ、気分の滅入りに晒されていた。幸いにもインフルエンザの予防注射の後は痛みなく、平常心が保たれている。インフルエンザの予防注射を済ますと当院を出て、すぐ近くのバス停「北鎌倉台」から、巡ってきたバスに乗車した。行き先は、いつものわが買い物の街・大船(鎌倉市)である。買い回る店は通常と変わりない。真っ先に出向いた店は、野菜と果物の安売り店「大船市場」である。ところが、見慣れている店内の様相は、見た目一変していた。それはまさしく、秋モードだった。売り場の野菜には、大した変化は見られなかった。売り場模様を大きく変えていたのは、西瓜売り場に代わる秋の果物のお出ましだった。中でも、いよいよ王者、双璧を成す、柑橘類と柿の並びようだった。柿はふるさと便ですでに味見していた。けれど私はまた柿を買い、もちろん蜜柑を買った。ヨロヨロ足取りでわが家へ帰ると、茶の間の妻と共に、柿、蜜柑、そして茹で栗で、果物の秋を堪能した。栗に関して言えば、二度目のふるさと便で賜っていた。一度目は庭柿と共に、市販の栗が段ボールに詰められていた。送ってくれたのは、共に亡き長兄夫婦の次女・姪っ子だった。二度目の栗は、共に亡き長姉夫婦の長女・姪っ子だった。こちらは、自家の栗山の収穫作業に多忙を極めている最中の贈り物だった。段ボールには大きめの網袋に詰められていた栗が、なんと四袋も入っていた。次に予定されているふるさと便は、獲れ立てのふるさと産新米である。毎年、この手はずをしてくれるのは、長姉夫婦の長男・甥っ子である。きのうの私は、10月になって初めて、途切れていた文章を書いた。それゆえにきょうの文章は、たった一日で継続を断たないためだけの殴り書きである。朝日が昇り始めて、視界一面が明るくなった。ただ、わが心中の明かりは、いまだロウソクの灯り程度である。 10月6日(金曜日)。「スポーツの日」(10月9日・月曜日)を含む、明日(10月7日・土曜日)からの三連休を前にして、ようやくそれに見合う清々しい朝が訪れている。9月より月替わって10月初旬のこのところの朝は、名前負けをこうむり気候はぐずついていた。おのずからわが気分は滅入り、文章を書くことなく過ぎていた。すなわち私は、生来の怠け者に堕して、憂鬱気分に陥っていた。挙句私は、もう「ひぐらしの記」の再始動にはありつけない、思いにとり憑かれていた。惰性で書いてきただけの私は、それが途絶えると怠け者特有の安着気分に陥り、書かない安穏に耽っていた。ところが、一方では(これはまずい)とあがいて、すっきりした安穏気分ではなかった。この間の私は、身体は健康であっても、精神(力)が崩れていたのである。こんな気分は現在、満天さわやかな日本晴れに救われている。これこそ、願ったり叶ったりの晩秋の麗しい胸の透く風景である。まさしく総天然色の一大パノラマである。日本晴れの下、学び舎や地区の行政は、新型コロナウイルスにかかわる懸念が薄らぎ、運動会や体育祭の催行におおわらわであろう。確かに、わが小・中・高・大の修学時代にあっても、かつての「体育の日」(10月10日)や前後近辺は、運動会や体育祭がたけなわだった。顧みれば初回(第一回)の「東京オリンピック」(昭和39年・1964年)もまた、10月10日を開催日として、10月24日までを会期にしていた。これらを鑑みれば現在は、春夏秋冬すなわち一年の中にあっても、最も好季節と言えそうである。だったら、メソメソしていたら大損である。挙句、私は「牛にひかれて善光寺参り」の心境で、ようやく途切れていた文章の始動に漕ぎつけている。しかし、こんな文章ではもちろん、確かな継続はおぼつかない。けれど、再始動の足しになればと願っている。大海原とまがう日本晴れの青さは、朝日に光ってキラキラいや増している。 古閑さん、御返事と解説の御投稿どうもありがとうございます。*(^o^)/*\(^o^)/ 大沢さん、高橋さんありがとうございます。左の花は、サンパラソル、右側は普通の白い彼岸花です。 古閑さんちのお庭にも秋の風が吹き始めたようです。お花たちも元気を吹き返し、精一杯風情を漂わせています。折しも昨夜は中秋の満月が輝いて、金色の滴を花々にふりそそいだことでしょう。 2枚目の赤い彼岸花は素晴らしいですが、3枚目は、白い彼岸花でしょうか? いい感じです♪ 中秋の名月(9月29日・金曜日)の夜明けにちなんで、こんなことを心中に浮かべています。今さらのことだけれどそれは、「ひぐらしの記」がわが人生にもたらしている恵みです。まさしく数々あれども、ほんのさわりだけを記します。もちろん恵みに高低差はなく、すべてが平等の恵みです。大沢さまに出会えて厚意を賜り、わが生涯学習の実践の場を得たことです。わが長年のわが夢の一つには、一冊の単行本を書くことがありました。ところが夢叶い、なお増して、100号到達への正夢を望めるところまできています。対面は叶わずとも、たくさんの友人・知人に出会えたことです。文章にはたえず苦しみながらも一方では、常に心中に字句(言葉や文字)探しを浮かべていることです。するとこのことでは、薬剤に勝るわが認知症予防になっていることを実感しています。確かな実益としては、「ひぐらしの記」を書くことで、わが最も恐れていた語彙の忘却をかなり防ぐことができました。「ひぐらしの記」は願ったり叶ったり、定年後の有り余る時間を埋める役割を果たしてくれました。もとより「ひぐらしの記」の発端の意志は、定年後の日暮らしの空白を埋めるこのことでした。すると「ひぐらしの記」は、それを十分すぎるほどに叶えてくれました。総じて「ひぐらしの記」は、日々呻吟しながらもわが枯葉のような人生に、瑞々しく潤いのある人生をもたらしてくれました。もちろん「ひぐらしの記」を書くことで、わが能力の乏しさ、マイナス思考や愚痴こぼし、さらには生来の小器を存分に自認しました。しかしながらこれらは、賜った恩恵すなわち幹の太さに比べれば、小さな枝葉にすぎません。きょうの寝起きにあっては、心中にこんなことを浮かべていて、素直にそのことを書いています。秋の夜明けは今朝もまた、今にも雨が落ちそうな曇り空です。しかしながら願い叶えば、時を追って晴れ間が現れて、宵闇から夜間にかけては満天、輝く月光を仰いで、文字どおり「中秋の名月」を堪能したいものです。「ひぐらしの記」を書かなければ、こんな自然界の恩恵さえ忘却し、いたずらにそして無駄に、命を縮めているはずです。日頃、「ひぐらしの記」には呻吟しているにもかかわらず、表題は「ひぐらしの記、礼賛」と、するつもりです。オマケに、「中秋の名月」を添えるかもしれません。なぜなら、こんな殊勝な心模様になったのは、中秋の名月のおかげでもあるからです。 9月28日(木曜日)、今にも雨が降り出しそうな、曇天の夜明けが訪れている。夏の朝の爽やかさに比べて、このところの秋の朝は、曇り空多く名前負けの朝である。確かに、すっきりと晴れた、夜明けに恵まれていない。このぶんでは、明日の中秋の名月も雲に隠れて、危ぶまれるところである。「ひぐらしの記」は随筆集と銘打っているが実際には、とうに私日記に成り下がっている。このことでは、私は大法螺吹きの恥晒しである。もちろん、命題に恥じず随筆風に、気を入れて書きたい思いは山々である。しかし、起き立てに書く文章はままならず、もとよりそんな大それた芸当はできない。挙句にはもう書けない心境をたずさえて、パソコンを起ち上げている。わが切ない楽屋話である。これまでこんな心境の吐露、何度繰り返し書いてきたことだろう。まさしく、大恥の重ね塗り状態である。書けば継続文の足しにはなるという、独り善がりの思いがあるのであろう。もちろんこんな文章では、大沢さまの「前田さん、何でもいいから、書いてください」という、お言葉の範疇外である。心して、詫びたいところである。自分の文章が書けなければ、マスメディアの報じる配信ニュースを拝借していたときもあった。しかしながらそれも、今では面倒くさくなっている。それなに、出来立てほやほやの第88集には、「夢の100号、実現へ、再スタート」と、銘打っているである。なんだか空夢、丸出しで、これまた恥じ入るばかりである。夢を追って、こんな文章があと何年か続けば、自分自身うんざりである。確かに、早々に見切りをしたほうがわが身のためである。雨の降り出しを恐れて、連れ立って散歩を急ぐ、人の話し声が聞こえてくる。今の私は、両耳に集音器を嵌めて、キーを叩いている。ウグイス、セミ、山鳥の声は無く、一匹のリスが電線を這っている。おやおや、曇りの雲間から朝日が昇り始めている。中秋の名月を眺めて、気分直しを肖(あやか)るのは虫が良すぎだろうか。しかし気分直しは、自分自身では叶わず、満天の「お月さん」すがりである。 9月27日(水曜日)、夜明けが遅くなり、未だに夜の佇まいです(4:58)。きのう(9月26日・火曜日)で、秋彼岸が明けました。いよいよ季節は、中秋から晩秋へ向かいます。つれて夜長は日々深まり、また寒気は加速度をつけていや増して行きます。秋彼岸を境にして肌身にあたる風は、すっかり冷たくなりました。この秋もまた私は、自然界現象(気象)に度肝を抜かれています。これにかかわる人間の知恵(暦・カレンダー)とて、まさしく驚異です。なぜなら、まったく嘘を吐くことなく、いやほぼ寸分たがわずに、自然界のめぐりを表しています。「暑さ寒さも彼岸まで」。確かに私は、この成句の真髄を痛切に感じています。秋彼岸に応じて、道端には彼岸花が咲いています。わが世の夏を惜しんで鳴き騒いでいたセミの声は、今やまったく途絶えています。おそらくどこかで、空蝉(うつせみ)の姿で樹木の小枝にはりついているのでしょう。きのう、茶の間にはキリギリス(ギメ)が飛び込んできました。ヤモリやムカデなら形相を変えて慌てふためく妻は、落ち着いた口調でこう言いました。「パパ、殺しちゃダメよ。捕ったら、窓の外へ逃がしてよ」「わかってるよ」。私は利き手の右の手の平を広げて、パタッとキリギリスにかぶせ、一発で捕りました。そして、妻の言いつけどおりに玄関口へ向かい、ドアを開けて、玄関灯が光る宵闇に放しました。キリギリスは喜んで、飛び立ちました。ところがこの後、異変が起きました。ムカデが茶の間に闖入(ちんにゅう)し、茶の間は阿鼻叫喚に晒されました。ムカデは常置のスプレーを用いて、二人してやっとこさ殺しました。ネタのない文章は、尻切れトンボのままに結びます。きのうの文章の二番煎じを用いれば、ふるさとでは赤トンボが尻を揺らしてのどかに飛び交っているはずです。ふるさと便の柿と栗は、すでに食べ尽くしました。現在はふるさと産の新米の宅配を待っているところです。薄曇りの夜が明けました。
季節は秋モード
頃は好し、だが…
♪古閑さんへメッセージです♪
白い彼岸花も素晴らしいですね♪
サンパラソルも綺麗です♪ありがとうございます。
秋がやってきました
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
中秋の名月、「ひぐらしの記、礼賛」
恥晒しの「起き立ての迷想」
薄ノロ間抜けの文章


