「夏至」過ぎていて、慌てて書く

6月23日(金)昼間、NHKテレビは、78回目の「沖縄・慰霊の日」にかかわるニュースを盛んに報じている。毎年、同じようなニュースの繰り返しだけれど、実際には現地の風景を変えている。なぜなら、沖縄戦の記憶を伝える人たちは、年年歳歳減少するばかりである。すると、残された者がそれを知るには、記録にすがることとなる。しかしながら記録だけでは、沖縄戦の実相を知ることはできない。戦争の厳しさはやはり、体験ある者が伝えなければならない。このことを肝に銘じて私は、後がない思いで神妙に、つらいニュースを見聞きしていた。午前中はまだ、このところの悪天候を引き継いでいた。ところが、しだいに日光がさしはじめた。私は濡れていた道路の渇きぐあいを待った。(よし、掃けるぞ!)。私は掃除の三種の神機(箒、塵取り、半透明のビニール袋)を携えて、すばやく道路へ向かった。1時間ほどかけて、綺麗に掃き終えた。この間、山のウグイスは、わが姿を見て安心してくれたのか、うれしくなったのか、歓迎の鳴き声を高らかに奏(かな)で続けていた。山の法面に沿って長く横列に並んでいるアジサイは、帯びていた露玉に光をあて返してひときわ輝いた。このところの私は、「ひぐらしの記」に連載物を書き続けていた。そのため、季節の日めくりを遠のけて、可惜(あたら)季節感から遠ざかっていた。だから、きょうの私は、久しぶりに心地良い季節感を味わっている。季節感忘却の筆頭はこれである。すなわち、「夏至」(6月21日・水曜日)という、文字を書かずに梅雨明け、そして夏日へ向かうところだった。人間にとっていや私にとっては、季節感を失くすことは、「生きる屍(しかばね)」同然である。確かに、ぼろ家のわが家では、ゴキブリ、ムカデの這い回る季節ではある。だからこの季節、必ずしも手放しに喜べるものでもない。だと言って季節感を失くして、いたずらに時が過ぎゆくのはもったいなくて、元も子もない。