前田さん、『ひぐらしの記第85集』の御出版、本当におめでとうございます。 1月28日(土曜日)。待っていた春が、駆け足で近づいてきた。降雪予報で驚かされたけれど、雪降りなく過ぎた。降ったとしてもこの時期の雪は、もはや冬を閉めて、春の訪れを告げる、早鐘みたいなものである。冬はもう、後ずさりはしなく、三寒四温の季節用語をたずさえて、この先一歩一歩、確かな春へと近づいて行く。ゆえに寒気を嘆くのも、いましばらくである。生きているかぎり、日々嘆くことは、ほかに数多(あまた)ある。起き立ての私は、わが身の甲斐性無しを恥じながら、亡き親(父母)の面影を浮かべて、懐かしく偲んでいる。ひとことで言えばそれは、わが不甲斐なさを省みて、親の偉さとありがたみへの追慕である。子どもの頃の私は、熊本県北部地域の山あいの片田舎にあって、子ども心特有に天真爛漫に生きていた。もちろん、生きることの困難さなど、微塵(みじん)も感じていなかった。ところが現在の私は、一女の親になり、自分自身、日々生きることの困難さを露わにしている。親は三段百姓を兼ねて水車を回し、心許ない生業(なりわい)に明け暮れていた。ところが驚くべきことには、子沢山(14人)の親業をしっかりと為していた。私は、親が生きることに苦しんだり、嘆いたりしている様子を見たことなど、ただの一度さえなかった。本来、親とはこうあるべきはずなのに不断の私は、日々生きることに四苦八苦しながら、狼狽(うろた)えかつ嘆いている。挙句、文章を書けば愚痴こぼしばかりである。なさけなくも私は、親の遺伝子を断ち、遺徳を汚(けが)している。親と子、わが親と私自身、こうも違うのかと、やはり嘆いている。しかしながら、きょうだけは親を偲んで、清々しい嘆きである。こんな文章、投稿ボタンを押すか、押すまいかと、迷っている。わが脳髄にはバカの言葉が付く、早やてまわしの春が来ているようである。春が近づいて、寒気は緩んでいる。 花、きれいに咲きましたね。一寸窮屈そうですが。 昨日は所用があって、朝九時過ぎに出かけた。大した用事ではないので十時前には帰宅した。入り口近くまで来ると、どこかで水の流れる音がした。門扉に近づくと、私が畑と呼んでいるベランダの水道管から水が噴き出している。水は屋根の樋を伝ってピチャピチャと激しい音を立てて地面に流れ落ちていた。 1月27日(金曜日)、起きて、水道の蛇口をひねった。水が出た。きのうは出なかった。きのう出なかったのは二階の蛇口だけで、一階の台所の蛇口は、いつものように水を流した。大本の水道管の破裂は免れて、二階へ延ばしている鉄管が剝き出しにあり、そのせいで鉄管がいっとき凍っていたのであろう。のちにひねると、二階の蛇口からも水が溢れた。それでも、悔やんでも悔やみきれない、確かなあばら家の証しである。それゆえにきのうの文章には、ズバリ「あばら家のつらさ」と記した。正直なところは、つらさに加えて「つらさ、かなしさ」である。水道の蛇口は、寒暖を表すには正鵠無類である。起き立てにあって体感気温は、きのうよりかなり緩んでいる。確かにわが家は、貧相、貧弱、みすぼらしい、お粗末など、いくら同義語を重ねても尽きない「あばら家」である。ようやく免れるのは、掘っ建て小屋くらいである。こんな建屋なのに私は、文章の中では意識して見栄っ張りのごとくに、「茶の間」と記している。もちろん実際には、「茶の間」と呼べる、洒落た部屋(スペース)はない。これまた正直に言えば、「茶の間、もどき」である。なぜならそこは、小さなテーブルを挟んで、相対にソファを置いているにすぎない。傍らには、テレビを置いている。壁付けのエアコンと置き型のガスストーブがある。これらの装置のせいと、老夫婦は日常生活のほとんどをここで過ごすため、おのずから私は「茶の間」と呼んでいるにすぎない。実際には、茶の間の体裁からは程遠いところである。しかしながら、あばら家のわが家にあってはここしか、嘘を承知でそう呼ぶところはほかにない。明らかな自演だけれど、「茶の間」と呼べば、心が和らぎ、気分が寛(くつろ)ぐところはある。それゆえに私は、似非(えせ)の「茶の間」にすがり、わが日常気分を癒している。いや、実際のところはソファに背凭れて、窓ガラスを通してふりそそぐ、暖かい太陽光線に鬱な気分を癒している。確かに、太陽光線のありがたさ横溢である。すると、太陽光線の恵みに応えて、不断の私は、まるで呪文のごとく「太陽礼賛」を唱えている。一方、茶の間には、わが家の日常生活のつらさが凝縮している。いや、つらさはただ一点、ここに尽きる。それは相対で見遣る、互いの老いさらばえてゆく姿である。つまるところわが家の日常生活のつらさは、互いの目から見遣る配偶者の「老いの身」の確認である。姿を変えてゆく妻を見るつらさは、ずばり現在のわが日常生活における、「つらさ、かなしさ」の筆頭である。すなわちこれこそ、「あばら家のつらさ」をはるかに凌ぐ、わが日常生活における現実である。水道水が元に戻り、寒気が緩むと、碌なことは書かない。しかしながら、書かずにはおれない、わが日常生活における、つらさ、かなしさである。 大沢先生、感想の御投稿どうもありがとうございます。 A4判 52頁 並製本(小口折り)
「邪悪の常として、それは仲間を呼び寄せる。…ほら、見るが良い、一層ひどい邪悪が、今そこにやって来た!!」 黙々として、楽しませてくれますね。満開になるとちょっと窮屈そうですね。これからまだしばらくはこのまま楽しめますね。 1月26日(木曜日)、起きて、わが甲斐性無しが身に沁みている。「しまった」、二階の水道水が出ない。デジタル時刻4:46、階段を駆け下り茶の間へ急いだ。早い目覚めではなく、たぶん、いつもの夜更かしの続きであろう? 妻は、すでに起きていた。「起きてたの? 早く寝たら…、二階の水道水が出ないよ。失敗したね」「そうなの? 困ったじゃないの! 水、出しっぱなしにしておけばよかったのね」「そうだな。失敗したね!」「水道管、破裂したのかな?」「破裂はしてないよ。凍っているだけだよ。暖かくなれば出るよ」「そうかなあー」妻は立ち上がり、台所へ行った。すぐに、ニコニコ顔で戻り、「パパ、出たわよ」と、言った。「そうか。よかったなあ…」。心塞いで余儀なく休養を決め込んでいた私は、すばやく2階へ上がり、冷え切っているパソコン部屋で椅子に腰を下ろした。長居は無用、ここで止めて再び、火の気のある茶の間へ向かう。2階の水道水はまだ出ない。☆前田静良氏『ひぐらしの記第85集』御出版☆
心よりお祝い申し上げます。
前回第84集からハイスピード出版だと思いますが、この調子で、☆第100集☆の御出版を目指されてください☆×100
大応援しています(^O^)/×100現代文藝社編集室だより
ひぐらしの記85集の発行
無味乾燥、会話を失くしつつある人間社会
前田静良著
A5判 204頁 上製本 2,000円
ISBN978-4-906933-95-2清々しい、嘆き文
高橋さんへ
我が家にも寒波襲来
この季節、私はベランダにある水道栓にはいつも神経を使ってきた。蛇口が凍ってパッキンが破裂して水漏れを起こすので、タオルの上からビニールを被せて凍るのを防いでいた。ところが今回は、その場所ではなくて、鉄管が破裂したのだった。
出かけるときには異常は無かったが、気温が次第に上がってきて、凍ったところが溶け出してせいだった。
隣の家の窓に面しているので、迷惑がかかるといけないと思い、すぐに元栓を閉めて、いつもお世話になっている水道工務店に電話をした。多分混んでいて電話が繋がらないのではないかという危惧をしながらだった。ところがすぐに繋がった。「もう少ししたら向かいます」との返事だった。有り難かった。
その後、蛇口を移動してもらい、古い鉄管は取り除いて新しく繋ぎなおし使用可能になった。使用可能になった。ほんの短い時間でも水道が使用できないのは不便である。まして災害などで断水したら大変だろうと、しみじみと何事もなく過ごせている日常を有り難いと思った。すぐに修理をしてくれる工務店の存在も有り難かった。
隣の家には迷惑をかけたことを詫びた。すると奥さんが「窓を開けたら気がついたので声をかけに行こうと思っていたのですよ」と快く応答してくれた。
いろいろな人にお世話になって暮らしていることをしみじみと心に刻んだ一日だった。日常生活のつらさ、かなしさ
♪大沢先生へメッセージです4♪
そうですね、3色にして良かったと思っています♪♪♪
窮屈なのは、購入時からそう思っていました(苦笑)。
香りですが、ぼくはそんなに鼻がいい人ではありませんので(笑)、たぶん家の中の空気の流れが、キッチン⇒寝室に向かっているからだと思われます。
寒すぎますね〜〜!!
朝から鍋物を食べて暖まったりしています。
花の声、まだ聞こえていませんが、話してみたいと思います♪♪♪現代文藝社編集室だより
パンデミック&Putin’s War ~その1
稲葉実
2,400円
ISBN978-4-906933-93-8
上記の文章はこの本の巻頭に掲載されている。プーチンの戦争と言われるロシアのウクライナ侵攻が2022年2月24日開始された。著者はいち早くその状況を「この2月嫌な月なり毒二つCOVIDの毒侵略者の毒」と詠んだ。満開のヒヤシンス
それにしても、そんなに香るものなのですね。このところ寒波襲来で、お勤め大変ですね。寒さに凍えて帰宅して、「お帰りなさい。お疲れ様」と花の声が聞こえるでしょう。心の持ちようで、いくらでも演出できますよね。声に出して、会話を楽しんでみるのもいいかもしれませんね。ちゃんと言葉を返してくれますよ。あばら家のつらさ