古閑さん、私たち花友(はなとも)ですね。小鳥が運んでくれた種が育って花までプレゼントしてくれたのですね。美しい色に撮れていますね。アーマンディの写真から香りがたちこめて、こちらにまで届いてきそうです。 3月30日(木曜日)、春三月のブービー日を迎えている。現在の時刻は(4:19)であり、窓の外は暗闇である。だから夜明けてみないと、天気の良し悪しを知ることはできない。ただ、きのうの気象予報士によれば、きょうの昼間は晴れになるという。気象プロの予報だから信じてはいるけれど、ときには当たり外れがある。特に、このところの自然界(気象)の営みは、雨・風・嵐をともなって、腹の立つほどの気まぐれである。それゆえに私には、気象予報士の予報に対し、かなり疑心暗鬼がつのっている。もちろん私は、予報どおりの晴れ間を願っている。なぜならきょうの行動予定には、きのう行きそびれた、大船(鎌倉市)の街への買い物がある。きのうは夜明けの頃のぐずつきを脱し、昼間へ向かうにつれて胸の透く好天気になった。まったく久しぶりのことであり、わが心身はすぐさま小躍りした。早速、わが日常生活における一つの役割に向かって、行動を開始した。私は妻に向かって、「きょうは、左近允医院へ行くよ!」と、呼びかけた。妻もこの日を心待ちにしていたのか、「そうね。パパ、一緒に行ってくれるの?」と言って相好を崩して、のろまに準備にとりかかった。当医院は住宅地内にある、わが家かかりつけの開業医院である。患者対応の男性先生の診察は、きわめて懇切丁寧かつ優しくて評判が良く、語弊はあるけれど外来患者多く、とてもはやっている。私は通院のたびに、先生のお人柄にふれている。住宅地内には一つの当院と、一つの歯科医院がある。ところが、歯科医院は一度だけ試しに行ったけれど、もうこりごりですぐさま診察券を破り捨てた。要らぬ診察券はそうでもしないかぎり、雨後のタケノコさながらに増えるばかりである。かかりつけの医院は、最寄りだからといって、済むものではない証しである。この点、左近允院が住宅地内に在るのは、天の配剤にも思えている果報である。わが家と当医院間における時間のかかり具合は、わが足であれば片道速足で約10分、ノロ足であれば15分足らずである。妻の足でも正常であれば、私とほぼ同タイムである。ところが妻は、大腿部骨折、入院、手術、そして退院以降、病身となりリ現在はリハビリのさ中にある。それゆえに妻の日常生活、とりわけ外出行動にあって私は、頼りにならない細い杖代わりの、頼りになる図体太い杖の役割を担っている。きのうは嵐が去った好天気に恵まれて、わが役割の一つを果たしたのである。そしてきょうは、もう一つのわが役割である、買い物行を予定している。幸いなるかな! きのうに続いてきょうの昼間は、晴れの予報である。現在(4:49)、夜明けの天気は知るよしない。しかしながら私は、生来のへそ曲がりを正して、気象プロの気象予報士の予報を信じている。あれれ! 五月雨式にキーを叩いて訪れた薄明りの大空は、曇天、今にも雨が降り出しそうである。いや、目に見えぬ小雨が落ちているかもしれない。山から、ウグイスの鳴き声が響けば、御の字である。 アーマンディは、雨が降っても変わらずボリューム感があり、素晴らしいですね♪♪ 3月29日(水曜日)、起きてきて、脇のカーテンを開いた。一基の外灯が闇夜を照らしている。舗面を見る。雨はない。山の枝木と葉っぱの揺れはない。ようやく、雨・風・嵐のない、夜明けになりそうである。わが脳髄は、未だ睡眠状態を断ち切れずに空っぽである。身体は水ぶくれのごとくぷよぷよし、精神は夢遊病者さながらである。身体はともかく、心境は文章を書く状態にない。このところのわが日常生活は、玄関口を出ない茶の間暮らしに明け暮れている。生存の糧の買い物にさえ行く気を止められ、おのずから食品尽きて、冷蔵庫は用無し状態にある。食品が尽きれば、命が尽きる。だからそろそろ、買い物だけには行かないと、生存自体が危ぶまれる。こんな切羽詰まった思いをたずさえて、カーテンを開いた。わが買い物の足を止めているのは、このところ荒れ狂っている雨・風・嵐のせいである。もちろん私は、これまでの経験で、「花に嵐はつきもの」と、固く覚悟していた。ところが、日を替えて吹き荒れる嵐に出遭い、わが覚悟は萎えていた。挙句、この間のわが日常生活は、まるでカタツムリのごとく動きのない、茶の間のソファに凭れるだけの日が続いている。そのせいで身体は体重が増し、(なんだか、ぷよぷよと膨れたなあ…)と、実感するところにある。加えて、外気を吸っていないせいなのか精神は、モチベーション(気力)の低下に見舞われている。もとより、こんな状態では心象風景で紡ぐ文章は書けない。無理矢理書けば出鱈目である。これを断ち切るには、効果覿面のカンフル剤にすがるしか便法はない。すると私の場合、手っ取り早い無償のカンフル剤は外出行動である。ところがそれも、遠出は望みようなく、もっぱら普段の大船(鎌倉市)の街への買い物行動にすがるだけである。いや、もう一つわが外出行動には、妻の通院における引率同行がある。ところがこのところはこちらも、嵐のせいで先延ばしになっている。共に命大事、わが買い物行と妻の通院における引率同行は、わが現在の大事な役割である。ほのぼのと夜が明けた。雨戸を閉めず、カーテンを掛けていない、前面の窓ガラスを通して眺める大空と家並みには、ほのかに朝日射し始めている。きょうは、わが日常生活における再始動に恵まれそうである。長引いた雨・風・嵐のせいで、もはや花見の行動はない。見ようにも桜の花は、視界から消えている。 3月28日(火曜日)。寝床から起き出し、パソコンを前にして、こんなことを浮かべている。生前の母は「三日坊主」と知りすぎて、私に対ししょっちゅう「するが辛抱、三日、三月(みつき)、三年」という、人生訓を垂れていた。すなわち母は、人生行路において辛抱することの大切さを私に諭し続けた。しかしながら私は、母の教訓に背いて、何事にも三日坊主を続けていた。今や遅し、母に謝りたい気分横溢である。一方では「ひぐらしの記」の継続に対して、草葉の陰から禿げ頭を撫でなでしてもらい、「しずよし、頑張ってるね、あっぱれだ!」と、叫んでもらいたい思いがある。母の喜んでいる姿が、沸々と心中に浮かんでいる。確かに、何事においても辛抱・我慢することは、目的を果たすためにはきわめて大切である。だからと言って辛抱することで、必ずしも目的が達せられることはない。それゆえに辛抱や我慢は、文字どおり常に辛さ、切なさ、悲しさをたずさえている。しかしながら、辛抱あってこそ目的が叶うこともまた、すべての物事の真(まこと)である。辛抱を継続に置き換えれば、こんな成句が浮かんでくる。すなわち、わが掲げる生涯学習の現場主義のおさらいである。「石の上にも三年」、「雨だれ石を穿(うが)つ」、そしてズバリ「継続は力なり」である。もちろん、類似の言葉や成句は、このほかにもたくさんある。ところが、わが貧弱な脳みそは、それらを浮かべてくれない。なぜここまで、煮ても焼いても、食えないような、突拍子なことを書いたのかと、自問を試みる。すると、自答はこうである。すなわちそれは、三年という、期間に依拠している。あんなに面倒くさがっていたマスクの着用は、「こののちの着脱は、自己判断でいいですよ!」と、言われた。長く待ち望んでいた、日本政府肝いりの御触れである。ところが私は、嬉々として「はい、そうですか」という気分にはならず、外し渋っている。ほぼ三年間の辛抱・我慢のマスクの着用は、もちろん新型コロナウイルス感染防止のためである。このことでわが身をかんがみれば、感染を免れて目的を果たしている。しかし実際のところは、三年間の慣れにすぎないものである。私は辛抱というより、三年いや、「日・月・年」の重み確(しか)と感じている三年は良くも悪くも、人間事情を変える。文意、あやふやな文章を書いてしまった。きょうの夜明けの空は、またもや確かな「雨・風・嵐」である。桜の花は、大泣きである。私は、べそをかいている。 寝起きて、慌てて書く文章は、もう限界です。鎌倉の空は、きようもまた、大嵐です。見上げる山桜は、大揺れに揺れています。 3月27日(月曜日)。自然界にあって、頃は桜の花の季節である。咲けば散る。いや、散らされる。桜の花にたいしまるで感情があるごとく、いじわる根性を丸出しにしているのは「雨・風・嵐」である。このところの桜の花にたいする雨・風・嵐の妬みと悪態ぶりには、見て反吐(へど)が出るほどである。おのずから私は、雨・風・嵐にたいする恨みつらみが絶えない。確かに、人間は感情の動物である。その証しに人間は、生まれて死ぬまで、ほとばし出る好悪(こうお)の感情に絡みつかれている。「生と死」は尊厳をともなって、「出会いと別れ」の両極にある。人間の感情にあって、命の生誕にはおおむね喜悦が付き添い、一方命の終焉には必ず悲嘆が付き纏う。命の終焉にあっては、大往生という言葉がある。ところが私には、この言葉は切なさと悲しさを隠す、まやかしに思えている。3月はきょうを含めて、残り五日の最終週を迎えている。3月は、多くの別れ(儀式)を織りなす月である。小・中・高・大の学び舎は、ほぼ卒業式を終えている。この頃では、卒園式も営まれる。実業界すなわち社会人にあっても、3月には多くの別れ(儀式)がある。それらは余儀ない定年をはじめとする退職、人事異動や職場替えなどに見られるもの、ほかにも様々な別れがある。別れには事の大小にかかわらず、去る人そして見送る人のそれぞれに、悲喜交々の感涙が溢れ出る。いや、別れには、ほぼ切なさと悲しさだけが付き纏う。けれどそのぶん、感情の動物(人間)に最も似合いの美的情景を映し出す。切なさと悲しさを和らげてくれるのは、新たな出会いである。出会いには楽しみが付き纏う。これまた、美的情景である。出会い(儀式)の多くは、月を替えて4月に訪れる。3月と4月は、おおむね別れと出会いの月である。もはや社会人崩れの私の場合は、人様の別れと出会いの情景を垣間見て、涙するばかりである。垣間見る情景の多くは、昔からこんにちにいたるまで、駅のプラットホームである。感情の動物、やはり私は、人間に生まれて幸福だったのであろう。別れと出会いに付き纏う人間の感情は、確かに悲喜交々である。しかしながらこの感情あってこそ、艱難辛苦の人生行路は、美しく彩られもする。幸いなるかな! 夜明けの空の色は、このところ雨模様を断って、ちょっとだけ明るんでいる。しかしなお、「雨・風・嵐」怪しい雨空である。癒やされます
春三月は、ブービー
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
ピンクの花は、なんという花かわかりませんが、綺麗です♪♪ようやく、雨・風・嵐止んで、再始動
三年は、人間事情を変える
もう、限界です
別れと出会い