2月末日

2月の最終日(29日・木曜日)。私は、様々なことを心中に浮かべて起き出している(3:37)。その一つ、自浄作用というのであろうか。自然界の風は、みずからしでかした罪作りを詫びて、みずから償ってくれていた。それはこのところ続いていた強風が、みずから道路上に汚く振り落とした木の葉や小枝を、わが手をかりずに綺麗に清めていたことである。このことでは、私が日課とする道路の掃除は出番を挫かれていた。いや、この表現は間違いであり、実際には出番を免れていたという表現が適当である。なぜなら、老いの身にあっては掃除をしないで済むことは、大好きな駄菓子を貪るより、ありがたく思うところさえある。風の掃除の仕方は、厭々しながら掃くわが手の出来栄えをはるかに超えて、道路の隅々にいたるまで完全無欠すなわち非の打ちどころはまったくなかった。そのたびに私は、風の冷たさに身震いしながらも道路に立ち、「強風様々の思い」をたずさえて、芥子粒ほどのゴミさえない道路を眺めていた。実際のところは、自然界の織り成す脅威に唖然として立ち竦んでいたのである。浮かんでいたもう一つをあえて書けば、私は文章を書くたびに苦悩に苛まれている。具体的にはネタなど、用意周到にかつ丁寧に浮かべず、常に書き殴っていることから生じている苦悩である。すなわちそれは、文章の出来不出来はともかく、文章を書くかぎりはネタを用意かつ丁寧に書きたい思いに背く苦悩である。そうであれば、苦悩を免れるためには、そうすればいいではないか。自己完結に対する自己矛盾、結局はわが凡庸な脳髄のせい(限界)である。このところ私は、引用文にすがり長い文章を書き続けてきた。そして、途中頓挫を恐れていた2月は、書き続けてきたことだけは果たして、完走の2月末日を迎えている。蟻の穴ほどの、わが小さな喜びである。あすから春3月、春本番にあって、2月の季節狂いは正されるであろうか。わが苦悩もまた、いくぶんでも正されるだろうか。しかしながら願っても、後者の望みは叶えられそうにない。いや、わが身にあって春の訪れは例年、断ちようないわが春愁の訪れでもある。とろあえず、閏月の2月末日にあって、完走をみずから寿(ことほ)いでいる。いつなんどきも書き殴りの文章は、わが身に堪えている。