坂本弘司撮影 4月5日(金曜日)。ウグイスのエールを聞けない、雨の夜明けが訪れている。もとより、自力では元気づけはできない。おのずから文章は、身動きの出来ない袋小路に嵌っている。ネタなくこんなことでは、「三十六計逃げるに如かず」である。だから、逃げる。起き立てに浮かんでいたのはこの成句である。「亀の甲より年の功」。長年(83歳)生きている私に、「年の功」はあるであろうかと、自問を試みる。答えは、何一つ浮かばない。結局、私にかぎればこの言葉は、お飾りの「画餅、すなわち絵に描いた餅」にすぎない。逆に、「年の徒(あだ)」を自認するところはかぎりなくある。年の徒ということばは、電子辞書をはじめ数多の国語辞典にはない。なぜなら、わが咄嗟の造語である。きょうはこんな恥さらしを書いて、継続文の足しにしようと決め込んでいる。ネタなく、休むつもりの大恥である。出会いの月4月は、あすとあさっての週末二日を終えると、いよいよ出会いは初々しい佳境状態に入る。街中には、新調の背広やスーツに身を包んだ若者の往来が激しくなる。上下左右に揺れるピカピカのランドセルを背負(しょ)う小学校一年生の登校姿は、時代は変わっても変わりない美しい絵になる光景である。見るたびにどちらも、わが思い出を懐かしくよみがえらせてくれる。過ぎた別れの月3月は、気分切なさの月である。すると、出会いの月4月は、それを撥ね退けて気分がふくよかになる月である。この気分に桜の花が味方をしてくれる。しかしながら、桜の花にすがってばかりでは、散りゆく桜と共に気分は賞味期限を迎えることとなる。やはり人は、桜の花の恵みや他力にすがることなく、自力を強めなければならない。出会いの月は半面、気分は憂鬱にもなる。たぶん、人疲れ(出会い疲れ)なのかもしれない。このことは、つらい思い出である。たった30分ほどの殴り書きとはいえ、ネタない文章は気づかれ旺盛である。ゆえに、結文といたします。雨の夜明けが、憂鬱気分をいや増しているせいもある。あれ! 本来の美声には程遠い、トレーニング中のウグイスの声が聞こえている。 《チェッカーベリー》 チェッカーベリーは、ツツジ科常緑低木、開花期:6月〜7月/結実期:10月〜3月頃で、日当たりと水はけの良い場所•酸性土壌を好み、夏は半日陰で管理するそうです。 4月4日(木曜日)。目覚めて起き出してくるままに書く文章は、貧相で何らとりえなく自分自身味気ない。文章は熟考を重ねて書けば、それなりに見栄えするところはある。わかっちゃいるけれど、そうできないのはもとより「身から出た錆」であり、直しようのないわが身の祟りである。こんな心象で書く文章には、ほぼ毎日同じような内容を書き連ねている。ゆえにそのたびに、味気なさはつのるばかりである。こんな文章に一つだけ価値を求めるのは、「継続への挑戦」にすぎない。まさしく、身勝手なふるまいである。「明日はわが身」という成句がある。きのう(4月3日)は、台湾に大きな地震が起きた。国境を限らず、地球上には地震が頻発している。もとより、明日はわが身である。成句の復習には、太身(ふとみ)が細る思いがある。地震が起きるたびにテレビ映像には、凄惨きわまりない光景が映し出される。そのたびに私は、行きたくないあの世へ、地震に遭う前に急いで行きたくなっている。この心境を身勝手というには、なぜか違和感がある。なぜなら、地震への遭遇は地球上に住むかぎり逃れられない宿命である。直近の能登半島地震をはじめ、地震が起きるたびに不可解に思うことが一つある。それは「ボランティア」(奉仕の人)にすがるだけの復旧活動(作業)を見るつらさである。もとより日本列島は、地震にかぎらずいろんな天災(天変地異)まみれである。そうであればボランティアの善意にすがるだけではなく、国が一元的に公的な防災団(機構)を備えておくべきではないだろうか。わが下種の勘繰りをめぐらせば、ボランティア活動(無償)との線引きが難しく、公的機構(有償)の設置には腰が引けているのであろうか。悲惨きわまりない災害現場の映像を見るかぎり、ボランティア活動を褒め称えるだけではあまりにもしのびなく、なさけない思いがタラタラである。きょうの寝起きの文章は、この一考にかぎられる。つらい、夜明けである。 花の写真の感想有難うございます。 4月3日(水曜日)。気象予報士の予報はズバリ当たり、きのう一日だけの好天だった。夜明けの空は、今にも雨が降り出しそうな曇り空である。ウグイスも出番を挫かれているのであろうか? エールは沙汰止みである。桜の花もきょうは、大空を仰いで(どうするべきか?)と、気迷っているはずである。私は短い文章を書いて、指先を擱くつもりでいる。私の場合は、こんな夜明けでは気分が晴れず、ずる休みである。きのうの私の行動もまた、妻をともなってズバリ予告どおりだった。当住宅地内のS医院への通院を終えると、近くの公園でしばし花見をした。ところが、この予告の行動に加えて二人は、最寄りのバス停からめぐって来たバスに乗った。バスは「大船(鎌倉市)行き」循環バスである。大船の街は、わが普段の買い物の街である。いつもはわが単独の買い物行動だけれど、きのうは妻が付き添った。帰りのバスでは、わが家最寄りの「半増坊バス停」で降りた。この先はわが家へ向かって一部、新興住宅地を開いたおり、大手デベロッパーが勝手にグリーンベルト(緑道)と名付けた狭い一本道がある。名に恥じてどうてことのない、両かたわらに植込みを成し、真ん中をコンクリートで固めた舗道にすぎない。そこには、何本かの里桜が立っている。それを眺める後背には、開発を免れた山に山桜が点在している。足を止めて眺めると、人工と野生のコラボレーション(協演)を成して桜の花が、絵になる風景を醸し出している。すでに桜見物は果たしていたけれど、二人は立ち止まり「絵になる桜風景」を眺めていた。こののちは一本道から外れて、わが家へ回る周回道路へ足を踏み入れた。突然、わが目の前に桜の花びらがコロコロと流れて来た。もちろん、数えきれるものではない。ところが、わが心中にはこんな思いが走った。(桜の花は、咲くかたわらに散るのだ!)。まさしく、「花(桜)のいのちは短りき」。両者、よく譬えられるけれど、必ずしも花(桜)のいのちと人の命は同然ではなく、人の命がはるかに長い。私は、切ない気持ちになり替わり、わが家へ着いた。腕を組む妻は、黙然と歩くことに必死だった。私には、同様の光景を見た妻の気持ちを問う勇気はなかった。あえて問えば妻は、「パパ。人の命も短いわよ」と、言ったかもしれない。短く書くつもりの文章は長くなった。短いのは花、とりわけ桜の花のいのちである。夜明けの曇り空は、雲行きが怪しくなっている。晴れの日も短く、わずかに一日だった。ウグイスの鳴き声を聞かない夜明けは、やはり物足りない。 フリージアもアーマンディも素晴しく綺麗です☆☆ 4月2日(火曜日)。明々と朝日輝く夜明けが訪れている。このことでは気持ちのいい中春の朝である。鎌倉地方も桜の開花は出そろった。きのうの気象予報士の予報によれば、晴れ間はきょう一日限りで、あすから週末頃までは雨の日が多くぐずつくと言う。この予報を聞いた傍らの妻は、「パパ。あしたは近くの花見に行きましょうよ」と言った。私は素直に「そうだね。行くよ」と相槌を打った。ところが、そのあとすぐに私は、言葉を重ねた。「あしたは、S医院へふたりして行こう、と言っていたよ」「そうだったわね。雨が降る前にはそちらが大事ね」「雨降りの通院は嫌だね」「そうね。ちょうどいいわ。S医院へ行って、帰りに近くの公園の桜を見ればいいのよ」「そうだね。そうしよう」これまた私は、素直に相槌を打った。二人にとって通院は、最も大事な日常である。まさしく、「花より団子」をしのいで、生き延びるための切ない行動である。起き立てにあってきょうは、煮ても焼いても食えない文章を書いた。しかし、老夫婦の日常生活の一端を披露したものと思えば、芥子粒ほどの価値はある。もとより、「箸にも棒にもかからない」文章ではある。それでも、夫婦共に生きている証しにはなる。「春眠暁を覚えず」。慌てふためいて書いた。朝日輝くきょう一日は、とても大切な日である。私は明日以降の悪天候を気に病んでいる。学び舎では入学式たけなわの出会いの月のスタートにあっては、私は晴れの清々しい夜明けを願っているからである。ところが予報は、わが願いを挫いている。ここで文章を閉じることでは、このところの長い文章の罪償いにはなる。 年度替わりのきょう4月1日は、切りよく月曜日からのスタートである。夜明け前にあっては、まもなく夜明けが訪れる。気象予報士の予報に狂いがなければ、雨風のない朝日輝く穏やかな夜明けであろう。夜明けの空は、そう願いたいものである。もとより、人間界および自然界共に、一寸先は闇の中である。とりわけ、天変地異に遭遇すれば人の世は、たちまち阿鼻叫喚をさらけ出す地獄絵を見ることとなる。別れの月3月から、出会いの月4月、へ替わった。おのずから、寝起きのわが心境も変わっている。しかし、必ずしも好転にありつけていないのは老齢のせいである。新年は、正月元旦に始まる。実社会の新年度は、きょうから始まる。初詣や雑煮餅を囲んでの家族団欒はないけれど、それらに似た厳かな年度初めの儀式は、実社会のあちこちで催される。学び舎であれば入学式、企業や役所であれば入社式や入庁式がある。個々人の出会いの互いの挨拶も、「初めまして、よろしく」などの言葉をともなって新鮮である。このところ身近なところで別れの光景を見たものには、テレビ映像を通しての卒業式光景がある。加えてきのう、NHKテレビを観ていると、キャスターの別れの挨拶が相次いだ。明けてきょうのテレビを観れば、新たなキャスターの挨拶が相次ぐであろう。これまたおのずから、見入るわが気分も新鮮になる。新年度になってもいっこうに様変わりしないのは、「裏金問題」を引き継ぐ政治(家)の舵取りである。これこそ旧態依然そのままであり、できれば旧(前)年度にけりをつけていてほしかった。与野党共通の政治(家)の体たらくぶりのさらけ出しである。桜の花は日本列島の地域それぞれに、開花と満開の喜びや楽しみを恵んで北上を続けている。人の営みはこの先、悲喜交々に新たな年度を移りゆく。きょうは、否応なく季節のめぐりを実感する月替わりである。残りの命を限る老いのわが身には、寂しさつのる月替わりでもある。満開の桜とて、すぐに葉桜模様になる。人間界および自然界共に、月替わりと季節のめぐりは、「つらい、時の定め」である。走り書きが速すぎて、まだ朝日は雲隠れである。それとも、予報の外れであろうか。天変地異さえなければ、どちらにも恨みつらみはない。 3月31日(日曜日)。すでに、薄っすらと夜が明けている。風雨のない、のどかな夜明けである。さらに加えれば、寒気はまったく感じられず、心の和む夜明けである。ゆえに、わが心象は穏やかである。子どもの頃の目覚め時は、「早起き鳥」(庭の鶏)の声、柱時計の響き、それでも寝起きを渋っていると、「もう、起きらんか!」という、母の声が告げた。今や、どれこれもが、懐かしい思い出である。もちろん、叶わぬことだけれどできれば、再現を望みたくなる現在の心境である。きのうの文章の文尾においては一行、こう書いている。「桜の花に加えて、彩るウグイスの声の出番も間近である」。ところが、文章を終えて両耳に補聴器を嵌めて、閉めていた雨戸を開けると、山からウグイスの鳴き声がとどいた。失態をしでかした私は、そののちあえて、こんな文章を掲示板へ書いた。「文章を閉じて、雨戸を開けたら、もう、ウグイスは鳴いている」。これに懲りて、いや本当のところは文章を書きながらウグイスの声を聞きたくて、きょうから起き立てに補聴器を嵌めている。このことは、これまでの寝起きの習わしの大きな変化である。ウグイスの声には、朝、昼、夕方、すなわちわが日常生活にあっては、無償の大きなエール(声援歌)を賜っている。その中でも起き立てに聴くウグイスの調べは、一日のスタートの勇気づけには、この上ない果報である。表現を変えれば、寝起きにウグイスの鳴き声を聞かずにやり過ごすことは、銭失いのごとくもったいない。確かに、夜明け時のウグイスの声は、喉、声、慣らしの予行演習に似て、いまだいくらか頼りない。しかしそのぶん、昼間の勝ほこったようなふてぶてしさはなく、健気に鳴いてわが耳には心地良い響きがある。幸いなるかな! いまだトレーニング中の鳴き声が耳に聞こえている。寝起き、そして朝飯前に書くわが文章は、いつも似たり寄ったりで私自身、飽き飽きしている。挙句、(もう書けない、書きたくない)心境に苛(さいな)まれている。するとウグイスは、この心境を断ち切るわが援軍をになっている。桜の花とウグイスの声のコラボレーション(協奏)、さらには暖かい陽光がふりそそげば「春本番」、いや春は中春から晩春へ向かって行く。補聴器を嵌めてウグイスの声が聞けて、朝日輝く心地良い朝が訪れている。
「年の功」なく、「年の徒」
♪HIROKIのタレント日記♪
赤い実に魅せられて、2つ購入しました。
最初から2つしかなかったですけど(笑)。
ぼくは、いつも店員のおねえさんとめいっぱい話をして、店内や店外にある花々を観賞するだけの決っして常連客とは言えない”大大大ひやかし客”もいいところなのですが、1つ¥480×2つ=¥960のところ、1つ¥200×2つ=¥400”という”半額以下セールが開催されていないにもかかわらず”情熱価格”にしていただきました*(^o^)/*\(^o^)/
ぼくの普段の行ないが良かったからでしょうか??(大笑)。
店長さんには、感謝の言葉を伝えました。
それから実は、食用にはならず(大苦笑)
観賞用だそうです↓↓
時間がある時にちゃんとした鉢に植え替えたい、と思います♪♪頻発する地震にともなう、下種の一考
高橋さんへ
絵になる桜風景、だがしかし
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
支柱が倒れたアーマンディには違和感はありませんよーー。通院と桜見物、とても大切な一日
「つらい、時の定め」
ウグイスは、わが援軍
掲示板
