ひな祭り

「ひな祭り」(3月3日・日曜日)。起き出して来て、パソコンを起ち上げる前に電子辞書を開いて、ふと浮かんだ言葉のおさらいを試みた。【口幅ったい】「身のほども考えないで大きなことや生意気なことを言う態度である」。現在(4:51)、寒気が緩んでいる。やはり私は、春の訪れが好きだ。日々、悩まされる人たちには不謹慎だけれど、幸いにも私には花粉症はない。「不謹慎」より先には、「口幅ったい」という言葉が浮かんだ。しかし、違和感をおぼえた。ゆえに、電子辞書を開いた。案の定、適当な言葉ではなかった。だから使用をやめて、不謹慎を用いた。ところが、これとて適語なのか? と、危ぶむところがある。あっさりと、「悪いけれど」と書けば、すんなりとわが意が通じたのかもしれない。わが文章の発端は六十(歳)の手習いゆえに、常に試行錯誤に陥っている。だから、心中ではいつも声なき声で、読んでくださる人たちにたいし詫びている。さて、一日の中でわが思索時間と言えるものは、起き立ての数秒間にすぎない。何事にも大袈裟好きだから大袈裟に書いた。けれど、実際のところは起き立てにあって、心中に浮かんでいることだけである。それゆえにもとより、思索と言えるものではない。現在、私は長年続けてきた新聞の購読を止めている。これまでに雑誌は、たったの一度さえも定期購入したことはない。雑誌で言えばわが子どもの頃、いや小学校低学年の一時期へ遡る。母はなぜか、「少年倶楽部(クラブ)」を定期購入(月刊)してくれていた。貪り読んだところは、漫画『のらくろ』(作者田河水泡)だった。父は、西日本新聞を購読していた。こちらでは、スポーツ記事を貪り読んだ。顧みれば「少年倶楽部」と「西日本新聞」は共に、わが「文字学びの原点」であった。書いているうちにおのずから、母と父の面影と優しさが浮き彫りになる。戦後間もない頃の片田舎において、両親からさずかっていた宝物と言える思い出である。なぜなら、そのときからこんにちにいたるまで、それら以外には教科書だけが文字学びを助けたにすぎない。私には俗にいう、読書歴や読書習慣は皆無だった。このことでは常々、「後悔、先に立たず」という、残念無念きわまりないしっぺ返しを被っている。それを補ったのはやはり、「西日本新聞」「熊本日日新聞」そして「朝日新聞」へと続いてきた新聞遍歴である。それゆえに新聞購読は、わが最期の時まで続くと思っていた。ところが、わが意志でぷっつり止めたのである。確かに、新聞の有用さがパソコンとスマホに置き換わったせいもある。しかし、本当の理由はそれよりなにより、新聞勧誘人の執拗な契約どりと、併せて悪態ぶりに腹が立ち、私は購読停止に踏み切ったのである。新聞であればどんなにいい記事(役に立つもの)であろうと、新聞配達人や販売所(雇の勧誘人)が悪態をつけば新聞は台無しである。挙句、購読停止の憂き目を見ることとなる。翻って普段の買い物にあっても、どんなに買いたいと思う物(有用商品)でも、お客対応(店員)の悪い店には二度とは行かない。思索というにはわが脳髄のみすぼらしいことを書いたけれど、これで書き止めである。薄っすらと「ひな祭り」の夜明けが訪れている。雨、風のない、のどかな夜明け模様である。