掲示板

大沢久美子撮影

♪前田さんへメッセージです♪

ぼくは、デジタルも好きですが、アナログ派でもあります♪
ユーキャンの教材はDVDもありますが、書店で本をお買い求めてもじゅうぶんに学べると思います。
デジタルに惑わされずに、ぜひ『前田さんの我が道』を突き進んでいただきたい、と思っております♪
きょうも前田さんへ大大大エールを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

高橋弘樹様へ、憧れて!

今日の文章は、デジタル機器の扱いに多能な髙橋様に憧れて、書いたものです。対面叶えば、ご教授にあずかりたい思いです。残念無念です。

わが劣等の元凶は「脳髄」

この世に呱呱の声を上げて以降こんにちにいたるまで(83歳)、私はあらゆる面において劣等感情ではなく、正真正銘の劣等につき纏われている。二字の熟語に置き換えればそれは「生来」と言える。再び置き換えれば、「生まれつき」である。確かに、生まれつきの劣等を悔いるようではバカ丸出しである。しかしながら私は、常々悔いている。だけど、どうにもならない。だから、劣等をカムフラージュして、できるだけ楽天家を装ってみる。しかしながらこれまた、生まれつきの精神惰弱のせいで、常に劣等に脅かされている。まさしく私は、どうにもならないことを悔い、嘆いている「大バカ者」である。確かに、生まれつきの劣等はどうにもならない。そして、それを悔いてもまた、どうにもならない。幸いにも身体には、劣等を自覚したり、自認するところは少ない。体躯は、人並みに生まれついている。それでも欲を言えば、10ないし15センチほど高い身長に恵まれたかった。わが生まれつきの身長は170センチほどである。だから、中・高校生時代の部活のバレーボール部にあっては、身長のことを思い続けていた。しかし、身長は伸びなかった。児童、生徒、そして学生時代にかけては、近眼が進むにつれて(死にたい!)と呟いては、絶望感にうちひしがれていた。人生の晩年にあっては、すでに白内障の手術を終えて、現在は緑内障の進行経過を見るために、半年ごとの通院を余儀なくしている。まさしくエンドレス、通院のデッドライン(死線、最終期限)は、文字どおりわが命の絶え時までである。わが両耳は、日々難聴に脅かされている。ところが幸か不幸か、こちらには(死にたい!)という、思いは免れている。いや、(できればもっと生きたい!)という、思いが渦巻いている。その表れには年末にあっての私は、それまでの安価な集音器に換えて、高額の補聴器を買った。この買い替えには、苦悩ばたつく思案をめぐらした。なぜならそれには、今はやりの「コストパフォーマンス」(元をとれるかどうか?)、すなわち、可否や是非の選択がつき纏っていた。実際のところ私は、まもなく命絶えるのに40万円強を掛ける必要があるやなしやという、切ない自問自答の呻吟に苛まれていた。生まれつきの醜面や醜男は、もちろん大損である。だけどこれこそ、悔いて嘆いてもどうなるものでもなく、ばかばかしさがつのるだけである。結局、わが身を苛む劣等のすべては、脳髄の貧弱さと乏しさに起因している。それゆえに私には手に負えない。いや、診療科あまたにわたる掛かりつけの医師であっても、まったく手に負えないものである。さて、人生の晩年にあって日々、私が悩まされているものでは、デジタル社会からこうむる様々な難儀がある。逆に言えばデジタル社会に精通や適合が叶えば、現下の私の悩みの多くは雲散霧消することとなる。しかしながらそれは叶わず、ゆえにわが日常生活は暗雲に覆われている。その元凶は、劣等な脳髄である。具体的には、パソコンおよびスマホ操作共に、いまだにひよっこのヨチヨチ歩きさながらである。それでも頼らざるを得ないデジタル社会は、わが精神を日々疲弊させている。脳髄劣等の「恨み骨髄に徹す」ばかりである。寒気が緩んでいる。そのせいか、バカなことを長々、だらだらと書いてしまった。脳髄および指先共に、劣等の証しでもある。

☆前田さんへ本日のタイトルは『我が憧れの職業☆気象予報士☆』です!!☆

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前田さん、昨日は御返事の御投稿をどうもありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

本日の『ひぐらしの記』のタイトルは、ズバリ!! 『我が憧れの職業☆気象予報士☆』です!!☆☆
ぼくもタレント気象予報士として、活動したいなぁ〜〜なんて思っていますが、まず試験に受からないですし(笑)、すぐに勢いづいてしまうタイプなので、「調子に乗るな!!」とか言われそうです(大笑)。

前田さんは、たいへん勤勉家の方ですから、生涯学習のユーキャンの通信講座で『気象予報士講座』がありますので、『ひぐらしの記』をお書きになりつつ、御自宅で学ばれたらいかがでしょうか。
さらには、『メンタルトレーニング講座』もありますので、こちらで”心を充実”されてはいかがでしょうか。
前田さんは、メンタル面のお疲れを克服されれば、今でも素晴しいですが、さらにさらに☆絶大なる能力☆を発揮される方☆だと確信しております☆

きょうも生涯現役の前田さんへ、大大大エネルギー&パワーを贈ります☆(^O^)☆/☆(^O^)☆/☆(^O^)☆/☆(^O^)☆/☆(^O^)☆/☆(^O^)☆/☆(^O^)☆/

蛇足

気象予報士は予報が外れても詫びることなく、しゃしゃと指示棒を天気図に這わせています。だから、私が憧れる職業です。今また、降雪予報をしています。

起き立ての下種の一念

1月22日(月曜日)、夜明け間近に起き出している。起き立てにあって未だ暗い中、一基の外灯の光を頼りに私は、カーテンと窓ガラスを開いて外を見た。霙や霰、雪も雨もない。寝起きの気分が落ち着く、静かな夜の佇まいである。前週末の二日にかけての降雪予報は見事に外れて、老夫婦の日常は身構えていた雪の日の難渋な生活を免れた。あえて、「見事に」と記した。もちろん、予報を外した気象予報士を嘲ったわけでなく、いや逆にかぎりなく崇めたい心境(気分)の表れである。生誕地・熊本における子どもの頃とは違って老いの身の私は、チラチラとちらつくくらいの雪降りだって、まったく望んでいない。だから、雪模様を免れた前週末の二日間の私は、カタツムリのごとくに茶の間のソファに背もたれていても、内心には明朗快活気分が溢れていた。気象予報士という職業は、高給を得てなおかつ、予報が外れても文句を言われるどころか、私の場合はいっそう誉めそやしたい気分である。それゆえにわが感慨には、(いい職業だなあ…)と、羨むところがある。いやズバリ、憧れる職業(仕事)と言っていいのかもしれない。もちろん気象予報士になるには、超難関試験を突破しなければならない。それにもかかわらず就活にあって人は、意を決して憧れの気象予報士という、職業へ立ち向かうのであろう。もちろん空夢であり、正夢にはありつけないけれど、再び職業選択の機会があれば私とて、何度落ちても受験へ臨むであろう。へそ曲がりの私の悔いごと多い述懐である。それほどに気象予報士は、私には到底叶わぬ憧れの職業である。なぜなら、当たっても外れても損のない、そしてなおかつ高級を食み、専門家として特段に崇められる職業(仕事)である。降雪予報の外れくらいであっても、こんなに気分が弾んでいる。するともし仮に、地震予報の外れであった場合の私は、気象予報士を現人神のごとくに崇めて、額づいては合掌を繰り返すであろう。気象予報士という職業は、予報が外れても敵愾心を被ることは稀である。いや、万々歳である。夜明けて、満天にのどかなあさぼらけが訪れている。このところの私は、いたずらに長い文章を書き続けて疲労困憊にある。それゆえにきょうは、心身休めにこれで結文とする。表題のつけようはないけれど、何かを考えよう。

高橋弘樹様へ、一言御礼申し上げます

いつもながらの励ましを賜り、御礼申し上げます。ただ、老いの身をかえりみず力みすぎているため、冷や水を浴びています。

実のないごちゃまぜの文章

1月21日(日曜日)。きのうの「大寒」を過ぎて気象は、この先の春へ向けて、いよいよ「擂り鉢の底」を這い上がる。だけど、その歩みはチンタラチンタラであり、たったの一日の経過くらいでは、寒気の緩みは感じられない。寒気は未だ、大寒の中にある。気象とて駆け上がる虫けらのごとくに、途中でずり落ちたり、転げ落ちたりする。春待つ人間にすればそれは、思いがけない寒気のぶり返しであったり、時ならぬ雪降りへの遭遇である。天界のことにしろ、人間界のことにしろ、物事は筋書きどおりに進むことはきわめてまれである。おとといの気象予報士は、きのうときょうにかけての降雪予報をしでかした。あえて、「しでかした」と書いたのは、わが咄嗟の悪知恵である。真夜中(2:12)にあって私は、掛かるカーテンを撥ね退けて、しばし窓ガラス際に佇み、目を凝らして外気を確かめた。すると小雨が降っていて、道路の濡れが一基の外灯の光で照り返された。この先、小雨が雪に変われば、気象予報士の予報はぴったしカンカンとなる。職業柄、心ある気象予報士は、気を揉んでいるかもしれない。いや、「気象のことなど、おれの知ったこっちゃない!」。気象予報士はこう嘯いて、轟々と寝息を立てているかもしれない。職業柄とは言っても、確かに気象のことに気を揉むことは馬鹿げている。なぜなら、気象予報は当たるも八卦、当たらぬも八卦。すなわち、もとより気象予報には確率という、逃げ道が用意されている。机上の卓上カレンダーにはきょうは、「初大師」という添え書きがある。私には何のことかわからず、電子辞書を開いた。「初大師:その年の初めての弘法大師の縁日」。すると、信心ある人はきょうには、新年になって初めての「お大師さん参り」をするのであろうか。私には要のない歳時(記)である。私の場合は、父、母、長兄、二兄、三兄、四兄、そして唯一の赤ん坊(生後11か月)の弟、はたまた、長姉、二姉の命日さえおぼろである。加えて異母と、それが産んだ6人の兄姉の命日ともなれば、残されている「命日一覧表」にすがるしかない。もちろん今や、これらにお墓参りは叶わず、翳る面影を浮かべるにすぎない。だから私には、他人の「お大師さん参り」など、まったく要無しである。文章書きにおけるわが60(歳)の手習いは、すでに70歳代を経て、80歳代へ進み現在は、83歳を数えている。こののち手習いは未完成のままに、まもなくわが身は棺の中に横たわる。「生涯は長い」と言う人がいる。けれど、私はそうは思わない。私の場合たぶんそれは、60の手習いさえ果たせず、命が尽きそうだからであろう。もっと具体的に言えばそれは、「ひぐらしの記、夢の100号の製本(単行本)」は、果たせずじまいになりそうだからである。きのうの掲示板上には「現代文藝社編集室だより」として、主宰者の大沢さまより、「ひぐらしの記89集」の発行案内が載った。もとより、わが書き殴りの文章を大沢さまのご厚意で、編まれ続けている製本(単行本)である。これにちなんで私は、類語を浮かべて電子辞書を開いた。それらの語句は、刊行、出版、上梓などの類である。なぜなら私は、これらの語句には違和感をおぼえていた。そして、当を得た「発行」に安堵した。発行であれば単に、製本(単行本)になっただけでのことであり、頷けるところがある。「夢の100号」、確かにそれを叶えるには、もはやわが命は足りそうにない。気力にはすでに翳りが見えている。生来の怠け心は安楽を貪り、2か月余の空白を招いた。そしてこののちの再始動は、2週間余で早や息切れ状態にある。だから、60の手習いの未完成と生来の怠惰心を重ねて鑑みれば、「夢の100号」までの残りの11集は、夢のまた夢、夢まぼろしである。立って再び、窓ガラスから外を覗いた。小雨のままである。ごちゃまぜの文章はここで閉じないと、身体ふるえるままにいたずらにエンドレスになりそうである。デジタル時刻は、3:32と刻んでいる。

㊗︎前田静良氏『ひぐらしの記89集 また、朝が来た』御出版㊗︎

前田さん、『ひぐらしの記89集 また、朝が来た』の御出版おめでとうございます㊗︎㊗︎
心からお祝い申し上げます。
新年から『ひぐらしの記』は、”快進撃”を続けられていて、たいへん嬉しく思っております*(^o^)/*\(^o^)/
☆『ひぐらしの記100集』へ向けて、さらなる大大大エールを贈ります☆(☆_☆)☆×100

現代文藝社編集室だより

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前田静良著「ひぐらしの記89集 また、朝が来た」を発行いたしました。
A5判 上製本(カバー有り)202頁 2、000円
ISBN978-4-911025-04-8