物心つきはじめの文章体で、「段葛の花見」

4月9日(火曜日)。軽やかなウグイスの鳴き声に変わり、雨の音がつれなく響く夜明けが訪れています。春の雨は、きのう見た桜の花が心配です。半面、春の雨は、心地良い寝坊を誘っていました。花見それにともなう疲れは、共に心地良さを恵んでいました。挙句、寝坊助に陥り、物心つきはじめの頃の文体で、走り書きを始めています。きのう、妻と連れ立って歩いたり、立ち止まって仰いだりした花見通りは、「鶴岡八幡宮」の参道を成す「段葛(かずら)」でした。段葛とは、「若宮大路」の真ん中道に一本道を成す、約500メートルの古来の参道です。両側には参道のどこかしこに見られる(売らんから剥き出しの)店舗が連なっています。私はきのうの文章の予告に違わず、ヨチヨチいやヨロヨロ歩きの妻をともなって、段葛の花を目当てに、桜見物を愉しみました。長い段葛の両側には、桜木がほぼ等間隔に、(きょうこそが満開だ!)と誇るかのように咲きそろっていました。ただ残念無念だったのは、このことです。すなわちそれは、桜の花と美的コラボレーション(協演)を成す青空は、今にも雨が落ちてきそうな曇り空に出番を挫かれていたことです。ところがそれにも構わず小道は、歩いてはすぐ立ち止まりカメラを向ける花見客、そして花とそれらの人を交互に眺めて歩く人の群れの往来で、雑踏を極めていました。しかしながら普段の雑踏と比べると、花見客が寄り合う雑踏には文句のつけようはありません。花見の雑踏には、桜の花と出会う人たちの笑顔を交互に見る心地良さがあります。ところが一方、私は往来する人の波の中にあって、「浦島太郎」の心境をたずさえていました。単刀直入に言えば久しぶりに訪れた鎌倉の街は、見知らぬ「異人の街」へ変容していました。私には雑音まがいの言葉を聞き分けたり、わが顔すれすれの異人の顔を見分けたりできる能力(脳力)はありません。ただただ私は、久しぶりに訪れた鎌倉の街の変容ぶりに驚いて、半ば花見そっちのけで妻を労わりながら歩きました。花見どきの段葛そして鎌倉の街は、わが未知の「異国の街」へ様変わっていたのです。驚きと同時に、わが心中にはうれしさが込み上げていました。それは世界共通、人類共通、そして桜の花見の楽しさもまた人共通と、実感できたことです。ウクライナとロシア、イスラエルとガザ地区には、桜の花はないのでしょうか。なければ、苗をやればいいです。時期は遅くなりましたが数年後には、荒れ果てた街に、桜の花が咲き誇るでしょう。夜明けの雨は、勢いを増して降り続けています。(濡れて行こう…)。春雨でないのは無念です。私には、「段葛の桜」が危うく偲ばれています。