掲示板

坂本弘司撮影

ありがとうございます。

 高橋さん花の感想有難うございます。ハナズオウの花もほめていただき喜んでいることと思います。黄色の花は大沢さんも書いておられるように山吹です。

ありがとうございます。

 大沢さん花の感想有難うございます。大沢さんの花の感想を読んでいると何だか良い物語を読んでいるようで嬉しくなります。ありがとうございます。

小鳥もお手伝い

古閑さんちのお庭は小鳥も奥様のお手伝いですね。種まきをしなくても芽が出て、その芽を大切に奥様が育てて、お礼に花を咲かせてくれる。何だか心も体も爽やかになった気がします。
一重の山吹が咲いていますね。酔芙蓉も若葉が出て、夏の太陽を待ち望んでいるのでしょう。
ハナズオウは小鳥の恵みで花盛りです。心地よい朝を有り難うございます。

朝書きの自戒

4月13日(土曜日)。目覚めると部屋の中は昼間のように明るい。陽射しこそそそいではいないものの、私は寝坊助を被っていた。慌てふためいて起き出すと、見渡す眺望には朝日がピカピカと輝いている。ウグイスは、朗らかに鳴いている。私は心が急いている。半面、待ち望んでいた自然界の恵み旺盛で、わが気分は晴れ晴れの夜明けである。心地良い気分は、春季節特有の恩恵、すなわち熟睡がもたらしている。まさしく、春の恵みである。一方、私は寝坊助の祟りにあっている。いや、このことは、夜明け前に書くわが習性の祟りである。もちろんこの祟りは自認し、ゆえに常に自戒している。もとより、この習性を改めないかぎり、私自身が求める文章は書けない。挙句、継続を断たないだけ目的になり替わり、いたずらに殴り書きと走り書きの協奏に甘んじる。確かに、文章の不出来はこのせいではない。ところが、独り善がりに私は、そのせいと思い込んでいる。気分は煮え切らず、常に生煮えの状態にある。みずからのせいとはいえ、恨めしいかぎりである。好気分に遭遇し、こんな文章を書くようでは、もとよりわがお里の知れるところである。実社会の年度替わり、そして出会いの月4月にあって、それぞれに人の営みは、本格稼働に入っている。季節は初春、桜の花の頃の中春を過ぎて、晩春へ差しかかる。日々、山は緑を成し、里は葉桜を深めてゆく。ここにきてようやく、春の夜明けは落ち着いて、この先は季節の恵みをふりまいてくれるのであろうか。再び記すと、胸の透く心地良い夜明けである。これまた再び書くと、私は寝坊助を被り心が急いている。目覚めて寝起きの私は、きょうは時間なく書けない、いや書くまいと、決めかかっていた。登山家は「山があるから登るのだ!」と言う。これに倣えば私は、「パソコンがあるから、駄文を恥じず書くのだ!」。私は蚤の気概ほどの決意を固めて、パソコンに向かったにすぎない。登山家の壮大な意志と気運に比べて、なんとわが意志のみすぼらしさであろうか。とことん恥じてこの先は書けず、仕方なく指先を擱くこととする。そして、朝御飯の支度前の残された短い時間は、のどかに朝日輝く大空を両頬杖ついて眺めることとする。文章とは言えないけれど、慌てふためいてせっかく書いた文章だから反故にはせず、名づけて残し置くものである。浮かんでいる表題は、「朝書きの自戒」である。熟睡の心地良さは、切なさに変わりそうである。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

ハナズオウは、素晴しい花ですねー☆
小鳥がよい働きをしてくれたのですねo(^-^)o
黄色の花は、花の名前がわからなくて申し訳ありませんが、こちらも素晴しいです☆
酔芙蓉は、これからの生長が楽しみですね♪

庭の花

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 ハナズオウ(紫色の花)は、たまたま小鳥が庭に糞をしてその中に種が入っていたもので芽がでたとき庭の手入れをしていた妻が見つけて育てたものです。庭の隅でちょうど良かったです
 芽が出ている写真は、昨年酔芙蓉の花が終わった後、根元からバッサリ切ったその切り株から芽が出た現在の状態です。 

目覚めの、無情!

4月12日(金曜日)。晴れのない、雨の無い、曇り空の夜明けが訪れている。きょうの天気予報は聞きそびれている。そのため、この先の天気模様はわからずじまいである。「ひぐらしの記」は、すっかり「私日記」に成り下がっている。わが悔やむところである。目覚めるとしばし寝床に寝転んで、私はいつもこんな気持ちに苛まれている。一つは、「起きて、文章を書こうか、書くまいか」という思いである。一つは「この先、文章はもう止めようか、止めたいなあ…」という思いである。「ひぐらしの記」の存廃は、目覚め時の気分に起因する。直截的(ちょくせつてき)にはこのときの気分の良し悪しにある。より具体的には、モチベーション(意欲、気力)の高低にある。それが高ければ文章は書けて、なお存続志向へありつける。一方、それが低ければ文章は書けずじまいとなり、たちまち私は、潮時思考へ陥っている。目覚めると日々、こんな思いの繰り返しである。もちろんこの思いには、老いさらばえるわが身体と、それにつきまとう萎える精神(力)が加担している。さらには歳月の速めぐりにともなう、遣る瀬無さが付き纏っている。きょうは楽屋話を書いて、継続文の足しにするものである。曇り空は切れて、朝日が射し始めている。ウグイスは鳴いている。しかし、桜の花は散り急いでいる。私はなさけない心境にある。

「桜、様様」の一文

4月11日(木曜日)。目覚めて起き出し、慌てふためいてパソコンへ向かっている。夜が明けて、ほのぼのと朝日が射している。すでに、ウグイスは鳴いている。この時間、地震が起きなければ、わが心は急いているけれど、のどかな夜明けの訪れにある。しかしながらこの先、地震が起きない保証はない。少しでも揺れると、わが気分は騒擾(そうじょう)となる。春の季節のわが気分は、天候しだいである。晴れれば晴れ、曇れば曇り、雨降れば雨になる。春の天候は晴れ一辺倒ではなく、また雨ばかりでもない。まるで、一膳飯屋の日替わり飯さながらである。きょうは飛びっきり旨い、上等の晴れの夜明けが訪れている。心は急いているけれどつれて、寝起きの気分は心地良い。ところが意に反し、文章は書けない。寝起きの脳髄の空っぽに加えて、ネタ無しのせいである。それでも書こうと思えばやはり、桜の花に「おんぶにだっこ」である。きのうは、いつもの買い物の街・大船(鎌倉市)へ出かけた。用件はもちろん、買い物である。わが家と最寄りの「半増坊下バス停」間の道を往復、私はとぼとぼ歩いた。満天、大海原とまがう青空だった。地上のあちこちには、桜木が立っている。眺める山には、山桜が映えている。進む道の傍らに立つ桜木の下、私は歩を止めた。おとといの大嵐に打たれて、(もうだめかな…)という思いで眺めた桜の花は、まだかなり残っていた。確かに、葉っぱが目立つ中の花びらであり、満開どきの花は大嵐に蹴散らされていた。しかし、いまだ葉桜とは言えず、花見気分横溢である。私は往復共に立ち止り、一本の桜木の下で、花見気分にひたっていた。まさしく、天上は青空、地上は桜の花、がおりなす無償の絶景である。しばし私は、仰ぎ見る絶景に酔いしれていた。後景に山桜映える山のグラデーション(色調)も見栄えする。これらに、ウグイスの鳴き声が加わっている。青空と桜の花とそしてウグイスの鳴き声、すなわち三つ巴のコラボーレーション(協演)であった。ゆえに、桜木の下のわが気分は爽快だった。すっかり夜が明けて青空の下、朝日はいっそう輝きを増している。ウグイスは軽やかに鳴いている。耐え残っている桜の花は、きょうは散り急ぐことなないだろう。ケチな私は、書くまでもないことを書いて、継続文の足しにしたのである。「桜、様様」の一文である。

「桜雨」、そしてわが造語「桜妬み」「桜僻み」「桜潰し」

4月10日(水曜日)。この時間(4:31)はまだ暗闇で、夜明け模様を知ることはできない。体感で知り得るところは、閉めている雨戸を鳴らす風の音、身体冷え冷えの寒の戻りである。一か所、雨戸開けっぴろげの前面の窓ガラスに雨粒と雨筋はなく、雨は降っていない。きょうの昼間は晴れの予報である。おとといのわが夫婦の花見は、寸でのところで雨をとどめた、幸運な一日に恵まれた。わが夫婦の不断の行いが良いことはないのに、粋な天界の思し召しだったようだ。明けてきのうは一日じゅう風雨強く、悪たれの自然界現象に見舞われた。わが心中にはふと、「桜雨」ということばが浮かんだ。こんなことばがあるのかな? と、疑いながら電子辞書を開いた。すると、わが意にぴったりの説明書きで掲載されていた。「桜雨」:桜の花の咲く頃の雨。これだけである。なんだかそっけなく、風情もなく物足りない。だからこんどは、スマホでことばの検索を試みた。さすがに、時流のスマホの説明書きには「情」がある。【桜雨:桜の時期に降る雨は、「桜雨」「桜流し」と言います。素敵なことばの響きではありますが、花を楽しむ時間が短くなってしまうのは、少々残念な気もしますね。ただ、雨の日のお花見というのもまた乙なものです。桜の花に雫がしたたり、雨とともに少しずつ散る姿は、少し寂しさを誘うような…。いつもは味けなく感じるビニール傘も、「桜雨」「桜流し」を楽しむには、もってこいのアイテムになります】。ところがきのうの雨は、確かに桜雨には違いないけれど、憎たらしい自然界現象だった。ゆえにこれまたふと、私は心中にこんなことばを浮かべていた。「桜妬み」「桜僻み」「桜潰し」である。そしてこんどははじめから、電子辞書とスマホの両方で説明書きの有無を確かめた。ところが三つとも、いずれにもなかった。結局、この三つのことばは、きのうの大嵐同然の風雨の強さを見ながら、心中に咄嗟に浮かんだわが造語だった。三つのわが造語共通に言える意味は、「桜雨にあって、まるで桜の人気を妬み、僻み、なお潰すかのような、酷い雨の降り方」である。辞書にはなくともこの先、わが造語を心中の辞書に掲載して置くつもりである。身体の骨はポキポキ折れないけれど、寝起きの文章書きは、つくづく骨が折れるところがある。5:31、雨なく、風強い、薄っすらと朝日お出ましの夜明けが訪れている。満を持していたウグイスも鳴きはじめるであろう。ゆえに、おととい鎌倉市街・鶴岡八幡宮の参道「段葛」で仰いだ桜の花が、いっそう哀れに思えている。いや、きのうの雨の降り方には、ただただ憎さ百倍がつのったのである。なぜなら、きのうの雨の降り方には、桜雨の風情のかけらもなかったからである。きょうの晴れは、きのうの雨のつぐないにはならない。

以心伝心

ふうたろうさんの投稿に接して、写真があればいいのになあと思っていたら、気持ちが届きましたね。ちゃんと送ってくださって素晴らしい花見が出来ました。