坂本弘司撮影 4月22日(月曜日)。小雨降る夜が明けている。起きてネタなく、何を書こうかと、呻吟している。挙句、焼けのやんぱち気分である。そのせいであろうか、心の片隅にこんなことが浮かんでいる。主にそれらは、映画、ラジオ、テレビ、電話(固定・携帯)、パソコン、スマホ、加えて新聞、書籍、写真などである。言うなればこれらは、わが生涯においてさずかっている「文明の利器」(情報媒体)である。これらは折節において、「口・耳・目などの学問」を恵んできた。そして、広く社会学、わが日常において、多大な潤いをもたらしてくれた。いや過去形ではなく、今なお現在形でさずかっている。子どもの頃に限定すれば、新聞とラジオは日常生活の大きな愉しみだった。やがて、映画(写真)、電話(固定)、そしてテレビが追っかけた。この間、教科書をはじめ雑誌類(わが愛読書・少年クラブなど)では、いろんな情報をさずかった。そしてこれらは、これまでのわが生存期間(83年)において消滅することなく、いまだに社会貢献を果たしている。このことでは、悦ぶべきことであろう。子どもの頃に三本立て映画を見に出かけたときの愉しみと、テレビを初めて観たときの興奮は、今なおありありとよみがえる。わが家に固定電話が引かれたときのうれしさもまた、強くよみがえる。総じて文明の利器(情報媒体)にさずかった初っ端の興奮度は、どれもこれもが忘れがたくよみがえる。冒頭に並べた文明の利器(情報媒体)を眺めていると、まさしくそれらの進化とそれにともなう社会の変容が読み取れる。そして、これらの総括編を成す機能は、現下の「スマホ」に織り込まれている。文明の利器(情報媒体)は、この先もスマホを超えて進化を続けること請け合いである。しかしながらわが存命は短く、それにあずかることはできない。いや、もうそんな欲得はない。なぜなら、日々、スマホの扱いに翻弄されているからである。加えて、情報端末機(いろんなカード類を含めて)の進化は、日々わが足りない知能を脅かし続けている。文明の利器(情報媒体)に脅かされなければ案外、わが生涯は「楽ちん」だったのかもしれない。パソコントラブルには、寸時、怯えている。雨が強まる夜明けとはいえ、自然界の恵みにはとことん心安らぐところがある。 4月21日(日曜日)。朝日は雲隠れしているけれど、それでもすでに明るい夜明けが訪れている。地震に因る身体の揺れもなく、穏やかな夜明けである。それなのに私は、心中にこんなことを浮かべて起き出している。わがマイナス思考の文章は、確かに人様のやる気(士気)を殺いでいる。このことでは、謹んで詫びなければならない。いや、もう書いてはいけないのであろう。ところが、わがマイナス思考、そしてそれにつきまとうマイナス文章は、わが継続文の根幹を成している。このことを恥じれば、おのずから文章は沙汰止みとなる。終末人生を生きる私には、実際のところ明るいネタとそれをこしらえる能力(脳力)はない。日々、ようよう綴る文章は、生きている証しを担っているにすぎない。だから、マイナス思考の塊ではあっても、これにともなう文章が途絶えた時は、「わが絶命時」である。生来、わが性癖にはいろんな悪癖がある。もとより、精神のマイナス思考、そして文章を書けば大袈裟な表現、この二つもそれらの範疇に入る。なぜ私は、わが能力の埒外にある文章を書き続けているのであろうか。能無しの私は、こんな苦衷、止めれば済むことである。なさけなくも、この自問を常に繰り返している。このことをほぼ十分間書いて、きょうは書き止めである。なぜなら、マイナス思考の文章が人様に迷惑かけていることを案じて、心身をひととき謹慎すべきと心得ているためである。繰り返すけれどこのところ、ウグイスの鳴き声が途絶えている。マイナス思考かつそれによるマイナス文章は、ウグイスにまで迷惑をかけて、ソッポを向かれているのであろうか。終末人生はどう生きて、どんな文章を書けばいいのであろうか。雲が切れて、朝日が輝き始めている夜明けにあって、私は嘆いて、思案にくれている。 少し視点を変えてみたらいかがでしょうか? 『姫リンゴ』、先生の剪定のおかげで、たくさん花が咲いてなによりですね♪♪♪♪♪♪♪ 『藤の花』も咲いてなによりですね♪♪♪♪♪♪♪ 4月20日(土曜日)、もちろん、いい加減な気持ちではなく、必死に書いている。しかし、このところは、文章とは言えないものばかりである。ゆえに気分は、袋小路に入っている状態にある。挙句、そこから逃げ出すことにもがいている。これにちなんで心中には、二つの成句が浮かんでいる。困ったときの助太刀すがりで、電子辞書を開いた。【窮鼠猫を噛む】「絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱者といえども強者を打ち破ることがあるというたとえ」。【袋の鼠、あるいは袋の中の鼠】「追い詰められて逃げ場のないことのたとえ」。あえて、電子辞書にすがるまでもない簡易な成句である。ところがどちらも、わが現在の心象には当を得なくて、しかたなく「袋小路に入っている」という成句を用いた。ああああ…、きょうも書くまでもない文章を書いている。こんな状態のときには【三十六計逃げるに如かず】という成句(諺)がある。これまた簡易な日常語である。だけど、再び電子辞書を開いた。「形勢が不利になったときには、あれこれと策を用いるよりも、逃げてしまうのが最良の方法であるということ。また、厄介なことが起きたときには、逃げるのが得策であるということ」。厄介ではないけれど、まともな文章が書けず、私は「とんずら」を決め込んだ。【とんずら】「とん」は遁走(とんそう)、「ずら」は「ずらかる」の意。犯罪をおかして逃げることをいう俗語。もちろん、碌な文章しか書けないことは犯罪ではない。しかしながらわが心象は、それに似た状態にある。のどかに、夜明けが訪れている。ところが今朝もまた、ウグイスは朝寝坊を決め込んでいる。声援(音)無しの電子辞書しかすがれるもののない、わが身は哀れである。ウグイスは、私に愛想尽かしをしているのであろうか。たぶん、そうかもしれない。朝日は輝きを増し始めている。 大沢さん、高橋さん花の写真の感想ありがとうございます。 かわいらしい花々で古閑さんちのお庭は賑やかになりましたね。小さなお花の集まりもいいものですね。花々のささやきが聞こえてくるようです。 4月19日(金曜日)、すっかり夜が明けている。風雨まったくないのどかな朝が訪れている。きのうの寝起きは地震情報に驚いて、心が揺れた。だから私は、いつもこんな夜明けを願っている。さて、寝起きのきょうは、このことに驚いている。ウグイスもときには、朝寝坊をしでかすのであろうか。気分でも悪いのであろうか。鳴きたくない朝もあるのであろうか。晴れの夜明けにあって、ウグイスの鳴き声が途絶えている。私が「早起き鳥」になり替わり、生前の母の真似をして、ウグイスにたいし「もう、起きらんかい。さぞかし、まだ眠かろうばってん、起きらんと遅れるぞ!」と、言ってもいい。ただ、ウグイスの場合、何に遅れるかはわからない。だからただ、私自身がウグイスの鳴き声(エール)を欲しがっているのである。これぞ、朝寝坊のウグイスには大迷惑であろう。確かに私とて、朝寝坊を無理矢理起こされたら気分が悪い。それでもいくらか、鳴き声の途絶えているウグイスの体調を気遣うところである。久しぶりにわが寝起きの気分は良い。それは、昨夜のジャイアンツ戦において、タイガースが「サヨナラ勝ち」をしたからである。昨季日本一になった今季のタイガースは、これまで出足に躓いている。このこともあってきのうの勝利は、わが留飲を下げたのである。このことでは、すこぶる気分の良い寝起きなのに、ところが文章はそれに付随せず、こんな体たらくである。ウグイスはこんな私に、業を煮やし不貞腐れて、エールを止めているのかもしれない。私はエールを欲しがり、両耳には補聴器を確り嵌めている。書き始めから時間が経っているのに、ウグイスはまだ鳴いてくれない。だからと言って子どもの頃のように、ウグイスを「バカ!」呼ばわりはしたくない。なぜなら、夜明けにあってウグイスの鳴き声は、わが一日の始動にさずかるこのうえない応援歌である。こんな文章、やはり休めばよかった。わが身体には、とうに焼きが回っている。自然界は、地震情報のない、のどかな朝ぼらけを恵んでいる。
「文明の利器」(情報媒体)
マイナス思考、かつマイナス文章
♪前田さんへメッセージです♪
例えば、いつも買い物をしている店をあえて外して、他の店で買い物をしてみる、いつもの店には置いてない商品があったりするかもしれません。
すき家で食事をされる場合も、いつもの店ではなく、近隣の違うすき家で食事をしてみる、店内のレイアウトとか店員さんの雰囲気も違って、”新たな発見!!”もあるのではないでしょうか?
それから、前田さんの御自宅近くでも、普段から通らない所もあるかと思いますが、遠回りになるかもしれませんが、わざと通ってみるとか、いかがでしょうか?
景色や家並みがいつものコースと違って、”新鮮さを感じる”のではないでしょうか。
要するに、野球に例えるならば、「いつもストレートで勝負しているけれど、今度からは変化球でも勝負してみる!!」という事だと思います!!
今回も前田さんへ”大大大エール”を贈ります(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~(^^)/~~~♪大沢先生へ『望月窯だより』の感想です♪
今年は、たくさんの実が成ることでしょうね◯◯◯◯◯◯◯
画像を楽しみにしています(^^)
御母様もあちらの世界で、大喜びのことでしょうね*(^o^)/*望月窯だより
追い詰められて「とんずら」
ありがとうございます。
古閑さんちのお庭
ウグイスは朝寝坊
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