掲示板

坂本弘司撮影

無念

せっかく書いたのに、小指のへまで、パッと消えました。逃げた魚の心境です。涙は乾きません。

「天佑神助」と「天祐自助」

5月11日(土曜日)。きのうのわが願いが叶ったのかもしれない。二日続けて、朝日輝くのどかな夜明けが訪れている。ゆえに地上の人間界には、天界の恵みが溢れている。いや人間界のみならず、ウグイスは喜び勇んで鳴いている。地中の虫けらも、土の温もりを感じて蠢(うごめ)いているだろう。太陽の恵みは、森羅万象にあって偏(かたよ)りはない。おのずから私は、空中機上のパイロットの真似事をしたくなる。「視界良好。遮(さえぎ)るもの一切なし、出発進行!」。寝起きの私は、気分良好、愚痴るものはない。まさしく気分は、「天佑神助」さながらである。「天佑神助:天や神によって助けられること。天の神の助け」。普段、神様に助けられることはまったくない。けれど、「天の神の助け」であれば、電子辞書の説明文をちょっぴり信じよう。あれれ、こちらは電子辞書にはない。しかし、常にわが肝に銘じている四字熟語である。それは「天祐自助」。これは、勤務する会社の大講堂の前面上部の横断幕に、墨痕太く揮毫されていた言葉である。読み下し文にすれば、「天は自ら助くる者を助ける」でいいだろう。表現をかえれば、「天は、怠け者は助けない」。これまでの私は、確かに天の助けを授かったことは一度もない。私は、根っからの怠け者なのであろう。天界の恵みに遭って、きょうだけは愚痴るつもりはなかった。ところがやはり、愚痴ってしまった。結局、私の場合は、愚痴るネタがなければ、「ひぐらしの記」の継続はあり得ない証しである。愚痴るネタばかりでいいだろうか? と自問するけれど、是非の答えはない。私はさ迷っている。

てんとう虫のサンバ

 大沢さん、花の感想有難うございます。
 てんとう虫の写っている写真をクリックした途端に浮かんだのが「てんとう虫のサンバ」で胸の内でハミングしていました。てんとう虫なかなか可愛いですね。
 大沢さん宅ではベランダでも望月窯でもいろいろな野菜を栽培されているんですね。収穫が楽しみですね。

その調子です!

 前田さん、悪乗り結構ですよ。思わず笑っちゃいました。太陽が輝いています。愚痴こぼし、今はカラスが我が物顔に青空を飛んでいます。うるさいほどの鳴き声を響かせています。こちらも負けずに愚痴こぼしをしましょう。

古閑さんちのお庭

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初夏の朝にふさわしい薔薇の色取り、素晴らしいですね。今朝は青空です。さぞかし鮮やかに輝いていることでしょう。
 私は、毎朝のようにベランダの畑に出ます。今朝はテントウムシを菊の葉の上に見つけました。テントウムシはアブラムシを食べてくれるので、以前にはビニール袋を持って散歩がてらテントウムシ取りに夢中になりました。取ってくるとベランダの畑に放しました。でもいつの間にか姿を消してしまい、骨折り損のくたびれもうけでした。
 玉ねぎが顔を出しています。収穫は茎が倒れて葉が枯れ始めた頃ですから、まだまだですが、楽しみです。

気分の好い夜明けにあっても「愚痴こぼし」

「目に青葉山ホトトギス初鰹」(山口素堂)。5月10日(金曜日)。頃は好し、風雨なくひっそりとのどかに晴れた夜明けが訪れている。自然界の恵みはくまなく万端である。日がめぐり、朝・昼・晩は時を変えて、必ずやって来る。そうであればいつも、こんな朝を迎えたいものである。なぜなら、自然界すがりとはいえ、おのずからわが気分は爽快である。寝起きにあって、こんな気分になるのはめったにない。まさしく、天界がくれた好気分である。このところのわが気分は、滅入っている。ゆえに、天界の粋なはからいである。気分が滅入る根源は、恥を晒して文章に記してきた。反面、晒し記すことで、気分の滅入りを和らげてきた。確かな、愚痴こぼしの恩恵である。生来の「身から出た錆」、すなわち私は、小器とマイナス思考の塊である。もとより、先天の悪性を後天で矯(た)め正すことはできない。だとしたら、なにかしらの対処法を探さなければならない。すると、探し当てたところは愚痴こぼし。案外、愚痴こぼしがその役割を担っているのかもしれない。こう気分を損なう、恥晒しの文章を書いてしまった。大沢さまかさずかった「何でも良いですから、書いてください」のお言葉に、悪乗りしてしまったのである。わがお里の知れる文章である。それでも、書かないより書いたほうがましである。愚痴こぼしは、確かにわが生きるエネルギーの一端を成している。しかし、人様には迷惑至極である。朝日は、初夏の大空を青く色成している。

嵐のように、揺れ動く心象

5月9日(木曜日)。風の強い曇り空の夜明けが訪れている。パソコンを起ち上げて、心中にこんなことを浮かべている。(「ひぐらしの記」は、わが終末人生におけるわが家の破綻、加えてわが夫婦の命の絶え時に向かう文章へ成り下がっている。恥ずかしいとは思わないが、なさけない文章である)。世の中にあっては命果てるまで、日記を書き続ける人は数多いる。わがかぎりなく敬愛をおぼえる人たちである。ところが一方、年老いてまで、ブログに日常をさらけだす私日記を書く者は、ほぼ私だけであろう。このことでは、能天気な愚か者である。ゆえに私は、常に「ひぐらしの記」の潮時に苛まれている。きのうの文章『偕老同穴とも白髪』は、まさしくその証し最たるものだった。もちろん、文章を書き終えたわが気分は萎えていた。ところが早速、大沢さまは掲示板上に激励文を記してくださったのである。文中の一部を再記すればこうである。前田さんのひぐらしの記を読んで勇気づけられ励まされることもあると思います。それこそ「何でも良いですから、書いてください」。いや、この励まし文で、文字どおり励ましを得たのは私のほうである。その証しに私は、書くつもりのなかった文章を書いている。とりわけ、「何でも良いですから、書いてください」の励ましは、こんにちまでの「ひぐらしの記」継続の根幹を成してきたのである。しかしながら、何でもいい文章であってもこのところは、(もう、書いてはいけない)思いが横溢である。その理由はこれまた、きのう書いたわが文章を再記すれば、「人様の気分を阻喪している」と、思うゆえである。その確かな証しには、きのうはふうちゃん(ふうたろうさん)から、お見舞いのメールが送信されてきた。その前日にはマーちゃんから、心臓と脳の異変にまつわる励ましの電話が届いた。わがたそがれ人生は、とうに深い闇に中にある。それを綴るだけの「ひぐらしの記」は、やはり潮時なのであろう。しかし、再び大沢さまの激励文を再記すれば、「胸の内の悩みや苦しみは、遠慮せずに掲示板で吐き出してください」ともある。これまた、わが嘆き心を晴らす拠りどころである。曇り空は、風を強めて雨の夜明けになり変わっている。