よみがえる「ふるさと盆」の追想

7月14日(日曜日)。ふるさとは「7月盆」の最中(さなか)にある。起き出して、「お盆」の追想に耽っている。それぞれの御霊を浮かべている。今や、ただひとり生きているわが務めである。まぼろしの墓(前田家累代の墓碑)は、わが心中に建っている。盆にかぎらず春・秋の彼岸、あるいはときどきの墓参りの原風景は、こうである。母は「墓参りに行くばい…」と言って、決まって私を連れだした。墓参りどきの母は、野良仕事の普段着から、いくらか見栄えのする装いに替えていた。たぶん母は、道すがらに出遭う人様にたいし、気兼ねをしていたのであろう。わが子どもの頃、すなわち生家の当時の行政名は、熊本県鹿本郡内田村だった。現在の行政名は、熊本県山鹿市菊鹿町である。ふるさと言うにはやはり、内田村こそしっくりする。熊本県の北部地域に位置し、熊本、福岡、大分と県境を分け合う尾根に囲まれた内田村は、山囲いの盆地を成していた。もちろん、今なお変わらない。当時の村人のほとんどは、農業と山林の上がりを生業にしていた。何らかの仕事を兼ねていても、生計は主にそれらの上りにすがっていた。農家は狭隘な田畑、さらには家畜(牛馬)の入れようのない鍬や鎌頼みの段々畑にすがっていた。もとより、村人の生計は、自給自足を旨に営まれていた。山林へ向かう人の仕事とて、炭焼き、椎茸作り、筍(たけのこ)の掘り出しくらいで、実入りを増やす大掛かりな山働きなどなかった。それでも、村中には製材所が一軒あったから、その仕事にたずさわる人達だけは、本業として山に入っていたのかもしれない。馬車引きさんは二人ほどいた。往還(県道)には「産交バス」(九州産業交通)が定時に往復し、ときたま「〇通(丸通)」(日本通運)のトラックが走っていた。乗用車(自家用車)は見ることはなかったけれど、のちにわが家のかかりつけの「内田医院」(内田医師)」の自家用車が登場した。村中のあちこちには、よろず屋風の「なんでんもんや」の店があった。小学校と中学校(内田村立)の位置する村の中央の堀川地区には、内田医院、村役場、駐在所、文房具店、酒屋、鍛冶屋、精米所、畳屋などがあった。村中は地区ごとに、小さな集落(名)を成していた。わが生家は、「内田川」べりの「田中井手集落」に位置していた。墓は内田川から離れて、歩いて片道20分ほどの「小伏野集落」の小高い丘の上にあった。それは、父の生誕地が小伏野集落だったことに起因している。父はのちに、水車を回して精米業(所)を営むために、田中井手集落へわが生家を構えていたのである。内田医師、そしてふうちゃん地区の「原集落」の相良医院(相良医師)、ほか「谷川医院」(谷川医師)を除けば、村中の公務員(役場人や学校の先生)を含めて村人たちは、農家を兼ねて暮らしを立てていた。母が私を連れ立つ墓参りは、いつもこうだった。母は縁先のちっぽけな花壇から、自然生えみたいな草花を摘んだ。それを古新聞で束ねた。大きな薬缶にはたっぷりと川水を入れた。火付けには、大きなマッチ箱を用意した。封切らずの線香の束を携えた。私は薬缶を手提げた。野末の墓には、絶えずそよ風が吹いていた。墓標を水で浄めて、置かれている茶碗の汚れは指先でぬぐい取り、両脇の花入れには持参の花を挿げた。これらが済むと、マッチを取り出し、古新聞に火をつけた。火を線香へ移すと、燻る火を足で踏んづけて消し去った。線香立ての線香の炎がゆらゆらと空へのぼりはじめた。母は「さあ、参ろうかね…」と、言った。「うん」。私は応じた。二人は並んで腰をかがめて、墓標に向かって深々と合掌した。雨のため道路へ向かえず、時間があることをいいことにして、長々とこんな文章を書いてしまった。つくづく、かたじけない。