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オオニソガラム 高橋恵美子撮影

望月窯だより

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古河の実家に姫リンゴの木がある。小さな赤い実はりんごにそっくりで、いつだったか妹が「おいしそうだよね。食べられないのかな」と思い立ってネットで調べた。ジャムに出来るということだった。それならば、是非挑戦してみようと実が成るのを楽しみにしていたが、そう気がついたときには長い間ほったらかしにしていたので、実が成らないどころか、花も咲かなくなった。昨年は時期に合わせて剪定した。そして、今年花盛りになった。実が成るのが楽しみだ。

追い詰められて「とんずら」

4月20日(土曜日)、もちろん、いい加減な気持ちではなく、必死に書いている。しかし、このところは、文章とは言えないものばかりである。ゆえに気分は、袋小路に入っている状態にある。挙句、そこから逃げ出すことにもがいている。これにちなんで心中には、二つの成句が浮かんでいる。困ったときの助太刀すがりで、電子辞書を開いた。【窮鼠猫を噛む】「絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱者といえども強者を打ち破ることがあるというたとえ」。【袋の鼠、あるいは袋の中の鼠】「追い詰められて逃げ場のないことのたとえ」。あえて、電子辞書にすがるまでもない簡易な成句である。ところがどちらも、わが現在の心象には当を得なくて、しかたなく「袋小路に入っている」という成句を用いた。ああああ…、きょうも書くまでもない文章を書いている。こんな状態のときには【三十六計逃げるに如かず】という成句(諺)がある。これまた簡易な日常語である。だけど、再び電子辞書を開いた。「形勢が不利になったときには、あれこれと策を用いるよりも、逃げてしまうのが最良の方法であるということ。また、厄介なことが起きたときには、逃げるのが得策であるということ」。厄介ではないけれど、まともな文章が書けず、私は「とんずら」を決め込んだ。【とんずら】「とん」は遁走(とんそう)、「ずら」は「ずらかる」の意。犯罪をおかして逃げることをいう俗語。もちろん、碌な文章しか書けないことは犯罪ではない。しかしながらわが心象は、それに似た状態にある。のどかに、夜明けが訪れている。ところが今朝もまた、ウグイスは朝寝坊を決め込んでいる。声援(音)無しの電子辞書しかすがれるもののない、わが身は哀れである。ウグイスは、私に愛想尽かしをしているのであろうか。たぶん、そうかもしれない。朝日は輝きを増し始めている。

ありがとうございます。

 大沢さん、高橋さん花の写真の感想ありがとうございます。

古閑さんちのお庭

かわいらしい花々で古閑さんちのお庭は賑やかになりましたね。小さなお花の集まりもいいものですね。花々のささやきが聞こえてくるようです。

ウグイスは朝寝坊

4月19日(金曜日)、すっかり夜が明けている。風雨まったくないのどかな朝が訪れている。きのうの寝起きは地震情報に驚いて、心が揺れた。だから私は、いつもこんな夜明けを願っている。さて、寝起きのきょうは、このことに驚いている。ウグイスもときには、朝寝坊をしでかすのであろうか。気分でも悪いのであろうか。鳴きたくない朝もあるのであろうか。晴れの夜明けにあって、ウグイスの鳴き声が途絶えている。私が「早起き鳥」になり替わり、生前の母の真似をして、ウグイスにたいし「もう、起きらんかい。さぞかし、まだ眠かろうばってん、起きらんと遅れるぞ!」と、言ってもいい。ただ、ウグイスの場合、何に遅れるかはわからない。だからただ、私自身がウグイスの鳴き声(エール)を欲しがっているのである。これぞ、朝寝坊のウグイスには大迷惑であろう。確かに私とて、朝寝坊を無理矢理起こされたら気分が悪い。それでもいくらか、鳴き声の途絶えているウグイスの体調を気遣うところである。久しぶりにわが寝起きの気分は良い。それは、昨夜のジャイアンツ戦において、タイガースが「サヨナラ勝ち」をしたからである。昨季日本一になった今季のタイガースは、これまで出足に躓いている。このこともあってきのうの勝利は、わが留飲を下げたのである。このことでは、すこぶる気分の良い寝起きなのに、ところが文章はそれに付随せず、こんな体たらくである。ウグイスはこんな私に、業を煮やし不貞腐れて、エールを止めているのかもしれない。私はエールを欲しがり、両耳には補聴器を確り嵌めている。書き始めから時間が経っているのに、ウグイスはまだ鳴いてくれない。だからと言って子どもの頃のように、ウグイスを「バカ!」呼ばわりはしたくない。なぜなら、夜明けにあってウグイスの鳴き声は、わが一日の始動にさずかるこのうえない応援歌である。こんな文章、やはり休めばよかった。わが身体には、とうに焼きが回っている。自然界は、地震情報のない、のどかな朝ぼらけを恵んでいる。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

春真っ只中、花々の躍動感がたくさん伝わってきています(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

寝起きに見た「地震情報」

4月18日(木曜日)。起きてパソコンを起ち上げて、いつもの習いにしたがい、メデイアの報じるニュース一覧項目を見た。すると、日本列島に大きな地震が起きていた。「2024年4月17日23時24分ごろ。震源地は豊後水道で、最大震度は6度弱、被災地は高知県、愛媛県と伝えられている。この地震による津波の心配はありません」。これだけの情報で、テレビによる地震状況、そして被害状況はまだ見ていない。最大震度6弱となれば、被災地の被害状況が案じられるところである。地震列島と異称される日本の国は、日々、いや時を空けず、どこかが揺れている。小さい揺れにはそんなに驚かないけれど、震度5弱以上であればやはり、日本列島に住むかぎり、他人事でなく驚かされる。それが、震度6弱あるいはそれを超えれば肝を潰される。確かに、震度6弱ともなれば、おのずから震源地近くの被災地は、何らかの被害は免れない状況にある。「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日)以降、地震発生には必ず、津波発生の有無が地震情報に添えられるようになっている。今年(令和6年・2014年1月一日)に起きた「能登半島地震」においてもまた、東日本大震災における津波の恐ろしさを再び見せつけられたのである。それゆえに、「津波の心配はありません」という一報は、大きな安堵をもたらしてはいる。出端を挫かれてきょうの文章はここで結文にして、階下の茶の間へ向かい、テレビによる地震状況と、被災地状況を見入ることにする。もちろん、野次馬根性ではなく、被災地の安寧を願って見入ることとなる。まさしく日本列島は、地震をはじめ台風その他の天災列島である。なかでも地震は、しょっちゅうどこかで起きていて、限られた「春の異変」と言えないことは、つらくそして悲しいわが心模様をなしている。

寝起きの心境

4月17日(水曜日)。自然界は晩春ののどかな夜明けを恵んでいる。命の鼓動は休んでは困るけれど、こんな文章は休んだほうがいいのかもしれない。わが文章は惰性に支えられて、ヨロヨロと継続が叶えられている。だから、惰性が途切ればたちまち、頓挫の憂き目を見ることとなる。この恐れは、常にわが身に付き纏っている。ゆえに、おとといときのうの二日にわたりそれを恐れて私は、まるで身体が心不全の病に見舞われたような文章を書いた。すなわち私は、恥を晒してまでも惰性が途切れるのを恐れて、正気で悪あがきの文章を書いたのである。まさしく、狂気の沙汰であった。ところが、なお懲りずに三日目、きょうの文章もその延長線上にある。「ひぐらしの記」は、空虚になるはずのわが老後生活(日常)を支えている。そして、これにちなむ人様との出会いは、わが日常に限りない潤いをもたらしている。もとより、これらのことにおいては、いくら感謝してもしすぎることはない。わが身に余る僥倖、重ねて棚ぼたの宝物である。それなのにこのところの私は、書く気力の喪失に見舞われて、挙句に文章は、恐れている頓挫寸前にある。もちろん、わが独自事情であり、人様に助けをすがることはできず、みずからを鼓舞するより得手はない。きょうはこのことを書いて、惰性を繋げて、頓挫を免れる便法にするだけである。はなはだ、かたじけなく思う、寝起きのわが心境である。こんな私にウグイスは、軽やかな鳴き声で、エールを送っている。ぐうたらなわが心象が揺さぶられる、晩春の素敵な夜明けである。三日続けての無題は虚しいゆえに、打ち止めにしたいけれど、しかし決断は鈍っている。