日本のプロ野球で活躍したアメリカ黒人選手達 の出身校、アメリカ黒人州立大学の歴史

 一九八四年に当時の球団、阪急ブレーブスのアメリカ黒人の強打者、ブーマー=ウェルズが日本プロ野球史上初めて、外国選手による三冠王を達成した。打率三割五分五厘、打点百三十、ホームラン三十七本の成績だった。
そのすぐ翌年に、阪神タイガースの「史上最強の助っ人」、アメリカ白人のランディー=バース内野手が三冠王を取り、それに続いた。
 ブーマー選手が外国籍の日本プロ野球史上初めての三冠王を取得したのは画期的な業績だが、その他に、もう一つの意味で歴史的な偉業なのだ。日本の野球評論家や野球ジャーナリストなどには知識がないので知られていないが、ブーマー選手はアメリカの黒人大学の出身であることだ。つまり、外国人としての初めての三冠王は、アメリカの黒人大学の出身者であるというのは特筆すべきことで、アメリカ黒人にとっては大変な偉業なのだ。
 ブーマー選手は、アメリカや後に日本のプロ野球界に入る前に、ジョージア州にあるオルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)という差別のあった南部諸州で、憲法修正十四条、十五条で奴隷から解放された黒人に対して、農業、工業、技術者を養成する目的で黒人のために作られた大学の一つを出たのである。(南北戦争後、黒人は解放されて自由を得たが、南部諸州は州法で、白人と黒人を分離する政策で、黒人は白人の大学に入れなかった)
 ブーマー選手の他にも、日本のプロ野球に於て活躍した大物選手、ルー=ジャクソン選手(元サンケイ=アトムズ)、ジョージ=アルトマン(東京オリオンズ、阪神タイガース)が、それぞれルイジアナ州のグランブリング州立大学、テネシーA&I大学という、やはり黒人大学出身者で、その他にも数人のそれほど活躍しなかったが、黒人大学出身の選手が、日本プロ野球に在籍した。そのことについて、日本の評論家など野球の専門家達は、野球の専門知識しかなく、アメリカ黒人史や教育史についてまったく知らないので、殆ど日本では知られていない。
 そこで、以下に於いて、日本のプロ野球界に登場したアメリカ黒人選手で黒人大学の出身者とそれら黒人大学の歴史についての列伝として記してみたい。  まず、日本のプロ野球で活躍した黒人大学出身のアメリカ黒人の選手について語る前に、黒人大学や黒人教育について述べなくてはならない。  黒人大学とは、文字通りアメリカ南部諸州に於いて、主として黒人のために黒人が通う大学だが、その大学がアメリカ南部諸州に作られた経緯は、アメリカ南部に於ける黒人奴隷制度と南北戦争後に解放された後の、黒人隔離による差別制度が主たる要因だ。
 そもそも、アメリカ大陸では、スペインが統治して以来、農業プランテーションや鉱山での安い労働力として、アフリカから多くの黒人達が奴隷という商品として連れてこられ、過酷な労働を強いられた。
 アメリカ南部では、一九八七年に独立後多少の黒人奴隷は存在したが、一八〇〇年代に入って、コットン=ジンという綿花から種をた易く取り除く機械が発明されると、アメリカ南部諸州では綿花栽培が本格的プランテーションとなり、大量の黒人奴隷が投入された。そして主として工業国で奴隷のない北部の州と南部諸州は、自由州と奴隷州として対立し、結果として南北戦争が起こる。
 奴隷には人格が否定され、十分に給与も技術も教育も与えられず、文盲だった。そこで、北部の奴隷反対の運動が起き、南部の奴隷州から北部の自由州へ黒人奴隷を逃がす運動が一部の教会を中心とした奴隷解放主義者によって行なわれた。そして、人道的見地から解放された奴隷が自立するため、読み書きや職業的技術を身につけさせる教育が施された。  南部戦争前に、読み書きを解放奴隷に教えたのが、アフリカン=フリースクールで、また、高等教育として、オハイオ州のウィルバーフォース大学や黒人教育に力を入れて、黒人にも門戸を開いたのが教会系のオバリン=カレッジで、黒人の教育者を養成するためだ。  その間に一八六一年に南北戦争が起こり、戦時中、リンカーン大統領が一八六三年に奴隷解放され、同時に連邦憲法修正十四、十五条により、自由と人権を得たが、南北戦争後北部が勝ち、南部諸州は合衆国に再編成された。しかし、南部諸州では奴隷から解放された黒人は、手に職になる技術もなく、教育もなく、読み書きが出来ず、ただ町を徘徊するだけであり、白人と一緒に生活も出来ず、また社会で一緒にやっていけなかった。そこで、南部諸州では州法を定め、白人と黒人を隔離する政策、差別が行なわれた。「隔離するが平等」(SEPARATE BUT EQUAL)政策である。
 このような中で、黒人は黒人の社会で初等教育から高等教育までを施さなければならなかった。連邦政府には、解放された黒人を支援する局が設立され、財政が計上され、粗末ではあるが、初等教育の学校も作られるようになった。また、教会や博愛主義的財団も黒人の教育に出資し、学校を作ったりした。高等教育にも、黒人の農業や職業的技能者を養成する指導者と、学校教育の教師をする目的で、教会や民間の篤志家や博愛団体の寄付及び奉仕により、南部諸州に百校以上の黒人大学が、一八七〇年代、一八八〇年代に作られた。
 教会や私立の黒人大学と州立の黒人大学があるが、現在もある州立大学は、設立の年が一八七〇年以後が多いが、初めは教会系や私立系だったものを、後に国の法で土地を与え、建物を作り、買収したり、いくつかのこれらの学校を統合して、現在の位置に移転させて、黒人の州立大学にしたものが多い。現在でも伝統的にそれら黒人大学は、白人も入学して来る場合があるが、殆どの黒人大学は九〇パーセント以上の学生は黒人である。大学の事務職も殆ど黒人だが、教員はかなりの白人が教えている。
 日本のプロ野球で活躍した黒人選手の出身校の黒人大学は、私立や教会系の黒人大学よりも奨学金を貰えた理由から、総て州立大学なので、アメリカの州立大学について述べてみることにする。
 一番最初のアメリカの州立大学は、一七八五年と一七八七年の土地条令による設立であった当時の北西部、今のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州などの独立当時に、まだ州になっていなかった土地を農業振興と人を移住するため、科学的測量を行ない、六マイル四方、六百四千エーカーの土地を人々に与えるものであった。そして国、連邦政府の財政で、一エーカー当りの土地代を入植者に与える(LAND GRANT)ものだった。大学も連邦政府の土地を与えて作られることになった。この法令には州になった所と同じ、議会や裁判所などの行政機構も規定されていた。
 さらに学校についても、連邦政府の土地と財政を与える(LAND GRANT)校があり、大学についてはHATCH法により、いくつかのLAND GRANT大学が出来た。それが、一七〇〇年代来のテネシー大、ノースカロライナ大や一八二〇年代のオハイオ大学やインディアナ大学である。  その後、南北戦争中に、ヴァーモント州選出の議員、ジャスティンS・モリルが提出したMORILL LAND GRANT法で、一七八五年や一七八七年のORDINANCEに習い、主に南部の州への移民と農業を振興するために、連邦政府が州へ財政と広大な連邦政府の土地を与え、農業工業振興のため技術者を養成するために作ったいくつかの州立大学がある。同時にHOMESTEAD法(定住法)で、農業移住者に六百四十エーカー四方の土地へ財政援助を与えた。
 この時出来た大学が、バーモント大学、カンザス州立大、アイオワ州立大学、ミシガン州立大学など、それ以後の州立大学のほとんどである。イリノイ大やテキサスA&M大も含まれる。
 そして、一八九〇年になって、「第二モリル=ランド=グラント法」と呼ばれる「AGRICULTURA COLLEGE ACT」という法により、それまで一八七〇年代から八〇年代に黒人のために作られた一部の教会系や私立の小さな大学を統合し、南部の諸州に国、連邦政府が、財政と土地を各州に提供し、黒人の州立大学として新たに設立した黒人の州立大学がいくつかある。フロリダA&M大学、アラバマ州立大学、アルコーン州立大学、ミシシッピーバレー州立大学、ルイジアナ州のサザン大学、テキサスのプレーリー=ヴューA&M大学などである。
 この間に一九〇〇年代初頭、黒人指導者、W・B・デュボア(DUBOIS、デュボイスとも呼ばれる)とアラバマのタスケギー師範職業学校の黒人校長、ブッカー・T・ワシントンとの有名な論争があり、デュボアは、黒人が差別されている状況から解放され、地位を引き上げ、差別から戦わなければならない事を説いた。そのためには教育は職業的な教育ではなく、黒人が入学を許されていない、白人の大学への高等教育が必要であるとした。一九二〇年以後、有色人種地位向上協会(NAACP)を作り、黒人が入学を認めなかった大学の法学大学院(主として南部の州立大学)を裁判に訴え戦って、州裁判所から州最高裁判所、そして連邦最高裁判所へ憲法判断を求めた。一方、ワシントンは、白人に差別されている黒人が戦いを挑んで体制を荒だたせるのではなく、忍従し、黒人の社会で手に職をつけ、生きる道をさぐるべきとして、黒人教育は職業的なものをすべきことと提唱した。
 そして、一九一四年にリーバー=スミス法により、農業拡張施設を州立大学に付属させる法律が出来、農業職業教育の充実をはかり、一九一七年のスミス=ヒューズ法により、職業教育について大学の充実がはかられた。これは、職業教育について、各州の職業教育委員会が科目や教員の質、設備などの計画を国、連邦政府の職業教育委員会に提出し、連邦政府が州との割合を決めて、それらの州立大学に財政援助するというものだ。大恐慌の時には、バンクヘッド=ジョーンズ法により農業政策のニューディールに合わせ、農業教育振興のため州立大学に援助された。  一九三〇年代に二年制の職業的郡立州立短大、ジュニア=カレッジ、後にコミュニティーカレッジが出来た。それ以後州立大学はいくつかの法律により、年代毎に作られ現在に至る。  その他州立大学と別個にアメリカには普通教育の学校での教師を養成する州立師範学校(STATE NORMAL SCHOOL)が設立され、主なものは、一八三〇年代から年々作られた。マサチューセッツ州のフラニガン=ノーマル=スクール、ミシガン州立ノーマル=スクール、現イースタン=ミシガン大学(一八四九年)、ハリス=スタウト=ノーマル=スクール、現ウイノア州立大学(一八五三年、ミネソタ州)、イリノイ=ステート=ノーマル=スクール、現イリノイ州立大学(一八五九年)、サム=ヒューストン=ノーマル=スクール、現サム=ヒューストン=州立大学(一八七九年、テキサス州)などがある。
 その後、ノーマル=スクールは一九一〇年頃から一九六〇年ぐらいまでTEACHER COLLEGEと呼ぶようになり、一九六〇年代はUNIVERSITYになった。それらの大学の名前にはサウスとかノースとか、UNIVERSITYの前に方角がついている。地域的な教育需要に合わせて設立されたからである。
 このような州立大学の傾向を念頭に置いて、日本のプロ野球で在籍、活躍した黒人選手の野球実績と、それぞれの出身の黒人大学について紹介する。  日本のプロ野球選手で最初に活躍したアメリカ黒人選手で黒人大学出身者は、一九六六年にサンケイ=アトムズ(現ヤクルト=スワローズ)に入団した、ルー=ジャクソン選手だ。ルー=ジャクソン選手は一九五八年より一九六五年まではアメリカの球団を渡り歩き、シカゴ=カブス、モントリオール=エクスポス、その間、マイナーリーグの球団をいつも渡り歩き、再びメジャー球団のシカゴ=カブスに入り、一九六五年にはボルチモア=オリオールズに在籍した。メジャーリーグの実績は、打率二割一分三厘、本塁打〇、打点七のわずかなものだった。一九六六年にサンケイ=アトムズに入団してからは主力打者として活躍し、同じく黒人のデーブ=ロバーツやホブ=チャンス選手と共にホームランバッターとして頭角を現わした。右打者でバットを強い手首で揺らす打法は、黒人の力強さを感じさせた。初めの年に本塁打二十本、打率二割五分五厘、六七年には本塁打二十八本も打つ大活躍をしたが、六八年六月に膵臓が壊死するという難病で死す。外国人選手、初の客死だった。まだ三十四才の若さでの死だった。
 このジャクソン選手が卒業した大学が、ルイジアナ州北西部の黒人の入植地に、黒人のために作られた大学、グランブリング州立大学(GRAMBLING STATE UNIVERSITY)であった。
 グランブリング州立大の起源は、一八九六年に北部ルイジアナ、有色人種農業救済協会によって、今のグランブリング大学町の西側に小さな学校を建てたことだ。学校を建設するに当り、アラバマ州にあった私立で黒人の農業工業師範学校、タスケギー=インスティチュート(TUSKEGEE INSTITUTE)のリーダー、ブッカー・T・ワシントンの教育技術援助を受け、彼の指導を受けたチャールズ=アダムスが学長となり、カラード=アグリカルチュラル&インダストリアル=スクールとなった。(黒人のための農工学校となり、一九〇五年、名前をノース・ルイジアナ・アグリカルチュラル&インダストリアル=スクールと変えた。)
 さらに一九二八年には州立JUNIOR COLLEGE(短大)となり、二年終えると修了証書を出すようになる。そして学校の名前が、ルイジアナ=ニグロ=ノーマル&インダストリアル=インスティチュートとなり、農業教育を重点に置くことになった。この学校の特色は大恐慌の後の連邦政府の方針(ニューディール政策)によりもっと強まる。一九三六年に農業教育協会の援助により、三年制の大学となり、一九四八年に学士号を出すようになった。一九四六年には初等教育学部を加え、名前がグランブリング=カレッジとなった。新しい大学の土地と多額の寄付をしてくれた製粉会社の社長P・G・グランブリング(白人)にちなんだものだ。その後、多くの建物も作られ、三百八十四エーカーに大学の敷地が広がった。その後、中等教育部や科学部、文学部や社会学部も加わり、一九四九年には南部大学及び学校協会の認可を受け、一九七七年には大学院も加え、今日のGRAMBLING STATE UNIVERSITYとなって現在に至っている。
 次に日本で活躍した黒人大学出身の黒人選手は、ジョージ=アルトマン(GEORGE ALTMAN)である。通称「足長おじさん」の愛称で呼ばれた選手で、一九六八年から一九七五年まで東京オリオンズ(現千葉ロッテ)でプレーし、一九七六年の一年だけ阪神タイガースでプレーした主力打者であった。
 ジョージ=アルトマン選手はノース=カロライナ州グリーンズボロに生まれ、一九五九年にメジャーリーグ入りし、カージナルス、ニューヨーク=メッツ、シカゴ=カブスでプレーした。一九六四年にはオリオールズで五番を打つほどの強打者であった。一九六七年までメジャーリーグで活躍し、通算成績は本塁打百一本、打点四百三、打率二割六分九厘であった。
 日本へは、一九六八年に東京オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団し、その年に打率二割二分と本塁打三十四本をマークした。オリオンズには一九七四年まで在籍し、常に二十本以上の本塁打を打てる強打者で、一九〇センチを越える長身で、「足長おじさん」とファンに親しまれた。メジャーリーグ時代は「ビッグ=ジョージ」と呼ばれた。外国人選手としては初めて通算二百本以上の本塁打を打った。また六試合連続本塁打をも記録した。一九七四年に大腸ガンで倒れ、病院に運ばれて、東京オリオンズは健康を害したことを理由として解雇したが、その後阪神タイガースで一年プレーした。日本球界での通算成績は本塁打二百五本、打率三割九厘、打点六百五十六の好成績であった。
 このアルトマン選手が出た大学が黒人大学のテネシー州立大(TENNESSEE STATE UNIVERSITY)で、アルトマンが出た時の大学名はテネシーA&Iカレッジである。同大学は一九一二年に、総括的で、都市大学型の共学のランドグラント州立大学として、ナッシュビルに設立された。州議会が三つのノーマル=スクール(師範学校)、その中の一校が農工学校(AGRICURTURA&INDUSTRIAL SCHOOL)を含み、百四十四人の学生でスタートした。ウィリアム=ジャスパーが校長となり、一九二二年になって学士を出す、州立農工師範大学(AGRICULTURAL INDUSTRIAL NORMAL COLLEGE)となり、五年後に「NORMAL」の称号がなくなった。一九三〇年代に、大学の設備などが充実し、一九四三年にそれまで三十年奉職したペール学長が引退し、ワォルター=デービス氏が学長を継ぎ、一九六八年まで在職し、大学の設備の充実と発展を遂げる。同氏は有能な卒業生であった。まず、一九四四年に州議会は同大学の教育レベルの向上をはかるため、教育学分野を充実させた。大学院を作り、修士号を出すことを認めた。一九四六年にSACS(南部大学及び学校協会)が大学の水準を許可することになり、州立黒人大学の地位を確立する。学部は工学部、教育学部、文学部と理学部、農学部、家政学部になり、大学の組織再編成が行なわれた。これは州の教育委員会が再編成を許可したためで、さらに、一八五八年に、連邦法により財政と土地を与えられ、ランドグラント大学になり、いくつかの分校と生涯学習、そして宇宙工学部が加わった。そして一九六六年にそれまでのテネシーA&I大学のA&I(AGRICULTURAL INDUSTRIAL)の名称がテネシー州立大学(TENNESSEE STATE UNIVERSITY)となり、その後一九七六年にフレデリック=ハンフリー氏、一九八七年にオーチス=フロイド氏、一九九五年にヘルビン=ジョンソン氏と学長交代をし、現在九千人以上の学生を持つ黒人州立大学となっている。
 次に話すべき黒人大学出身のアメリカ黒人選手で、日本のプロ野球で活躍した選手は、何と言っても外国人選手として初めて三冠王を獲得したブーマー=ウェルズこと本名、グレゴリー=ドウェイン=ウェルズである。
 ブーマーは一九五四年にアラバマ州で生まれ、ジョージア州の黒人州立大学オルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)で、フットボールの選手として活躍し、NFLのフットボールのプロ選手をめざしたが、採用テストで不合格になり、一九八一年に野球選手をめざし、トロント=ブルージェーズ、一九八二年にミネソタ=ソインズに在籍するも、ファームチーム生活が多く、芽が出なかった。アメリカでの二年間の成績は、打率二割二分八厘、本塁打〇、打点八であった。一九八三年に阪急ブレーブス(現オリックス=ブルーウェーブ)に入り、二年目に打率三割五分五厘、打点百三十、本塁打三十七本で、日本のプロ野球史上初の外国人選手、三冠王となる快挙を達成する。それも黒人選手で黒人の州立大学出身が成し遂げた偉業であった。翌年には製薬会社の貼り薬「パスタイム」のCMにも登場する。一九八七年には六月のダイエー戦で飛距離一六二メートルの大アーチの本塁打を記録する。前の年の一九八六年には一回打点王となっている。一九九二年にダイエーに移籍し、後半は成績が上がらず退団となった。  その後、引退後は日本のプロ野球団のために、アメリカのめぼしい選手をスカウトし、日本球界に数人送り込んだ。日本での通算成績は、打率三割一分七厘、本塁打二七七本、打点九〇一であった。
 このブーマー選手が出た黒人大学がジョージア州のオルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)である。黒人大学としての歴史は次の通りである。  サウスカロライチ州ウィンスロップの奴隷出身の黒人、ジョセス=ウィンスロップ=ホーリー(JOSEPH・W・HOLLEY)が、オルバニー=バイブルアンドマニュアル=トレイニング=インスティチュート(オルバニー神学校と手工芸学校)を一九〇三年に設立した。場所はジョージア州南西部であった。ホーリーはその後、サムエル=ルーミス牧師夫妻の知遇を得、マサチューセッツ州のリヴィーア=レイ=カレッジで学んで牧師を目指す。その時、マサチューセッツの事業家ローランド=バザード氏と知り合い、同州内のフィリップス=アカデミーとペンシルバニア州のリンカーン大学で学ぶため、同氏に学費を出してもらい、牧師となるべく教育を続けた。そして、バザード氏の好意により資金を出してもらい、五十エーカーの土地を買い、また、大学経営理事会を設立し、オルバニー学校を州立大学へ橋渡す方向へ持って行った。新しい土地での学校は、地域の黒人に初等教育と教師を養成する学校ともなった。一九一七年に州の財政の援助を受け、二年制の農業、教育師範短大(AGRICULTURAL&TRAINING COLLEGE)となり、数年後にジョージア=ノーマル&アグリカルチュラル=カレッジ(GEORGIA NORMAL&AGRICULTURAL COLLEGE)となった。
 大恐慌の最中、オルバニー州立大学は二年制のまま、四年制のジョージア大学やジョージア州立大学など他の四年制大学に加わる形でジョージア州立大学機構(UNIVERSITY SYSTEM OF GEORGIA)の下の一校となり、一九四三年に四年制の大学になり、オルバニー州立大学(ALBANY STATE COLLEGE)となった。そして、一九八二年に初めて大学院が出来、一九九六年に大学の名前がCOLLEGEがUNIVERSITYと替った。  現在、オルバニー州立大学は、特筆されるのは工学部で、オルバニー州立大学と全米でトップレベルのジョージア工科大学(州立、GEORGIA INSTITUTE OF TECHNOLOGY)と両方で学士号を出すプログラム=コースがあり、全米でも評価されている。また、標準テストの成績が極端に劣る州内の高校生を対象にした夏期講習で百パーセントの確率でそれらの高校生の成績を上げ、これも全米で評価された。現在の学生数は四千人を越した。学長もホーリー以来、現在の学長アンドリー=ウィリアムズまで七代目となる。
 科目も、英語、中等教育、特殊教育、カウンセリング、物理、体育教育学の他に経営学、犯罪警察学、看護学が加わり、六つの修士号を出している。
 オルバニー州立大学が全米歴史上特筆されるのは、一九六〇年代の黒人が人種差別に抗議する運動、公民権運動の中心の一つとなった事である。オルバニー州立大学の学生達と多くの黒人地位向上委員会(NAACP)と学生非暴力調整委員会(SNCC)の代表者が共同して、オルバニー運動(ALBANY MOVEMENT)を立ち上げ、キング牧師やその他の黒人運動リーダーに支援し、招いて運動をオルバニー地域で行った。この時、全米で黒人市民三千人が逮捕され、オルバニー市の地区では七百人が逮捕され、その内、オルバニー州立大学の学生は四十人が逮捕され、退学処分になった。しかし、二〇一一年に大学は、退学になった三十二人に対し、名誉復権の意味で名誉学士号を三十一人に、一人に名誉博士号を送った。
 その他にも、ダニー=グッドウィン(DANNY GOODWIN)という高校時代超飛距離を出した超大物と超大砲と呼ばれた黒人選手が日本のプロ野球にいた。一九五三年にミズーリ州セントルイスに生まれ、高校時代の野球で球場の場外はるか遠くに、超飛距離のあるホームランを連発し、高校時代の打率が四割八分八厘であった。一九七一年に高卒でシカゴ=カブスの一番ドラフト、即ちドラフト=キングを受けたが、プロ入りせず、ルイジアナ州の黒人州立大学サザン大学(SOUTHERN UNIVERSITY)の奨学金を受け、学業をつづけながら野球をし、動物学を専攻した。
 その後、一九七五年に大卒で再びドラフト=キング、つまり一位指名となり、カリフォルニア=エンジェルスに入団した。2Aのエルパソでは実に打率六割三分七厘を打ち、カリフォルニア=エンジェルスに昇格するが、肩を大ケガし、その後、数シーズンを棒に振った。それ以後、チャンスに力を出せず、ミネソタ=ツインズ、オークランド=アスレチックスと渡り歩いたが大成しなかった。メジャー=リーグの成績は、わずか打率二割三分六厘、本塁打十三本、打点八十一であった。
 そして、一九八六年に南海ホークス(現ソフトバンク)に在籍するも打てず、殆どベンチで過ごした。ただ、グッドウィンは頭脳も優秀で黒人大学サザン大学で、野球の合間に修士号を取り、当時、日本でも大学院を出たプロ野球の選手として話題になった。  日本での成績もごくわずかで、一年で打率二割三分一厘、本塁打八本、打点二十六であったが、帰国後、大学野球殿堂入りし(COLLEGE HALL OF FAME)、また黒人大学グランブリング州立大学の野球コーチも務めた。
 グッドウィンの出身校サザン大学は、一八七九年にルイジアナの憲法議会で有色人種のための教育機関の案が出され、一八八〇年にルイジアナ議会が法案を通し、サザン大学として認可をし、ニュー=オリンズのユダヤ教会、イスラエル=シナイの跡地に作られた。その後一八九〇年に黒人大学を許可する二次モリル法により、サザン農工大学(SOUTHERN AGRICULTURAL&MECHANICAL UNIVERSITY)となり、スコッツビルに移る。そして、一九二一年にルイジアナ州議会がサザン大学の再編成と拡張を認め、次の年のルイジアナ州法一〇〇により州教育委員会(STATE BOARD OF EDUCATION)の監督で再編成し、現在のバトン=ルージュに移った。  初代学長は、地元バトン=ルージュの黒人社会の名士で、バトン=ルージュ=カレッジとルイジアナ有色人種教育協会の学長で会長のジェセフ・S・クラークが就任し、一九三八年に退くまで、大学組織の再編成と多くの建物が出来、息子フェルトン・G・クラークが学長になって、学生数が五百人から一万人まで増えた。一九四七年にはルイジアナ州立大の法学大学院(LAW SCHOOL)が黒人の入学を拒否したので、サザン大学に法学大学(LAW CENTER)を作り法学教育を始める。さらに一九五六年には、ニューオリンズにサザン大学の分校(SUNO)、一九六四年にサザン大学のシュリブ=ポート及びボッシアシティー分校(SUSA)と大学博物館が出来、これらが一九七四年にルイジアナ州議会により、バトン=ルージュのサザン大学本校と合わせて統合され、サザン大学機構(SOUTHERN UNIVERSITY SYSTEM)となり、州の財政配分もしっかりとしたものになった。
 その他の黒人大学出身で日本球界でプレーした選手にフレッド=バレンタイン(FRED VALENTINE)外野手がいる。一九三六年ミシシッピー州クラークデールの生まれで、一九五九年ボルチモア=オリオールズに入り、一九六八年まで在籍するも、打率二割四分七厘、本塁打三十六本、打点百六十八に終わり、一九七〇年に阪神タイガースに入る。一年で打率二割四分六厘、本塁打十一本、打点四十六で、その後退団する。彼の出身大学はアルトマンと同じテネシー農工大学で、阪神は二人の黒人大学同窓生が在籍したことになる。
 最後に、一九八〇年代に広島カープに在籍したアート=ガードナー(ART GARDONER)外野手について語る。
 一九五二年にミシシッピー州マッドンに生まれる。同州の州立黒人大学、ジャクソン州立大学を出た後、一九七一年にヒューストン=アストロスにドラフト入団したが、メジャーデビューは一九七五年アストロスで果たす。十三試合に出た。しかし翌年は3Aのメンフィスチックスで、一九七七年にはアストロズに六十六試合出場する。一九七八年にサンフランシスコ=ジャイアンツに移籍するが、翌年から一九八〇年までフェニックスなどマイナー=リーグで過ごす。メジャー=リーグの通算成績は、打率一割六分二厘、本塁打〇、打点五であった。そして、日本の広島カープに一九八〇年から二年間在籍する。一年目は打率二割八分一厘、本塁打二十六本、打点七十七でまずまずの好成績であったが、二年目は打率二割五分四厘、本塁打四本、打点二十八の不振に終った。その後引退し、母校のジャクソン州立大、2Aのオクラハマ、タルサそしてテキサス=レンジャースでコーチをした。
 ガードナーが出た黒人大学がミシシッピー州のジャクソン州立大学(JACKSON STATE UNIVERSITY)は、設立は一八七七年にエドワード=ペイジ牧師により教会系の小さな大学として設立された。一八八二年にJAPキャンベル不動産会社による五十二エーカーの土地が与えられ、ジャクソン市の北部に移り、ジャクソン=カレッジと名前が変わった。その後ナッチェス=セミナリーという教会母体が変わり、現在の位置に大学が移転した。一九二四年になって、教職のための学士号を出すようになった。その後一九三八年に教会の経営母体を退き、代って私立経営母体となり、学校は州立となり、名前をミシシッピー=ニグロ トレーニング=スクールとなり、農業と初等教育に学士号を出すようになった。ついで一九四二年に全面的に四年制の学士を出すようになった。一部大学院の科目も加わった。一九四四年にJACKSON STATE COLLEGE FOR NEGRO TEACHERとなった。一九五三年に本格的な大学院が出来て、JACKSON STATE COLLEGEになる。  一九六〇年代は文学部、教育学部、経済ビジネス学部、大学院が組織上形成された。一九七九年は経営理事会により、大都会の高等教育機関として、教育計画がなされ、より多くの財政投入により、社会福祉学部、独立した工学部、総合保健学部、図書館の拡張が行なわれた。二〇〇〇年にはカーネギー財団により二十六の博士号のコースが充実し、二〇〇六年には債権を得て多くの建物設備が建設された。

参考文献及び資料
 HENRY BULLOCK THE HISTORY OF NEGROE EDUCATION、PRAEGUER NEW YORK 一九七一年版
 IRA BERLIN、SLAVERY WITHOUT MASTERS VINTAGE、BOOK NEW YORK 一九七四
 JOHN HOPE FRANKLIN  FROM SLAVERY TO FREEDOM、KNOFFS NEW YORK 一九七一年版
 BENJAMIN QUARLES  THE NEGROES IN THE MAKING OF AMERICA COLLIER BOOK NEW YORK 一九六九 ベースボール マガジン社
 日本プロ野球外国人選手1936︱1994、ベースボール=マガジン夏季号 一九九四
 ウェブ=サイト  WIKIPEDIA、THE FREE ENCYCLOPEDIA  ORDINANCE OF 1784、ORDINANCE OF 1787、HATCH ACT MORILL LAND GRANT ACT LAND GRANT UNIVERSITIES、SECOND MDRILL ACT、SMITH︱LEVER ACT︱1914、SMITH︱HUGHES ACT︱1917、BANKHEAD JONES ACT︱1936、LOU JACKSON、 GEORGE ALTMAN
 ブーマー=ウェルズ(日本語版)、DANNY GOODWIN、FRED VALENTINE、ART GARDNER  GRAMBLING STATE UNIVERSITY、TENNESSEE、STATE UNIVERSITY、ALBANY STATE UNIVERSITY、SOUTHERN UNIVERSITY
 ART GARDNER BASEBALL STATS BASEBALL ALMANIAC
 BRUCE MARKUSEN�LEGEND OF DANNY GOODWIN� HARDBALL TIMES、2009、JUNE5TH  

(流星群第28号掲載)