元阪神タイガース、ジーン=バッキー投手の故郷   ルイジアナ州のケイジャン社会の特性と歴史的背景

 もう、今から四十五年ぐらい前になるが、古いファンなら憶えていると思う。昭和三十年代後半から四十年代前半まで、阪神に七年、近鉄に一年在籍し、先発投手として何回も二十勝以上を挙げ、巨人相手に一度ノーヒットノーランを記録し、全盛期の王や長嶋をキリキリ舞いさせた実力派のアメリカ人投手ことジーン=バッキー(GENE=BAQUE)のことである。バッキー投手は八年の日本球界在籍で百勝以上を挙げた。これは同じく百勝を挙げた、元南海ホークス、大洋ホエールズに長年在籍したテキサス州ヒューストン出身のジョー=スタンカ投手と並ぶ記録であり、バッキー氏は大投手である。
 このバッキー投手は、アメリカ本土ではメジャー=リーガーになれず、ハワイの2Aリーグに所属し、プレーしていた時に日系人の取りなしで、阪神タイガースのテストを受けて、昭和三十七年の春のキャンプから阪神タイガースに在籍することとなった。当時の名投手コーチ、杉下茂氏の指導により、素質が大開花し、二年目より阪神のエースとして活躍する。村山実投手とこの阪神タイガースの両輪として、阪神の二回の優勝に貢献した。
 背が高く、投球にスピードがあったが、コントロールが悪かったのを、杉下茂氏の指導で矯正し、また初期の頃、巨人で監督をした名将藤本定義氏の指揮のもと、昭和三十九年の阪神セリーグ優勝時には、二十五勝をあげ、同年の南海ホークスとの日本シリーズでは、前述のスタンカ投手と投げ合った。
 長身から投げ下ろす、くねくねとした投球フォームでタイミングをずらし、速球、カーブ、ナックル=ボールを駆使し、巨人の王や長嶋、そして、セリーグの他球団の強打者をキリキリ舞いさせ、押さえ切った当時の大投手である。歴代の阪神の外国人選手の中では、昭和六十一年に三冠王になった「史上最強の助っ人」、ランディー=バース内野手と並ぶ名選手である。
 昭和三十九年に阪神は日本一を逃がしたが、翌昭和四十年五月には、巨人戦ではノーヒットノーランを達成し、その試合で自らも二本のホームランを放ち、栄光を勝ち取った。昭和四十一年、四十二年と二十勝以上挙げたが、悲劇は翌年の昭和四十三年に起きた。九月に対巨人戦で、バッキー投手が打者王貞治選手に投げたビーンボールまがいの投球に、王選手が怒り、王選手がマウンド付近で注意した後、バッキー投手と交代した権藤正利投手が誤ってデット=ボールをさせ、巨人、阪神両チームの選手、コーチと大乱闘になった。その際、バッキー投手は、王選手への危険球に怒った、当時の巨人打撃コーチ荒川博氏と格闘になり、親指を骨折した。そのケガにより、翌年、阪神から近鉄へトレードされたが、わずか七勝に終り、その年で退団し、日本球界から去ることになった。
 バッキー投手の生まれた土地、ルイジアナ州南西部、レーク=チャールズは、アメリカ南部のフランス文化とカナダのフランス文化の影響を受けた伝統の地であることは、日本では殆どの人が知っていない。この地は、十八世紀以後、カナダのフランス系アカディア人が、フランスが抗争でカナダの領土を失って、カナダがイギリス領になった後、フランス領だったルイジアナ州に入植し、元々の同地のフランス文化に、カナダのアカディアのフランス文化を融合させ、地域社会を作り、独得のフランス文化圏を作った。この南西ルイジアナ州の一地域にある、カナダ系フランス文化をケージャン(CAJUN)文化という。ケージャンとは、カナダのアカディア(ACADIA)がルイジアナ風に訛ったものだ。  以下、アカディアを中心とするカナダのフランス植民地とそこへのイギリスの進出、ルイジアナ州のアメリカのフランス植民地の歴史を辿り、バッキー投手の住む、ルイジアナ州南西部の独得なケイジャン社会の生成過程とその文化、習慣を歴史的アプローチで論じてみたい。
 カナダのアカディアは、新大陸にスペインが植民をし始めた後、やや遅れ、一五二四年にバラサーノがセントローレンス川沿いから占領し、小さな植民地を作ったのが最初である。小さな集落で、一六〇五年ルイ十四世の時、リシュリュー宰相の植民地政策で、ポート=ロワイヤル港の建設がなされ、その時、正式な王室によるフランス植民地となる。その後、アカディアは一時、イギリスの進出によって、その植民地が奪われたが、兵力で奪回し、ブレダ条約によって再び、一六六七年にフランスの植民地となる。
 そうしているところに、イギリスの北米への進出、植民地化が一五八〇年から一六〇〇年以後、本格化した。ヘンリー=カボットやサー=ドレークの新大陸探険後、アメリカの大西洋岸を植民地化し、さらに北上し、アカディア地方からニュー=ファウンドランド島へ進出した。
 一六六〇年以後、イギリスで王政復古後、一六八八年名誉革命により、ジェームス二世国王の妹、メアリーが嫁いだオランダ、オラーニュ公ウィルヘルムが、メアリーと共同統治をし、ジェームズ二世を追放した事は、フランス王ルイ十四世との対立を生み、以後フランスとイギリスの抗争を多くの国々を巻き込んだ形で行う。それがヨーロッパに於ける戦争だけでなく、北米カナダでの英仏の戦争による植民地の奪い合いとなって行った。
 ヨーロッパに於けるウィリアム王の戦争(一七八九年︱一七九七年)、スペイン継承戦争(一七〇一年︱一七一三年)の戦いは、北米にも及び、英仏の戦争となり、軍事力で優位に立つイギリスは、スペイン領のフロリダの一部とフランス領アカディアをユトレヒト条約で得て、ノバスコシア(新スコットランド)とニュー=ファウンドランド島をも取得し領有した。
 さらにヨーロッパに於ける七年戦争では、カナダに於て、一層激しい英仏の領土争いになった。ハリファックス卿が、カナダ東部のフランス領(現在のハリファックス村)に向け、多くのイギリス人住民を入植させ、イギリスの植民地にしようとした。
 そして、英仏はセントローレンス川を挟み、領土進出、争奪戦となった。イギリスはアメリカのペンシルベニア西方から北上し、一方、フランスはそれを阻止するため多くの砦を築き、互いにインディアンを扇動していると主張し、戦いを始めた。これが北米に於けるフレンチ=アンド=インディアン戦争である。戦いの結果、イギリスが勝ち、一七六三年のパリ条約に於て、カナダのフランス領だったニュー=フランスはイギリスが領有し、同国の植民地はアメリカのミシシッピー河以西の現在のルイジアナ州、テキサス、アーカンソー、コロラド、ネブラスカ、ミズーリ、ノースダコタ各州を含む、ルイジアナ領地のみとなった。ニュー=フランス領をカナダで失った事により、フランス王室はカナダの毛皮や水産資源を失い、財政難となり、フランス革命に走る一因となった。
 後のアカディアより、アメリカのルイジアナへのフランス系カナダ人の入植について述べるために、その間のアカディアの事情を見てみる。カナダの中で狭くアカディアに絞って、そこへのイギリスの進出について見ると、一七一三年のユトレヒト条約でカナダ東岸のアカディアは一応、イギリス領となったが、実質上の統治は行なわれず、フランス系住民は数千人いて、なおも小さな砦が作られ、戦争は続いていた。が、イギリスの総督は、入植地ハリファックス建設後、イギリス人やドイツ人を移民させ、フランス人を圧制した。そして、一七五四年以後は、総督となったチャールズ=ローレンスは、フランス系カナダ人、約一万人を本気でアカディアから追放しようと決意した。
 一七五四年フレンチ=アンド=インディアン戦争が起きると、フランス人の抵抗を避けるため、一万人を船舶、教室、要塞などに収容し、拘束した。これが、後の第二次世界大戦で、イギリスではイタリア人、ドイツ人、日本人など敵性外国人をマン島に収容し、アメリカではカリフォルニアの日系人がアメリカ政府によってネバタ州などへの収容の歴史的先例となった。
 戦争後、一七六三年以後、フランス系住民は役人であった一部を残し、他は財産と権利を奪われ、アカディアやノバスコシアから出て行かなければならなくなった。それはフランス系住民が、イギリス総督に忠誠を誓わなかったからだ。よその土地へ移住した先は、フランス本国、その他のフランスの植民地で、この時、ルイジアナのメキシコ湾岸南西部へ移民した最初となった。
 当時、フランス領であった広い地域のルイジアナは、一七〇〇年代後半に戦争により、スペイン領になったりフランス領になったりしていたが、一七九〇年頃までにアカディアから約四千人のフランス系住民が、ルイジアナ南西部のメキシコ湾岸のレイクチャールス市周辺に移住入植し始める。そこで、従来から根づいていたアメリカ、ルイジアナのフランス文化と違う、カナダのフランス系文化を持ち込み、ルイジアナの文化と混じり、独得のフランス文化、アカディアが訛ったケイジャン文化を作り上げる。
 アカディアからの移民の多くが農民、漁民、毛皮商人であった。一八〇三年に、フランス革命後、財政難とイギリスとの戦争のため、ナポレオンは広大なルイジアナをアメリカへ売却することになる。
 ルイジアナ領を買収した当時のジェファーソン大統領は、イギリス流のコモン=ローの法体系の行政司法をルイジアナに植えつけようとしたが、フランス伝統の行政体制は変えることができず、フランス領時代の行政機構をそのまま使わざるを得なかった。民法、刑法、憲法(ナポレオン制定法)も今なお、ナポレオン法典の伝統を維持している。フランス文化も同様だ。アメリカ領となった後、一八三〇年以後はアカディアの漁民を中心にルイジアナのケージャン文化圏へ移民は続いた。
 ケージャン文化の特色は、言語、音楽、食、人種に見られる。  まず、言語についてであるが、フランス語をアカディアからルイジアナへ持ち込んだ事は間違いないが、一部古典フランス語、ドイツ語、そして英語の混ったもので、さらにルイジアナで独得の言語が作られることになる。そのケージャン=フランス語が、十八世紀から人々の間で話されていたが、アメリカ領や州になってから学校教育で英語を押しつけられ、生徒が学校でフランス語を話すと笑われたため、人々が話さなくなり衰退して行った。しかし、現在もディスクジョッキーやケージャン音楽を放送するケイジャン=フランス語のラジオ局が存在する。
 食文化については、独得なものがある。ザリガニを水田などで養殖し、そのゆでた物をスパイスやケチャップをつけて食べたり、スープにした物。エビ、ザリガニの手、ホタテを使って味つけした雑炊、お粥、シー=フード=ガンボー、独得のケージャンスタイルのピリ辛のフライド=チキンやフライド=ポテト、長いフランスパンをドッグパンのようにしてジャラペノ=ペッパーを入れたルイジアナ=ホット=ソーセージ、腸詰めのルイジアナ=ホット=ソーセージ=サンドウィッチ、これらはケージャン=フードとかフレンチ=ポーボー(PO︱BO)と呼ばれる。その他にブタの皮のから揚げ、米とソーセージのちまきなどがある。
 音楽には、ケージャン独得のバイオリンを使ったり、アコーディオンを使い、アカディア以来の伝統の民族衣装での舞いがあり、ケージャンの人々がパブなどに集まって、それらを聞き、楽しんでいる。そして黒人もアコーディオンや金物の洗濯板を改造した楽器の音楽を持っている。人種的にもフランス系白人と八分の一や十六分の一黒人の血が混じったルイジアナ=クリオール人がいる。
 バッキー元投手はレーク=チャールズ郊外のケージャン地域社会で生まれ育った。彼の名前、バッキーは、BACKEYという英語名でなく、BAQUEというフランス名であるのでもそれがわかる。ただ、フランス式にバックと読まず、バッキーと英語風に読んでいるのだ。
 バッキー氏は野球に入る前に、地元の州立大学サウス=ウェスタン=ルイジアナ大学で教育学部を卒業し、教員免許を取得していたので、日本球界から去った後、地元の小中学校で教えながら、阪神タイガース時代に稼いだお金で、故郷の家の近くに、東京ドームの数倍あるという、数万エーカーの牧草地を購入し、牧場を経営している。BAQUE RANCHという。これについては成功したようである。そして、バッキー氏は、自らの阪神タイガース時代の活躍、ピッチャーとしての勇姿を地元の人に知ってもらうため、自宅で当時の映像をビデオで上映し、人々に見てもらっている。
 ついでに言うと、バッキー元投手が教員免許を取得したサウス=ウェスタン=ルイジアナ大学には、地元ケイジャン文化と歴史の史料や資料を集めたケイジャン文化研究所(THE INSTITUTE OF THE CAJUN CULTURE)が存在し、そのケイジャン文化、歴史については、全米の他の大学や博物館、その他では見られない膨大な資料を持つケイジャン文化の研究のための随一の資料館である。
 私的な話であるが、筆者は一九八〇年代半ばにテキサス州ヒューストンにある黒人大学テキサス=サザン大学の歴史学部に在学し、修士号を取ったのだが、その間に顔だちが殆ど白人に似ている黒人の血が十六分の一入っている大変太った大柄なルイジアナ、クリオール人のロー=スクール(法学大学院)の学生と相部屋であった。
 この男子学生は、当時はUCLA(カリフォルニア大学、ロサンゼルス校)で学士を取り、テキサス=サザン大学のロー=スクールに来ていて、自宅は当時、カリフォルニアであったが、以前はルイジアナ州、レーク=チャールスの近くに住んでいた。そして、そこに親類もいて、時々訪ねていた。ルーム=メイトとしてバッキー元投手の話をしたが、大変よく知っていて、地元の人々にはバッキー元投手の阪神タイガース時代の活躍が、かなり知られているようだった。ケイジャン文化地域の誇りのようだ。
 昭和三十九年に日本シリーズで、南海ホークスと投げ合ったジョー=スタンカ投手の地元がテキサス州ヒューストンである事を考えると、すぐ隣に住むアメリカ人の投手二人、即ちバッキー(阪神)とスタンカ(南海)と二人の百勝投手を、セ・パ両リーグで輩出したのだなと思うと興味深い。
 バッキー投手とスタンカ投手の投げ合った阪神、南海の昭和三十九年の日本シリーズの試合は、ルイジアナ州のケイジャン=フランス社会とテキサスのイギリス文化の形を変えた戦いだったと言えよう。
 その後、引退したバッキー元投手は、昭和五十年以後から六十年代に何回か日本を訪れ、大阪のUHF局サン=テレビで阪神戦の中継に、ゲストとして招かれ、阪神タイガースの同僚選手であった解説者鎌田実氏と、日本テレビの対巨人戦では村山実氏と、たどたどしい日本語で阪神時代の思い出や解説のようなことを話していた。
 バッキー氏ほど阪神の現役時代に、便所や食生活、風呂など、慣れない日本の生活に敢えて慣れようとし、日本の習慣に合わせようとしたアメリカ人選手は他にいない。その過程で、他の選手と融け込み、英語と日本語の会話帳を駆使し、日本語を習得したから、それが出来たのだ。一度は阪神や他の球団でコーチや監督をやらせたい人だった。
 日本にケイジャン文化の香がする所が一つある。一八三〇年のルイジアナで創業したフランス風カフェオレの喫茶店、カフェ=デュ=モンド(CAF`E DU MONDE)である。ここの横浜店ではケイジャンに近いスィーツとカフェオレがルイジアナの味で、アコーディオンを使ったケージャン音楽をBGMとして使っている。
 バッキー投手の阪神時代の活躍の姿を覚えている人は、カフェ=デュ=モンドへ行き、スィーツを食べ、音楽を聞き、束の間のケイジャン文化に浸り、バッキー氏の顔を思い出してはいかがだろう。

参考文献と資料

 別冊ベースボール=マガジン「阪神タイガース60年史」 陽春号 平成7年 ベースボー ルマガジン社
 「アメリカの町」︱ルイジアナ州、ユーニス、ケージャン音楽と文化 BS︱TBS 平成二十三年五月四日放送
 GRAND DICTIONNAIRE ENCYCLOPEDIQUE LIBRAIRE LAROUSSE PARIS 一九八〇年 VOL1
 ENCYCLOPEDIA AMERICANA INTERNATIONAL EDITION CROBEL INCORPORATED 一九九二年 VOL5、17
 JAMES OLSON THE ETHNICAL DIMENSION OF THE AMERICAN HISTORY HARPER&ROW 一九八一年

(流星群第27号掲載)