アルバニアと他国との通貨統一による経済 破綻、アメリカの百年以上の通貨発行をめ ぐる商工業、農業州間の抗争との比較検証

 一九九二年のマースト=リヒト条約により民族、言語、人種の違うヨーロッパの国々は連合して長年の夢であった経済市場の統一、通貨統一を成し遂げた。同条約の発効する一九九七年ごろから徐々に、各国通貨から統一通貨に変わり、二〇〇〇年頃から軌道に乗せて来た。
 しかし、その後、農業不況、経済不況などに対し、統一した執行機関欧州委員会や欧州中央銀行(ECB)もEU加盟国全域にわたる統一した金融政策を取れず、EU加盟国、各国の金融政策に頼らざるを得ず、強い金融政策と通貨政策を行い得なかった。また、EU内の国々にあって、工業力が強く、貿易などで競争力のある国々と、主として農業国で、工業力の弱い国々との間で、経済市場と通貨統一したことで、ますます格差を広げる大きな矛盾が露呈して来た。
 このようなEUの民族、言語、面積、人口の違った国々を集めて市場統合の下に通貨を統一するのはいかに困難であるかは、過去に於いて一九〇〇年代のユーゴスラビアとアルバニアの間で交わされた相互援助条約に基づく経済市場統合により、アルバニアの財政経済の破綻、十八世紀に於ける中央銀行である連邦銀行を支持する工業・商業を主とする北東部と農業や開拓移民のために自由な紙幣の発行を求め、州立銀行を求める南部、西部の人々の対立と十八世紀後半銀鉱が西部で発見され、金と一定の比率を基準に、大量の銀貨を求める西部と、金本位のみを求める北東部などの興業・商業地帯の対立の例が見られる。
 違った国々はおろか、国内であっても通貨統合はいかに困難かの歴史的経験が、EUの通貨統合にまったく考慮されなかった。そこでEUの通貨統合、市場統一のなされる過程と、アルバニア、アメリカの銀行、通貨発行をめぐる農工社会の対立などの歴史的事例を比較し論じる。

 (1) EUの通貨統一の過程と通貨統一の困難によるスペイン、ポルト     ガル、ギリシャなどの財政破綻の原因分析

 ヨーロッパの国々はローマ帝国崩壊以来、中世の領主領で成り立ち、その上に国王がいてという体制で、それぞれ言語、人種、民族性、経済の異なる国々が、現在に至るまで、領地を奪う戦争を起こし対立していた。
 このような中で、中世以来、民族性、言語の異なるヨーロッパの国々を統一する思想は、中世のフランス国王顧問、ピエール=デュポア、第一次世界大戦後のオーストリアの外交官カレルギーの唱えた「汎欧州」、フランス人のジャン=モネの「欧州統合」案、ウィンストン=チャーチル英国首相の唱える「欧州合衆国」案など存在したが、どれも戦争回避のための欧州統合論に留った。
 ヨーロッパの国々の統合の最初のきっかけは、戦後復興のため、アメリカの財政投入による「ヨーロッパ復興計画」であった。第二次大戦後、ヨーロッパ各国は大戦禍に見舞われ、自力では自国の財政を立て直せなかった。ヨーロッパは連合国が軍事占領をした西側諸国と、ソ連が軍事占領した東欧諸国に分かれ、占領した東西の国々の経済財政をどう立て直すかについて、占領国とソ連の外相会談の意見が合わず、決裂した。そうしているうちに復興を早くしなければならない必要性に迫られ、西側の連合国か占領した国々については、一九四七年、アメリカが西側各国の財政に資金投入し、立て直した。これに対抗してソ連は東側諸国に共産主義体制を植えつけ、一九四九年にコメコン(経済相互援助会議)をつくり、西側と東側で経済政治軍事体制で対立する冷戦体制となる。そして、弱小国のベルギー、オランダ、ルクセンブルグ三国は関税の壁をとりはずし、一早く市場統合を果した。
 その後、ヨーロッパ全体の産業を、戦禍から復興させるために、製造業に必要なエネルギーと材料を確保するためと、石炭や鉄鋼を各国に等しく分配するために、共同市場を持つ必然性が生まれた。そこで、欧州石炭鉄鋼協定(ECSC)が独仏伊蘭、ベルギー、ルクセンブルクの各国の参加を見て、最高機関、諮問機関、各国代表の閣僚理事会、そして石炭、鉄鋼の取り引きを解決する裁判所組織も持ったが、それはあくまで、鉄鋼や石炭に関する取り引きのみの統合であり、完全なる市場、経済統合、通貨統合には至らなかった。
 その後、戦後、早急に市場統合したベネルクス三国は貿易黒字になり、多少の市場統合で経済繁栄の成功を見たので、独仏伊三国に呼びかけて、一九五五年にECSCの下で、イタリアのメッシーナで外相会談を催した。その会議の中でベルギーの外相スパークは、財政、経済、労働移動などの社会政策をヨーロッパ各国の共同体で行える市場、経済機構の設立を唱え、一九五七年にローマ条約でヨーロッパ共同体(EEC)が設立された。加盟国の域内で経済の自由を唱った市場統合で、関税、共同の農業、運輸、労働政策など共通の経済活動を取ることになった。欧州委員会加盟国の閣僚会議、欧州投資銀行、欧州社会基金などの機構組織を持つことになった。
 電力、原子力、ガスなどのエネルギーについては、同時期エジプトのナセル大統領のスエズ運河の国有化に伴い、アラブの石油の供給危機が予想されたため、原子力をヨーロッパで共同して分配利用するための欧州原子力共同体(EURATOM)も同時に設立された。
 これに対し、イギリスは北欧のスカンジナビア諸国やポルトガル、オーストリアなどと共に貿易の自由な取り引きによる経済の交流を目的とする欧州自由貿易連合(EFTA)を設立する。しかし、一九六〇年以後、イギリスは貿易赤字による国際収支の悪化でEECに加盟をし、またEFTAに参加したポルトガル、オーストリア、フィンランドなどがEECへの加盟を申し出た。EFTAの効果や結束力は弱かった。
 そして、一九六七年に、欧州共同市場(EEC)、欧州石炭鉄鋼協定(ECSC)、欧州原子力共同体(EURATOM)を統合し、オランダのハーグに欧州理事会を開き、将来の共同市場統一を目標としたヨーロッパ共同体と改組、改称した。
 一九八五年、フランスの経済学者で、元財務相のジャック=ドロールの主導による欧州委員会によって、共同市場内の関税、資本の投入、農産物の市場への自由供給、旅券の自由化などを求めた単一欧州議定書を出し、ECをより強化なものとした。
 通貨統合に関しては、多くの小国の集まりで国の国境ごとに為替相場があり、それぞれの国の通貨を交換していた不都合を解消する為、統一通貨をEC諸国で流通させ、為替相場を安定させ、よりスムーズなヨーロッパ広域市場の経済政策が望まれた。一九七九年に欧州通貨同盟(EMU)が設立され、各国通貨の為替相場の変動幅を規制し、その安定を図った。
 そして、一九八七年のマースト=リヒト条約が調印され、EU加盟国内の市場の経済統一と通貨統一に向け、一番具体的な基本方針が合意された。一九九七年から一九九九までの間に、各国の為替相場幅の安定、次に欧州銀行発行のEU下の欧州中央銀行(ECB)の発行する通貨と各国通貨との為替相場の安定、レート設定、そしてEU通貨を統一したEU加盟国で流通させる三段階を踏み、ユーロによる完全通貨統一が実現した。
 その間に、一九九七年のアムステルダム条約、二〇〇〇年のニース条約、二〇〇一年のリスボン条約などが加わり、本来のEUの趣旨の加盟国内の市場統合、通貨統合の他に、EU内での福祉、人権問題、労働の移入と労働条件、難民の受け入れとその扱い、知的財産の保護などの取り決めも加わり、ヨーロッパ加盟国の間でEUの機関として、多くの組織が整備された。EUの憲法案がまとめられ、欧州委員会(行政執行機関)、欧州理事会、欧州会議、欧州司法裁判所、欧州中央銀行の他に多くの諮問機関と内部事務部局が設置された。加盟国もデンマーク以後の北欧諸国、ブルガリア、ルーマニア、オーストリア、アイスランドの国々が加盟する予定である。
 EUの通貨統合以後の金融政策は、一九九五年のマドリードの欧州理事会で欧州中央銀行(ECB)の設立が決められ、ユーロの発行と各国の交換比率が定められた。それ以来、EU通貨統一後は、EU通貨の信用を図るため、EUに加盟すべき国の条件を設けた。まず、加盟国の国内物価上昇率が年一%以内で、インフレ率二%以内、財政赤字三%以内とした。そして、GDP、つまりマイナス成長三%で、財政赤字三%以上出した場合、EUに〇・〇五%の預託金を無利子で提供するというものであった。
 統一通貨ユーロの発行は各国が行い、ユーロのマークの他、発行国の英雄やシンボルをデザインしている。
 このように、EU諸国の通貨統一と加盟国の共通市場を持つことによって、EU諸国内の経済安定や物価安定を図ったが、二〇〇〇年以後、EU経済、金融は安定したかに思われたが、数年にして、EU全体の経済不安に基づく金融政策に、各国の間で乱れが露呈して来た。通貨統一後も、EU諸国全体の金融政策は取れず、欧州委員会も欧州理事会、欧州中央銀行(ECB)によるEU諸国に対する監督権がなく、金融政策については、EU諸国の政府や中央銀行に委ねられている。従って、ドイツとかフランスなどの政府や中央銀行の政策がEUの全金融政策に影響し、その他の諸国の金融政策に影響しやすくなっている。
 二〇〇一年の経済不況や農業不振による経済不安定期にも、欧州中央銀行は通貨(ユーロ)の安定に各国の国債買い入れや公的資金投入にEUの役割は十分でなく、イギリスやアメリカの主要銀行に橋渡しをしただけである。利回りや各国の信用度が違い、買い入れが困難だからだ。
 また二〇〇八年のサブプライム問題の時にも、EU委員会の執行部や欧州中央銀行は、サブプライムによる世界的経済不況によって、各国の倒産企業を救済するにも、公的資金投入を欧州理事会で加盟国の閣僚たちの決議を得たが、結果的にはイギリス、フランス、ドイツなどの中央または主要銀行に委ねられた。アメリカの主要銀行にも救済を求めた。欧州中央銀行は中央でEU各国の金融政策を統制することが出来ないでいる。
 さらにEU市場統合をした結果、深刻な問題が起きた。平成二十年頃までに、財政破綻をした国々がいくつか出始めている。ギリシャ、スペイン、ポルトガル、アイルランドの国々である。それらの国々は、国際通貨基金(IMF)から公的資金を投入してもらい、財政再建が検討されている。これらの国々に共通することは、工業国ではなく、農業、漁業、観光立国であることだ。そして、国力としての経済は弱い国々である。
 ざっとおさらいしてみると、まずギリシャは工業力が約五〇%しかなく、残りは農業、漁業、歴史的名所旧跡が多く、観光収入である。輸出額は輸入の三分の一しかない。
 ポルトガルは農業と製造業があるが弱体的で、石油、機械、綿花などが輸入で、輸出はコルク、ワイン、鉱物で輸入が五〇%ぐらい上回る貿易赤字で、さらに軍事費が財政の二分の一にもなり、間接税が直接税の二倍の超弱財政国で、スペインに習い観光収入とブラジルへの移民の仕送りで補っている。
 アイルランドは工業は二十六%、農業三〇%、その他観光収入と海外へ出稼ぎに行った人々の送金で補っている。
 このようにEU通貨統一後財政破綻した国々は、政府が財政粉飾決算をしたギリシャ、それを考慮しても、ギリシャも含み、農業国と観光立国であることがわかる。
 このスペイン、ポルトガルなどの国々が財政破綻したのは、次のような理由だ。EUが通貨統一した後、ドイツなど工業国で統一通貨により貿易で競争力の増した国々が、スペインなど工業力が弱く、農業、観光に依存し、弱い競争力の国々を貿易上経済支配をし、彼らに競争で圧倒し、統一通貨ユーロをスペインなどの農業観光国から流出させ、EU通貨統一前よりも、ますます通貨を減らしたからだ。つまりスペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランドの国々は、EU通貨統合前よりも経済的にますます貧しくなったのだ。
 また、前述のように、欧州委員会、欧州中央銀行は、こうした財政困難な国々に直接財政援助できず、財政再建は各国に委ねられ、ドイツ、フランスなどの国々は経済不況や財政難に自力更生できるが、スペインなどの国はそれが出来なかった。
 具体的な例としてスペインとの観光行動を例に取ってみる。
 EU通貨統合前は、スペイン通貨ペセタが国内に流通していて、為替では弱くともペセタは国内ではしっかりした貨幣価値が存在して保たれていた。そして、ペセタは、スペインが工業的に弱い国であったので貿易力が弱く、対米ドル、対フラン、対英ポンドの為替相場は価値が弱く安かったが、反対に隣接国や遠くからスペイン国内に観光客を多く招くことが出来た。スペインでペセタに換金すると通貨を多く貰え、使い出があるからだ。スペインは観光で潤っていた。
 例えば隣のフランス人にとって、EU通貨統合前は、スペイン国内でフランをペセタに替えれば、為替相場上、価値があるので、為替レートで多く貰え、使い出があった。それゆえ、スペインは多くのフランス人観光客を招くことが出来た。
 ところがEU通貨統合後はフランスもスペインも通貨ユーロの価値が同じなので、フランス人は、かつてのように国によって違う通貨使用による為替相場の差益が存在しなくなったので、フランス人の観光客が減ったのだ。その他の国々、例えば、イギリス、ドイツ、イタリアの国々の人々のスペインへの観光客も減ったため、スペインの観光収入は大幅に減った。大打撃となった。
 反対に、スペイン人は、母国と価値が同じの統一通貨ユーロを使い外国への観光をより多くするようになったり、ドイツ、フランスなどの工業国の製品を貿易で買うようになり、ユーロが多くスペインから流出するようになった。その結果、ドイツ、フランスなど工業力により競争力のある国々に、統一通貨ユーロは集中し、富み、反対に農業国、観光立国であるスペイン、ポルトガル、アイルランド、ギリシャの国々からユーロが流出し、貧しくなり財政破綻を起こさせたのである。通貨統一が競争力のある工業国と競争力の弱い農業国、観光国との間に、EU同盟国内の経済格差を生んだのだ。スペインなど経済的な弱国はEUでは財政赤字を解決できず、国際通貨基金により援助を受けることになる。
 中世の領邦国家から発展し、言語民族性の違い、経済の違い、各国で関税や異なる通貨を発行して、経済的に自立し、他国から防御して来たのである。とりわけ対外的に経済力の弱い国にとっては、自国通貨を持つことは対外的な為替価値がなくとも、国内では通貨価値があるのだ。また外国人を貿易や観光で招致し、外貨を獲得できるのである。ゆえに関税と自国通貨の流通は、経済的に弱い国にとって必要な防波堤なのだ。世界一経済が弱く、混乱した北朝鮮でさえ対外的にはほとんど通貨の価値がないにも拘らず、自国紙幣を持つことは国内価値が最小限あり、経済自立が保てる。これが、中国の人民元を北朝鮮国内で流通させると、北朝鮮の市場は中国経済に破壊させられる。
 EUの通貨統合は国によって貧富の差を生んだが、過去に於てもアルバニア、アメリカの例があり、通貨統合が国際的にも、地域経済の違う国内でも、いかにむずかしいかを示す例があるので、以下に於て示してみたい。

 (2) トルコ戦争以後アルバニアのイタリアによる占領とユーゴスラビ
    アとの通貨協定による経済破綻の先例

 一九四六年にユーゴスラビアのチトー大統領による押しつけられた相互援助条約によって、ユーゴスラビアの貨幣がアルバニア国内で流通出来ることになったことで、アルバニアの通貨レクがユーゴの通貨ディルナに圧倒され使えなくなり、アルバニア経済が破綻した例があり、EU通貨統合以来、スペイン、ギリシャなどの弱小国の財政経済破綻と酷似したケースと比較し以下に於てアルバニアの歴史を辿ってみる。
 十四世紀に入り、オスマン=トルコのビザンチン進出は激しさを増し、同世紀にはバルカン半島に大進出をし、一三六一年から一三八八年までの間にアドレアノープル、ブルガリア、ギリシャ、マケドニア、モラーバの公国が次々に支配下に入った。アルバニアに対しては、一三八三年のコソボの戦いで移り住んでいたアルバニア人と戦い、その後、アルバニア南部、そして次第に中部山岳地帯にまでトルコ軍が進出し、トルコの軍事の下に、貴族達はトルコ支配によるアルバニア貴族への卑下した扱いに怒り、連携して戦って抵抗し始めた。なかでも、名門貴族のギェルギ=カストリオティ=スカンドルペグは貴族をまとめたアルバニア連合を組織し、西方から進出して来るトルコ軍を何回も阻止し、アルバニアを防御した。一方に於て、ハンガリーのヒュンダイも同様な反乱をトルコに対し起こしていた。
 何回も迫ってくるトルコを撃退させ、一四五一年にはスカントルペグはアルバニアを国家に育て上げた。その名声はヨーロッパ中に届き、ローマ法王の資金援助とベネチア領国の資金援助を得て、バルカン半島の新十字軍として対トルコ戦に勝利を得たが、利害を重視したベネチアがトルコと和平を望み、次の法王からも十分な援助を受けられず、なおも単独で戦い、トルコ軍の進出を阻止したが、アルバニアの英雄スカンドルペグの病死でトルコの支配下に入り、その支配が何世紀も続いた。これによりアルバニアは七〇%の白人イスラム国となった。
 五世紀ものオスマン=トルコの支配に対し、バルカン半島の諸国は十九世紀になって、ロシアの南下政策と合わせ、英仏伊の国々も参戦し、バルカン半島を辿る戦争や露土戦争の終結後のバルカン半島の分割ではアルバニアの自治は認められなかった。
 一九一一年になり、イタリアが対トルコ戦争を起こすと、ブルガリア、モンテネグロ、マケドニアもトルコ領の分割と独立を求め戦争を起こし、バルカン戦争が起きた。さらにサラエボ事件が起き、それをきっかけに、汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の対立で、第二次バルカン戦争が第一次世界大戦へと発展していく。その間に、アルバニアは中立の動きを示し、アブドリ=フラショリの下で「アルバニア=ブレズレン同盟」を作り、自治を守った。一九一三年のロンドン会議により、六ヶ国の管理下でウィード公を元首にした独立が一応認められた。
 一九二〇年に大戦中、アルバニアは枢軸国イタリアの占領下にいたが、大戦後、ベルサイユ条約でアルバニアの独立が認められ主権国となった。イタリア軍も撤退し、アーメト=ゾーグ首相の下、首都チラナで戒厳令を敷き、独裁体制となったが、反革命勢力により、一度追放されたが、一九二四年にユーゴより帰国し、再び首相になり、経済体制が極弱であったので、アルバニアはかってアルバニアを占領したイタリアとチラナ協定を結び保護国となり、実質上、イタリア資本主義の半植民地となった。イタリアの自国の工業資本にアルバニアは支配され、イタリアへの原材料の供給源となり、アルバニア経済は弱くなってしまった。そこでゾーグは一九三六年にさらにイタリア=アルバニア協定を結び、三年後、ムッソリーニによるイタリアファシズムの台頭でアルバニアの軍事占領が再び行われた。占領体制化の強化体制によるイタリアの経済、通貨体制、資源の統制によって、政治、経済のイタリア化が進んだ。
 イタリアは大地主のシェフキュト・ブェラルキを首班とする傀儡政権の下、外務省を閉鎖して外交権を奪い、各省庁はイタリア人顧問による行政、イタリア軍参謀によるアルバニア軍の統制、イタリア銀行によるアルバニアの通貨体制の支配、アルバニアの農産物の価格廉売決定などをし、アルバニア経済は完全に支配されて弱体化された。
 このイタリアによる経済支配に対し、一九四二年に共産主義者による革命委員会が設立され、共産党の組織化が行なわれ、エンベル=ホッジャの指導の下、アルバニア民族解放戦線軍による武装闘争が行なわれ、一九四三年にイタリア・ファシストが連合国に降伏するまで続いた。その後、ナチス=ドイツの占領に対して、共産党による民族解放戦闘隊が二度にわたる戦いで、一九四四年にナチス軍を解放させ、アルバニアは祖国の独立を勝ちとった。
 イタリア、ドイツの占領による戦いで、道路、通信網は破壊され、電力、エネルギーはなく、交通のマヒ、工業は起こせず、耕地は耕されず、家畜が減少、銀行は準備高がなく機能停止、飢餓が広がっていた。社会経済は完全にマヒしていた。大混乱であった。
 この状況下で、アルバニア共産党政権は、人民法廷と人民警察団を組織し、強く国内を軍隊が治安維持をした。
 その上で、共産主義的経済政策を取った。資力をつくるため、資本家の戦争利得を莫大な課税による没収、穀物の私有化禁止、私有地の国有化、占領したイタリア、ナチスの財の没収、国有化私有地の国有化などが政策として取られた。
 一九四五年に憲法制定議会選挙でアルバニア共産党の勝利で、エンベル=ホッジャのアルバニア人民共和国が樹立し、翌年憲法が制定された。そして、さらなる経済、社会政策が取られた。食用穀物の購入、調達、販売の国家統制、通貨の改革と個人の通貨を交換の最高限定、食料の配給、土地改革に於て、自ら耕さないブドウ園、オリーブ園、農業施設の土地の接収、教育改革などが実施された。
 それに加え、ホッジャ政権はソ連やその他の東側諸国との兄弟的援助を政策方針としていたので、一九四六年ユーゴスラビア連邦人民共和国と相互援助条約を結び、翌年、それが実行された。この主なるものは通貨平衡価格であった。ユーゴスラビア共産党の強い圧力で取られた経済政策で、ユーゴとアルバニアの経済市場の統合をし、価格を統一しようというもので、さらに、ユーゴの貨幣ディナルとアルバニアの通貨レクを為替ルートがなく交換し、アルバニア内でも流通させようという、実質上、ユーゴとアルバニア国による通貨統合であった。これは、ユーゴがアルバニアに押しつけた五ヶ年計画の一環とする二国間の通貨統合で、後のEUのユーロによる加盟国内の通貨統一の疑いもない先例である。
 しかし、ユーゴとアルバニアとの経済格差は雲泥の差があり、混乱状態にあったアルバニア経済市場で、ユーゴの企業と個人商人は富んだ金持の権利を悪用し、アルバニア市場で欲しい物を何でも買い漁った。それにより高いインフレと総体的な物価の上昇がアルバニア自由市場で起こり、アルバニアの庶民と経済に大打撃となった。この経済影響は、EU通貨統合後、工業力、貿易競争力の強い独仏両国にユーロが流れ富み、工業力のないスペイン、ギリシャなどの農業国、観光立国が財政破綻、経済困難となり、経済格差が拡大したのと酷似している。
 これはユーゴとアルバニアの経済統一は、相互援助条約通りの対等な主権国家の統合ではなく、弱国アルバニアに対しユーゴスラビア共産党と政府は、指導者を送り、経済協定を運営する委員会をアルバニア政府の上に超国家的機関とし、経済市場を支配し、軍部をも指導する属国化政策であった。
 その後、一九四八年の第一回共産党中央委員会に於て、アルバニアはユーゴスラビアの共産主義計画が成された時、ユーゴの指導者チトーを修正主義者と批判し、相互援助条約を打ち切り、またフルシチョフを修正主義と批判し、独自のマルクス=レーニン主義の路線を取った。後にソ連と国交を断絶し、さらに米中接近で唯一の友好国、中国とも国交を断絶し、長らく国交をどの国とも結ばず、外国人の入国と自国民の出国をも許さず、鎖国状態が続き孤立する。
 一九八五年に武力で人民を圧制した超独裁者ホッジャの死で、アリアの政権となり、一九九一年、民主選挙が行なわれ労働党が勝ち、憲法が制定され、民主国家となった。ベルリンの壁崩壊の影響で、多くのアルバニア人が国外に脱出した。アルバニアは、イスラム経済、軍事体制共産主義、資本主義を経験した稀に見る世界で唯一の国である。
 アルバニアは、すでに述べたように、一九二六年以後、一応独立を果したが、経済的に弱く、イタリアの保護国となり、またファシストの出現により軍事体制となった経済、超弱経済国のアルバニアは、経済の強いイタリアの資本家、銀行家、商人によって経済が握られ、通貨を統一した形になったが、イタリア人に購買を独占され、物不足にアルバニア人民は苦しみ、貨幣はイタリアに流出し、イタリアとアルバニアの貧富の大きな格差を生じた。
 また、戦後の一九四六年に社会主義国の援助の名のもとに、ユーゴスラビアとの相互援助条約で、ユーゴとアルバニアの市場統合、ユーゴの通貨をアルバニアで流通させ、自由市場で購買させたところ、ユーゴの商人や企業が買い占め、ひどいインフレ、物価の超上昇などアルバニア市場経済は大混乱し、ますます、アルバニアの経済は弱体した。これはアルバニアが経済力が弱く、イタリアやユーゴの経済に依存し、経済的安定を期待したが、結果として従属国となり、貧富の格差を生じた。
 このアルバニアのイタリアとユーゴの市場統合、通貨統合の二つの例は、EUの市場経済や通貨の統合の後、EU内で、工業力の強い独仏が富み、農業や観光国であるスペイン、ポルトガル、ギリシャなど経済力の弱い国との貧富の差が広がった事実の先例であるのだ。しかし、その歴史的先例、すなわち、経済的に強い国と弱い国が市場合体すれば、弱い方が通貨統一によって、経済困難、財政破綻するという法則が、もっと多くの経済弱国を含むEUの多国間の市場経済と通貨の統合を実行する前に、考慮参考にされず、生かされなかった。
 その理由は、アルバニアが戦後共産主義体制であり、さらに長い間鎖国状態にあり、西側諸国の資本主義社会であるEUの諸国にはその経済情報が伝わることはなかった。そればかりでなく一般的に、西側諸国は共産主義国の経済体制と長く対立し、共産主義体制の経済知識は資本主義の敵であると見做し、嫌い、学ぼうとはしなかった事にもよる。ましてや、長い間、鎖国をしていたアルバニアは、共産圏の中でも知られざる小国であり、アルバニアの共産主義体制の通貨統合の事例は紹介されたり、EUの通貨統合の参考にされなかった。
 ちなみにたとえ、EUがアルバニアのイタリア、ユーゴとの市場及び通貨統合の例を参考にしようとしても、アルバニアが民主化に伴い、同国の情報が解禁されたのは一九九二年であり、EU通貨統一を定めたマースト=リヒト条約が結ばれた五年後であったので不可能であった。
 アルバニアの例よりも遥か前、またEUの通貨統合よりも、二世紀も前に、アメリカが通貨や紙幣を発行する銀行が、国の中央銀行や国立銀行(連邦政府が認可した銀行)がよいか、州の銀行で地域の事情に合わせた発行がよいか、また、紙幣がよいか、金本位がよいか、銀貨を含めた金銀復本位がよいかをめぐって、広い北米大陸国家で、東部の商工業者と西部、南部の農業者や開拓者の対立の例がある。独立後約百年に渡って、揺れ動いたアメリカの銀行の通貨発行をめぐる経験は、EUが通貨統合をめぐる市場経済で、強い工業国と工業力の弱い国と格差を生んだ先例として、つまり広い大陸のアメリカ国内では、経済力の強い北東部の商工業と、経済力の弱い南部西部との抗争という形であるが、EUが市場統合による通貨統合をするにあたり参考にされなかった。以下に於てアメリカの銀行をめぐる通貨発行の歴史と、その理由を検証する。

   (3) 独立後百三十年に渡る通貨や紙幣の発行をめぐり、金本位に基
      づく国内の通貨統一のため中央銀行の発行に関して、東部都会の
      商工業者と、州の銀行や州の認可の銀行による地域の需要、事情
      によって紙幣発行を求める南部の農業者と、銀鉱開拓により銀貨
      の自由発行による金銀複本位を求める西部の開拓者との国内の対
      立

 アメリカで初めて銀行が出来たのは独立戦争の際、十八世紀の終わりのことであった。十七世紀の終わりから、ヨーロッパの戦争の一端として、イギリスとフランスはカナダの植民地をめぐって、抗争をしていたが、一八五四年に、大々的な戦争に突入した。フレンチ=インディアン戦争であった。一七六三年のパリ条約でイギリスが勝ち、フランス領(ニュー=フランス)を得て、フランス植民地を失い、フランス系カナダ人は住民として英領カナダに残ることになった。
 この植民地での戦費が莫大であったため、一八七〇年代以後、印紙税、印刷物、砂糖税などを北米の植民地に次々に課して行った。このイギリス本国の税による圧制に反発し、植民地は第一回大陸会議を開き、統一して独立する決意をし、独立戦争となった。
 アメリカの銀行は一番初め、独立戦争をする費用を捻出するために、北米銀行を設立した。そして、一八八三年のパリ条約で独立した後は、アメリカは戦争のため、国内外に借金の返済のためと国内の財政を安定させるため、国債を発行し、北部の商工業の発展の融資のために、外替を作り貿易を促進し、通貨の紙幣を発行できる国立中央銀行を設立をさせた。これはワシントン大統領の下の財務長官アレクザンダー=ハミルトンの権限によるものであった。ハミルトンは商人の出身で、連邦政府が中央で強い統制をした政府を望んだ連邦主義者であった。
 これに対して、当時の副大統領トーマス=ジェファーソンは、農業者の利害の支持者で、州の利害を最大限に尊重すべく、連邦政府は必要最小限に州をまとめるべきで、強い統制をすべきでないという州権論者であった。国の銀行が中央で通貨を統一し、流通させれば、経済的強い北東部の商工業地域に農業州が支配され、お金が商業社会に集中し、農業州のお金は不足してしまう。それ故、州の需要で地域毎の通貨の発行を求めた。
 国立銀行は設立時に二十年を期限になっていたが、一八一二年の対英戦争により、同じ年に議会で同銀行の改新が審議されたが、更新の議決に成らなかった。しかし、四年間は通貨発行の国立銀行が存在しない状態となったので、金本位の準備のある州の銀行が設立され、通貨紙幣の発行をしたが、一八一二年の対英戦争の戦費とインフレが起き、一八一六年になって連邦議会は第二次国立銀行を裁可した。名はアメリカ合衆国連邦銀行となる。
 この時、連邦政府が選んだ五人の経営理事が同銀行の経営に当たり、一八二三年にニコラス=ビドルが同銀行総裁になると、連邦銀行は各州に多くの支店を開き、国内の流通貨幣の統制を強化した。ビドルは連邦銀行が政府として独立し、政治的影響力を除き、また西部開拓に決して反対するものでなかったが、ニューヨークの州立銀行家で、後の大統領マルティン=バン=ビューレンや農業州テネシー出身のアンドリュー=ジャクソン大統領により、連邦銀行による各州の強い通貨支配に反対された。
 一八三二年、北東部の商業者やビジネスマン出身の議員の賛成で、連邦銀行は再び裁可されたが、ジャクソン大統領は拒否権を行使し、連邦銀行の更新の法案に署名をしなかった。
 ジャクソン大統領は農業州出身で、連邦銀行が州全体を従属的にして、国内の通貨流通を支配すると、北東部の商工業への融資によって利子を稼ぎ、富と繁栄をもたらし、反対に農業州は商業地域の北東部に支配され、貧しくなっていくことを恐れた。それゆえ、州の需要に応じ、州の銀行で州のとりわけ農家の必要な額の独自の紙幣通貨を発行することを唱えた。ジャクソン大統領は銀行についての州権論者であったが、安定した貨幣、コインを発行するハードマネー派であった。同じ州権論者のサウスカロライナ州出身のヘンリー=カルフーンはソフトマネー派で州立銀行による紙幣の発行を望んだ。多くの南部や西部の農民は農地担保に束縛されていて、州立銀行の発行でインフレが起きて紙幣価値が下がっても名目全額を払えばよいからである。これに対し、北東部の商工業を利害とするニューイングランドの議員は、北東部の商工業者が南部西部の農産物、原料を大量に安く買い入れ、自分達の生産した商品を南部や西部の農業州などに売る市場にし、国内を経済統合し、国の銀行である連邦銀行が強い統制をし、信用、貯蓄、融資を商工業者にする政治力とも合わせ、国内経済統合する連邦主義者である。今でいうEUの市場経済、通貨統合と同じ考え方だ。
 ジャクソン大統領によって再裁可を拒否された連邦銀行は、一八三六年で期限が切れ、代わりに州立銀行が紙幣や通貨を発行していたが、ビドル連邦銀行総裁は、ジャクソン大統領と対立し、州立銀行に対し割引や為替取引を制限し対抗措置を講じた。これに対し、ジャクソン大統領は怒り、財務長官を後の最高裁判所長官、ロジャー=ターニーに交代させ、連邦銀行に貯け入れていた政府の財政税収預金すべてを引き上げさせ、代わりにいくつかの州立銀行に入金し対抗した。このジャクソン大統領とビドル連邦銀行総裁との抗争を歴史上、銀行戦争(バンキング=ウォー)と呼ぶ。
 その結果、農業州の各州の事情と需要に合わせた州立銀行による自由な独自の紙幣発行は、紙幣が異常な増刷発行され、大量インフレになり、一八三七年に大恐慌となった。連邦銀行は紙幣の供給ができず、また北東部の商工業者に融資や貸出しする紙幣が回らず、ビドルは連邦銀行の州立銀行化をしたが、一八四一年に経営破綻する州立銀行が増大し経済パニックになった。
 州立銀行は南北戦争中の一八六三年まで続いたが、リンカーン大統領は戦争の戦費を調達などのため、国立銀行法で国立銀行が三十年ぶりに再度組織され、それまでの州立発行の紙幣も、国立銀行で払い戻しが出来るようにし、また紙幣の発行は会計監査人の指導で発行するようになった。一八六六年に南北戦争の終止期には各州に国立銀行の支店の数は増え、その数が州立銀行の数を上回った。一方に於て、南部や西部の農民地帯や開拓地では州認可の銀行も作られ、それらの地域の実情に合わせた紙幣を流通させた。
 国立銀行は戦後、戦時中に発行された、グリーン=バック紙幣が供給過剰になり、金本位に基づく新しい紙幣と交換し、回収できる措置を取った。インフレが起き、それを押えるためである。これについては北東部の商工業の経済を安定するためでもあった。しかし、農業州では交換することが困難であった。
 一八七〇年以後、西部や南部への鉄道の発展と共に北東部の企業は銀行から融資を受け、南部、西部の農製品や原料を鉄道で安く仕入れ加工し、国内の市場や海外へ、貿易輸出商品として売り、莫大な利益を上げるため、多大な融資を必要とした。そこで、JPモルガンのモルガン銀行などが国の認可を受けた私立の大銀行として設立され、幅を利かせるようになった。
 歴史上、株式会社の組織を持つロックフェラーの石油会社やカーネギーの鉄鋼会社などビッグビジネスといわれる大企業が北東部に於て大繁栄する一方で、南部や西部の多くの農民や開拓者達は見捨てられた存在であった。
 多くの農民達は広大な土地を所有するに当たり、それを担保に多額の借金をし、農産物を売って返済しなければならなくて、苦悩していた。さらに生産過剰による農産物の下落、生産した穀物を北東部の市場へ輸送するためのコストは、鉄道会社の独占による価格設定で高く据えられ、農家の自弁であったため、利益は薄いものだった。また、北東部での農産物の価格決定権は同地の商人に握られ、国の政治は利害関係によって彼ら商人に操られ、税金、鉄道の独占料金の認可、貨幣の発行と流通などで、農民は不利益を被っていた。
 このような不遇に、南部や西部の農民達は立ち上り、団結して共同組合を作り、経済的不利益を守り、政治活動として州議会や連邦議会へ農民代表の議員を送る努力を展開した。
 農民達の団結した組合をグレンジャーと言い、同連盟が北西部の農民の間に、さらに中西部の農民の間にも出来、選挙で議員を州議会へ送り、鉄道の独占輸送料金や農産物価格の低下の規制などをした。
 グレンジャー組合は一八九〇年までにいくつもが合体して、ポヒュリスト党(人民党)を結成し、国、即ち連邦議会で農民の利害を国政に反映させようとする。彼らの政治項目は、鉄道の独占価格規制と禁止、電信電話会社の国有化の他、通貨については国立銀行の廃止と州立銀行による紙幣発行、南北戦争時発行のグリーンバック紙幣回収に反対、さらに西部の銀鉱の発見による大量の銀を使った金一対銀十六の割合による銀貨の自由鋳造を求めた。
 連邦政府は、南北戦争中に発行しすぎたグリーンバック紙幣がインフレになり、金本位をもとに同紙幣を回収しようとしたが、農民の間には回収されると紙幣が引き上げられ流通しなくなるので、グレンジャー連盟は反対した。また銀貨の自由発行を認めたのは、西部開拓の人々の事情による。
 元々、銀貨の発行は、一八四八年にカリフォルニアの金鉱発見によるゴールド=ラッシュに始まり、一八五九年から六一年にかけてネバタ州の銀鉱、次いでコロラド州で銀鉱が発見され、西部開拓者は西ではなく東へ向った。特にネバタで莫大な銀が産出されて、金と銀の一対十六の比率で、銀貨が大量に鋳造、発行された。その後、銀塊の値段が急騰したため、人々は銀貨にせず、銀塊を売ったため、国内の銀保有高が減ったので、連邦政府は一担、一八七三年に銀貨の自由鋳造を停止した。が、南部、西部の農業者や開拓者達の通貨、紙幣の流通不足を理由に銀貨発行の強い要求で、ヘイズ大統領は一八七八年に再び銀貨を金と銀の比率を一対十六で鋳造を認めた。
 さらに一八九〇年に政府は財務省が銀を大量に買い、金と共に紙幣発行の本位とするための金銀による複本位制を取った。しかし、一八九三の大不況で、クリーブランド大統領は、大銀行家のJPモルガンのような大銀行家の圧力により、金本位の兌換による通貨発行を求めたので、財務省の銀の買い上げる法の廃止を模索した。大銀行達は、財務省保有の金塊の量が減少したのは、グリーンバック紙幣の所有者達が、銀の塊の証明書や金の払い戻しを要求したためと考えたからである。
 一八九六年の大統領選挙では、共和党の推す金本位制の通貨発行を主張するウィリアム=マッキンレーと金銀複本位制を主張するポピュリスト党を作った農民達は、銀本位を主張する民主党の候補、ウィリアムJブライアンを推し、選挙戦を戦い、マッキンレーが勝ち、一九〇〇年に金本位法を通過させ、金本位となった。
 その後、従来の銀行組織、連邦銀行と州立銀行の通貨、紙幣発行では不都合が生じ、産業の発展や、農業州のさらなる発展に、そぐわなくなっていた。そのため、一九一三年にオルドリッジ=ランド法により、連邦政府の通貨委員が出来、多くの民間銀行の出資による中央銀行の設立が勧告されたが、別のプージョ委員会は、私立銀行の有力なモルガン銀行、ロックフェラーが経営するファースト=ナショナル銀行など大銀行が小さな銀行も含め大半を支配していることが報告され、中央銀行の案は否定された。強い統制による都市に富が集中し、農業州への資金融資などが出にくくなるのだからだ。
 この点について、ウィルソン大統領の国務長官ウィリアムJブライアンは中央銀行の私企業による支配に反対し、政府の運営による中央銀行の設立を要求した。農民への融資などが出来ないからだ。そこで、ウィルソンはブライアンの意見を参考にし、多くの私立銀行の出資の連邦準備銀行(FRD)を中央に設立し、そして弱い統制による十二ヶ所の地域発行銀行を設備し、地域の事情の経済需要に合わせ、新しい紙幣を発行するようにした。四〇%の金準備高で、農民の救済のための短期ローンも発行できるようになった。この銀行には本来の連邦銀行や州立銀行も統合された。大企業に大融資をする市中中央銀行でなく、銀行間に融資する国の連邦政府の通貨発行銀行組織で、都会の商業利益と農民の利益の調整がとれた。なお四〇%の金本位は、大恐慌中一九三三年にフランクリン=ルーズベルト大統領によって金本位が大恐慌で停止されるまで続いた。それ以後は地域の需要に合わせ、金本位でない紙幣の発行をする完全な管理通貨体制となった。
 EUの通貨統合によって、人種、言語の違う国々を市場統一をした結果、競争力の強い独仏に通貨が流れ、繁栄し、反対にスペイン、ギリシャなど農業や観光を産業とする弱小国が貨幣を失い財政、経済破綻をし、ますます貧富の差が出た例は、アルバニアがイタリアやユーゴスラビアに経済、通貨統合された時、アルバニアの経済が混乱し、その両国によって経済支配された例よりも、はるか前、EU統合より、百三十年前、アメリカで通貨発行をめぐり、都会の商業社会と、南部、西部の農業社会の利益の対立、つまり、紙幣かコインか、金本位か銀本位か、国の中央銀行が良いか、農業州の需要に合わせた州立銀行かの抗争がアメリカで起こっていた。アメリカの場合は百年以上かかって通貨統一、発行の問題を解決した。
 アメリカの場合は、EUのように、中世以来の人種、言語封建制度が違う領邦国家から発展した国々を市場、通貨統合をしたために、工業力の差で貧富の差が生じたのと異なり、広い大陸国家の国内に於て、商工業社会と農業社会に於て、通貨の流通の仕方によって、貧富の差が出来、その問題を解決するため通貨の発行の仕方と金と銀による本位の仕方についての両者の抗争であった。
 EUが通貨統合を行う時、アルバニアの例は別にして、通貨を統合することによる、商工業社会と農工業社会に貧富の差が出る問題について、遥か前のアメリカの事例を参考にしなかったのは失策であり、いただけない。なぜならば、アメリカは独立した時に、ヨーロッパや中国、江戸時代の日本の政治行政制度を参考にし建国したのだから。
 EUがアメリカの百三十年もの発行銀行をめぐる抗争の例を見落した一つの理由は、戦後、ヨーロッパが戦禍になり、アメリカに財政援助を受け、アメリカに奪われた世界の主導権を取り戻したい一心で、通貨統合を急いだのだ。アメリカでさえ、体制を作るのに百三十年も掛けたのに、古き中世以来の異なる国からなるEUの通貨統合は無理がある。
 かつて、十九世紀にドイツでは独自の関税と通貨を持つ領邦国家を統一するため、関税同盟を作り、強いドイツ帝国を建国し、統一通貨を発行した。また、戦後、経済的に弱い小国、ベネルクス三国も関税を廃止し、市場と通貨の統一をし、繁栄した。このことは、経済的に弱い地域や小国が市場通貨統合をすれば、まとまった強国になるが、EUのように言語、民族性、そして面積、人口が違い、工業力のある強い国と工業力のない弱い国が統合すれば、貧富の差が大きく開く。EU統合で財政破綻したスペイン、ポルトガルや英仏はかつて、アジア、アフリカの国を武力で植民地として統合し、原料を供給地として搾取し、繁栄した。これも、EU統合の失敗の歴史的先例である。

  参考文献

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(流星群第24号掲載)