今から二十数年前、私はテキサス州ヒューストン市にある、南北戦争後差別されていた黒人に高等教育をうけさせるために設立された黒人大学の一つ州立テキサス=サザン大学の大学院に留学していた。その時、その大学の政治学の教授、何国正(日本名、山河正男、英名 KUO CHEN HO)先生の家に、毎週、金、土、日曜日に泊めてもらった。さらに同教授が経営していた中華料理店、GUN‐HO RESTRAUNT 和園で、バス=ボーイ(食卓で客の食べた食器を片づける役)をしながら、そこのレストランで雇われていたコックやその他の従業員達で、中国の色々な地域から出て来た人々を実際に観察して来た。中国の色々な地域(例えば広東省とか、四川省とか、胡南省など)出身の彼らを見た結果、中国人の複雑さ、中国人社会の複雑さ、中国人の色々な地域の人々の国民性の違いなどを垣間見ることが出来た。また、中国大陸の人々や、中華民国のある台湾に於ける明の末期に渡って来た台湾人と、戦後、蒋介石と一緒に来島した外省人とも、国民性が異なることがわかった。その体験について記する。
テキサス=サザン大学に入学した年の八月末に、大学に着くと、留学生のためのピア=カウンセラー(すでに大学の学生になっているアメリカ人や留学生で、新しく入学した留学生のために、学内を案内したり、相談に乗る人)の案内で、講堂に於ける学内の事務所、図書館、カフェテリア(食堂)の位置、科目の登録の仕方、授業料の払い方、寮に住む人については入居手続きの仕方など、全体的なオリエンテーションを受けた。そして、黒人の新しく入学した学生と共に、黒人の歴史学科長に初めて会い、秋学期(毎年九月初めから十二月三週目まで)の取る科目の選択を同学科長と話し合った。私の場合、歴史の大学院レベルだったので、多くの歴史書を読むコースや論文を書くコースで、とりあえず二科目を取ることにした。学科長キャルビン=リース氏は黒人とインディアンとの混血の人であった。
科目を登録して一週間ぐらいした時、講堂の脇にある、大学事務本部があるハナ=ホール(HANNAN HALL)の二階の教室を出たら、廊下でアジア人である日本人の私を見かけ、白人の血に近い黒人の大学の先生が、私に近づいて来て、握手をして来て、「元気でやってますか」とか、「生活にはもう慣れましたか」とか、声を掛けてくれた。その時は、「元気でやって下さい」と言って別れた。その人は社会学の学部長をやっていたセシル=パウエル教授であった。
それから一週間ぐらいした時、ある日の五時頃、大学のカフェテリアで食事をしていると、パウエル教授が丸いテーブルに座っていた。そして、私の向い側に座って食事をしてくれた。食事をしながら、私に話をしてくれた。パウエル先生の生まれたノース=カロライナ州の田舎の町のこと。また、同じ州の黒人の大学、ノースカロライナA&T大学で学士と修士を取った時の事、そして、その後博士を取ったケンタッキー大学での事や様子を話してくれた。また、テキサス=サザン大学で社会学の学科長をしていた時のことを親切にも話してくれた。私はパウエル教授に答える形で、私が何故、黒人大学であるテキサス=サザン大学に学びに来たかを話した。そして食べ終って、最後にセルフ=サービスのカフェテリアで食べた食器を片づける前に、
「大学内に日本語を話す教員がいるから、話しておいてあげよう」と言ってくれた。
それから三週間ぐらいして、ある日の午後、昼食をカフェテリアで終え、図書館へ行き、三階でスチール製の本棚で本を探して目を通している時、ちょっと日本語で「ここにはないのかなあ」と呟いた。すると、スチール製の本棚の向うから、中年の東洋人の人が顔を向け、私の方を見た。私が本棚から本を二、三冊取って階段の出口付近の仕切りのある読書机でそれらを読んでいると、ふと、私の肩を叩く人があった。顔を上げて見ると、先程、本棚の所で私の顔を見た人であった。その人は隣の読書机に座り、英語で話しかけて来た。「どこから来たのか」とか、「何を学んでいるのか」と私に聞いた。そして、私とカフェテリアで会った社会学のパウエル先生が、先日、「日本人の学生が来ているよ。研究室へ行くように言おうか」とその人に言ってくれたことを話してくれた。話し終わる最後に、日本語で「日本語を話します」と言ってくれた。
この人こそ、その大学、つまりテキサス=サザン大学で政治学を教える台湾人の教員、何国正(日本名、山河正男、英語で書くと、KUO CHEN HO)先生であった。昭和八年に日本統治時代の台湾の高雄市で生まれ、家柄は土地を多く所有する郷士であった。日本の官庁から委嘱され、高雄市の塩の専売権を与えられていた。何国正先生の父親の山河清氏は、日本統治時代の台北師範学校を出て、当時の高雄市の尋常小学校の校長をしていた。当時、学校の校長は日本人が多く、台湾人で校長になる人は数が少なかった。教頭は台湾人の人も数多くなっていたが。
戦後、中国大陸で対日戦争のため国民党と共産党は国共合作をしていたが、戦争が終った後、抗争が再発することが予想されたので、アメリカの将軍ジョージ=マーシャル(後の国務長官、国防長官で、欧州復興計画のマーシャル=プランで有名)は日本軍が降伏後、八月十五日に国民党軍に台湾を占領させた。その後、昭和二十四年に国民党が共産党に内戦で敗れ、蒋介石以下二百万人の中国人が台湾島に逃れて来た。この二百万人を外省人と言い、日本時代からいる台湾人(本島人)と区別している。顔立ちも異なる。
国民党の亡命政権統治によって何家は没落させられた。土地政策によって何家から多くの土地を取り上げた。また父親の清氏が地方議員に立候補した時、投票数では明らかに勝っていたのに、選挙を管理する者が国民党員であったため、台湾人に政治参加をさせまいとして、清氏に投票した用紙を手垢で汚し意図的に無効票、廃票にし、当選を阻止させられたのだった。
何国正先生は多くの兄弟の中で下の方で、中華民国の兵役で軍の英語の教官をした後、アメリカへ渡り、夜、飲食店などで働きながらサン=ノゼ州立大学(カリフォルニア州)で政治学の学士と修士を取り、その後オレゴン州の小さな大学や黒人大学のアーカンソー州パインブラフにあったアーカンソーA&T大学で教え、その後、一九七三年インディアナ大学で博士を取り、テキサス=サザン大学に赴任した。それから六年後に私が同大学に留学し、何国正先生と私が会うことになった。何国正先生にとって、昭和二十年の終戦の年まで今で言う小学校に当たる尋常小学校で、十二才の時まで日本語教育を受けたので、日本人が懐かしかったことや、黒人大学であるテキサス=サザン大学には日本人がほとんど留学して来なかったので、日本人の私が学びに来たというので、私に会いたがっていたようだ。
それから約一週間ぐらいして再度、図書館の一階の参考図書の読書用の椅子のところで何国正先生に会った。この時は日本語で何先生がインディアナ大学で博士を取った時の事などを話してくれた。
そして十一月の中頃、サンクスギビングデーの時、一泊二日で泊まりに行った。それより前、九月中旬に、一度何先生の家に行ったことがあった。何家は、ヒューストン市の中心街から北に約七十キロ、高速道路で一時間ヒューストン=インター・コンティネンタル空港から少し入った高級住宅街にあった。一泊で泊まりに行った時、初めて台湾人の奥さんと息子のギルバートと会った。二人は戦後生まれなので、日本語は話せないので英語で話すしかなかった。その時は、丁度、松の木の雑木林を切り開き、中華料理屋 和園 ガン=ホー レストランを新築すべく、土台工事をしていた所であった。この時初めて七面鳥(ターキー)を御馳走になった。
それから一年ぐらい過ぎた十二月末、秋学期と春学期の間のクリスマスと新年の休み期間三週間は学生寮が閉まり、どこか他の宿泊施設か、友人の家などに泊まり過ごさなければならない。この時は市内の安いホテルかモーテルなどを探したが、予約が遅かったのか、どこも見つからず、何国正先生の家へ電話をし、当時、中華レストランの従業員用に借りていたアパートに泊めてもらうことにした。当時、皿洗いをしていた出稼ぎのメキシコ人と同居することになった。メキシコ人があまり英語がわからず、私がスペイン語を話せたからである。私がスペイン語を話せたのは、大学時代に日本でスペイン語を学んでいたからである。
約三週間、大学が休みの期間、何先生のアパートに泊めてもらう代わりに、大きな中華料理レストランを手伝うことになった。クリスマスの期間、年末、年始の時期はレストランに食べに来るアメリカ人客も多かったからである。やった仕事はバス=ボーイで、客が食べ終わった食器を片づけることであった。それと、メキシコ人の出稼ぎ労働者を二名使っていたので、私がある程度スペイン語が話せたので、彼らの通訳をもやった。
三週間ぐらい泊めてもらい、正月が明けて大学の学生寮が開いたので、大学の寮へ帰る時、台湾人の奥さんから私に、毎週金曜日に来て、土、日と月曜日の朝まで、二泊三日で、中華レストランを手伝ってくれないかと頼まれ承諾したので、一月中旬よりそうすることにした。
毎週、月曜日から金曜日まで、大学の一回、三時間の授業に三回出て、毎日授業と三回のカフェテリアでの食事を間に挟み、図書館と寮の机と教室との往復に追われた。多くの本を図書館から借りて来て読み、レポートや論文を書いたりして、きつい勉強であった。
金曜日の夕方になると、何国正先生が自動車に乗せてってくれ、約一時間でレストラン和園に到着、そのまま夕方六時以後夜の十一時まで手伝った。
アメリカ人は一週間、会社での仕事にうんざりし、金曜日に解放され、その夜は家族と一緒にレストランで外食をして気分転換をする。そのため、金曜日は夜六時頃から大変忙しくなる。七時頃になると、人々がお客として入れ替わり立ち替わり来客し、駐車場が自動車でいっぱいになる程忙しくなる。
土曜日は昼食後多くの人々が食事に来て、夜も同様にレストランは客でいっぱいになる。
日曜日は、人々が午前中に教会に行くため朝食を食べていないので、朝食と昼食を合わせたサンデー=ブランチという特別の食事をレストランでは出す。そして夜の十一時頃レストランを閉めるまで手伝い、月曜日の朝、何国正先生の自動車で大学へ戻る。毎週このパターンであった。
レストランがガン=ホー レストランという名の他に「和園」という名前を使っていたのは、何国正先生が日本時代の懐かしさから、レストランの屋根を日本の農家の茅葺きの屋根の形にしたからであるという。
レストランを手伝っていた事で、雇われていたコックなど多くの中国人で、違った出身地の人々の違いを細かく観察することが出来た。北京あたりの河北省や山東省から来た者、南京あたりの江蘇省あたりから来た者、その他胡南省、山西省、福建省あたりから来た者、広東省あたりや香港から来た中国人、台湾から来た外省人など様々な地方出身の中国人を見ていた。彼らの言葉はわからなかったが、彼ら色々な地方出身の中国人の特性をつぶさに観察すると、彼らの民族性、習慣が出身地によって違い、さらに出身地が違うと中国人同士が排他的であって、お互いにうちとけないことがわかった。言葉についても毛沢東が中国共産党政府を樹立した後、中国全土を統一するため、北京周辺の中国語の一方言、北京語が行政上の公用語、北京官話として広く使われ、学校でも教育された。
しかし、それでも各省出身の人間は、なかなか北京官話を使おうとせず、各地の南京語、上海語、福建語、広東語などで話し、お互いに通じない。そのため時には英語で話す場合もある。新聞などを読んだ場合は、同じ漢字なので読めばわかるのだが、話した場合は、例えば北京語と広東語では漢字の発音が大部違うので、まったく通じない。何国正先生によると、北京語と広東語や、元々福建語であった台湾語の違いは、日本語と中国語、即ち北京官語ほどの違いがあるという。この点、日本人が中学三年生まで学校で国語を習い、漢字を相当習っているので、高校一年になった時、中国語の古典である漢文を、発音はわからなくても書き下しという方法で唐の漢詩などを読めるのとよく似ている。
レストランという職場でも、中国人の出身省が違うと、民族性が違い対立していた。この点について、何国正先生がレストランの経営者として苦労し、頭を悩ましていた。ある時、中国人で違う省出身者二、三人がグループを作り喧嘩をして、喧嘩両成敗で双方を解雇しなければならなくなった。経営者の何国正先生は、すぐにアメリカ内にある華僑に連絡をしたり、台湾からコックやその他の従業員を雇用しなければならなかった。
また、ある中国人のコックは、ある期間働いていやになると、無断でやめて出て行った。金曜日の夜、アメリカの友人の所へ行くと言って、月曜日には帰らず、夜逃げして行った。ある中国系のコックは、一つの店に勤めながら秘かに他の中華料理屋のコックと情報交換していて、給料やその他の条件が良い店へ勝手に移って行ってしまう。また、店にあきたりず、店の経営者と対立したりすると逃げていってしまう。一般的に中国人は自己中心的で、自分の欲求を通そうとする。通らないと怒ったりする。
中国人の中でも、とりわけ福建省の出身者、広東省の出身者が仲が悪くソリが合わない。元々、福建省と広東省では、風土、環境が大いに違い、中国人の間でも、気質、習慣がまるで違う。福建省の人間は農業もやっていたが、主として東シナ海沿岸での漁業や、船を使って台湾、フィリピンや東南アジアでの海外貿易をしていた民族であった。特に十七世紀以後、台湾の台中に入植していた。この時に、すでにインドネシアのジャワから北上していたオランダが台湾の台中に先に植民をして、日本の長崎の出島への中継地としていた。その後、長崎の日本人を母に持ち、長崎から明へ父親と一緒に帰った鄭成功が明の残党の軍を使い、台中のオランダの勢力を駆逐した。さらに、フィリピンの上流階級の中国系やマレーシア、シンガポールの中国人社会を福建人が移り形成した。フィリピンではスペイン系と共に中国系もスペイン語を話す。
一方、広東人は奇妙な風習がある。女と男の生活の役割が主客転倒なのだ。女が外に出て畑を耕し、働き、男が家の中で家事や子供の世話をする。そして、広東人は海外に出稼ぎに華僑として行く。世界の色々な国へ行って広東人のみの地域を作る。アメリカでは貧しい黒人の社会に個人経営のスーパーマーケットや雑貨屋を経営している。そして自分達は比較的高級な住宅地に住んだりしている。貧しい人々から富を得ているので、広東人は「東洋のユダヤ人」などと呼ばれている。
広東人の仲間で、香港の港で黒い船、ジャンクと呼ばれている水上生活者がいるが、これもルーツは広東人だと言われている。
このように、福建人と広東人は習慣、生活感、民族性が違うので、お互いにうちとけない。対立ばかりする。
アメリカの中華街でもサンフランシスコの中華街とロサンゼルスの中華街ではチャイナタウンとしての民族性が違う。サンフランシスコのチャイナタウンは広東系人の独占である。「広東語を話さない者は人でなし」という言葉があるくらいで、サンフランシスコのチャイナタウンでは中国の他省の出身者の参入を許さない。そのくらい排他的なのだ。かつて、渡辺はま子が、「サンフランシスコのチャイナタウン」という歌を唱っていたが、それは広東人の社会を唱っていたのだ。本人は、その事を知らなかったかもしれない。
ロサンゼルスのチャイナタウンは、いくつかの中国の省出身者がいるが、別々に華僑組合を作っている。ここは、かつて中国国民党の創始者、孫文も亡命していたこともあり、その後も国民党の支部があり、スパイ活動をしていた。
その他にニュー=ヨークやシカゴ、シアトルなどにチャイナタウンがあるが、中国人の出身省はまちまちである。華僑組合は各省人ごとに別々に作っている。テキサス州ヒューストンにはチャイナタウンから離れた所にベトナム人のベトナムタウンがあり、食料品店や飲食店をやっている。
日本に於ける中華街を見てみると、横浜の中華街と神戸の中華街が有名で、二大チャイナタウンであるが、とりわけ横浜の中華街は各省出身者の垣根が取れ、一体となっている。世界中のチャイナタウンでも横浜ほどまとまりのある所はない。広東人、上海人、北京人、山東人、胡南人、台湾人など仲よくやっている。これは中国人の一世が日本人の女の人と結婚し、二世、三世となるにつれて中国各省の古い習慣が薄れ、日本語で話し、日本に同化したためである。そのため、二世、三世には中国の民族性を教育するため、中国語、北京官話で中華学校にて教育をしている。二世の中国の各省出身者が、共同で出資し関帝廟を作り、横浜の観光地として寄与している。
神戸の中華街も色々な中国の省出身者で成り立っているが、広東系が優勢である。
日本の中華街は、コックなどを日本の中華料理店の店主が香港や中国各地や台湾から雇い、一時的に働いた者が、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどの中華街へ働き場を移す中継地となっている。
台湾には、台湾人と中国人(外省人)、そして高砂族、つまり原住民と三種類いる。まず、台湾人についてであるが、元々は十七世紀明の王朝が満州の女真族により滅ぼされ、清に王朝が代った時から、対岸の福建省から徐々に移民して来た人である。すでに述べたように、オランダが最初に台中に要塞を作り植民地化したが、前述のように明の軍人、鄭成功がオランダを台中から駆逐し、三世紀もの間だ、福建人が徐々に台湾に入植し、台湾の島に根づき、台湾人となる。
そして、三世紀ぐらい経った時、日清戦争が起こり、日本の勝利となった。台湾は正式な中国、即ち清の領土となっておらず、主権もはっきりしていなかったにも拘らず、日本が領有権、主権をはっきりさせ、清に認めさせるため、下関条約で清から台湾を日本に割譲した形にした。
その後、五十年日本の統治下で、乃木希典など軍人を総督に置き、地方に行政官を置き、台湾人に学校に於て日本語で教育をした。
何家については、土地をたくさん持つ階級の家柄であったので、父親を校長にしたり、塩の専売権を与えて、日本政府は保護した。よく、日本人の地方官吏が台湾の高雄に赴任すると、何家に挨拶しに来たそうだ。
戦後、蒋介石の国民党が共産党に追われ、台湾に来た時、約二百万人の中国人、即ち外省人が台湾に逃れて来たが、台湾人と外省人の見分け方は、日本時代に日本語教育を受け、台湾語と日本語と両方を話すのが台湾人である。台湾人の方が日本人より肌が白いが、風貌は日本人に近く、外省人の方が痩せこけていたり中国大陸人らしい顔をしている。芸能人で言うと、テレサ=テン(_麗君)、欧陽菲菲などが外省人で、ジュディオング(翁倩玉)が台湾人である。
台湾人の他に日本人から戦前、高砂族と呼ばれていた原住民が存在する。オランダ人や台湾人が福建省から入植前から台湾島に住んでいた原住民で、元々はフィリピンから渡って来たと言われている。初めのうちは今の台北、台中、台南、花蓮港などの平野に住んでいたが、台湾人が入植するにつれ、追われるように山岳地帯に住むようになった。アミ族、タイヤル族などいくつもの部族に分かれ暮し、それぞれ違った言語を話していた。日本統治時代に日本語が教育され、現在も日本語が多くの部族の共通語となっている。日本の商品やビデオ、CDなど高砂族の山岳村へ運ぶ行商のルートが今もある。
台湾人の中には少数ではあるが客家(ハッカ)と呼ばれる人々がいる。出身が迷であって、広東省の海での船上生活者だと言われている。香港なんかでジャンクと呼ばれている人々の一派だと言われている。
終戦の時、日本が敗戦となった昭和二十年八月十五日、中国国民党軍が台湾を占領し、それ以後、長い間、九〇年代台湾人出身の李登輝総統まで中華民国の亡命政権として、民主的選挙が行われず、野党のない一党独裁政治が続いた。
アメリカの将軍ジョージ=マーシャルが、戦時中に抗日戦線のため、国民党と共産党による第二次国共合作が崩れ、戦後、国民党と共産党による内戦抗争が予想されたので、前もって国民党軍に台湾を占領させたのだ。
一九四九年、中国全土で共産党軍に敗れ、共産党が中華人民共和国を樹立すると、蒋介石国民党総統は台湾に亡命政権の中華民国を作り、中国人約二百万人を台湾に移住させた。これが台湾人(本島人)に対して外省人となる。
これ以後、一千三百万人以上いる従来の台湾人を弾圧し、政治運動、言論の自由を規制し、違反すると逮捕し、民間人なのに軍人の犯罪を対象とした軍事法廷に掛け、重い罪を課した。昭和二十二年二月二十六日の高雄市事件では、国民党軍事裁判権に反抗する台湾人を何人も高雄市の駅前広場で地面に木の棒を打ち、縛って公開銃殺に処したのは有名である。この事件は長い間、語ることをタブーとされていた。以後、台湾人は反乱せず、おとなしくなってしまった。
台湾人と中国人(外省人)の比率は八割と二割である。経済的自由は資本主義が認められ、経済力、主導権は台湾人が持っている。
国民党が台湾で軍事亡命政権を樹立した後、本省人である台湾人と外省人である中国人の民族的対立が起きる。台湾人は元来、先祖が中国大陸の福建省の出身であったが、約三世紀の長い間、台湾島での生活で身につけた中国大陸の人とは違った独立した民族性を持ち、日本統治時代に日本の教育を受け、日本の文化、風習を身につけた台湾人と、戦後、中国大陸から亡命して来た色々な省出身の中国人(外省人)とは合わず、また、蒋介石の国民党の政権は一党独裁、軍事政権を敷き、中国人優位の統治をしたので、台湾人の政治や行政に参加する事を望まず弾圧した。
台湾人は日本統治時代は、ほとんど反乱も起こさなかった温和な民族であったのに、国民党がやって来たら、国民党の独裁的、圧制的統治にすぐに反発し、各地で国民党打倒の台湾独立運動、台湾人自治の運動を起こした。
また、台湾人が地方議員に出たりすると、国民党は選挙人に贈り物や金銭を与え、台湾人の候補に投票しないよう圧力を掛けたり、投票されたものを選挙管理をする国民党員が不正をし、無効にしたりした。すでに述べたように何国正先生の父、山河清氏は、高雄市の議員に立候補し、台湾人の票を集め、勝っていたのに、国民党員の選挙管理人によって手垢をつけられ無効にされ、陰謀で落選させられた。
こうして台湾人は、戦後、中国から来た中国人を不信に思い、戦前受けた日本語教育や日本文化に対し懐かしく思い、日本人には親しみを持ち、戦後も台湾に訪れた日本人観光客に対しても親切にしてくれるのだ。また、日本のテレビ、ビデオ、映画、日本の本にも親しんだ。
何国正先生がアメリカの黒人の大学で日本人の学生であった私に世話をしてくれたのは、日本統治時代に日本語教育を受け、日本の文化、風習を身につけていたので、日本人に対して親しみがあり、懐かしさがあったと思われる。中国人である外省人は、台湾人に対し高圧的な態度をし、国民党政権が圧制したので、外省人に対しては台湾人は嫌いだが、日本人に対しては、戦前の懐かしさもあり、割と日本びいきである。しかし、その後、蒋介石の国民党の中国語(北京官話)による教育が行なわれ、戦後世代になると、戦前の日本語教育を受けた台湾人と中国人との意識が失われ、台湾人も同化というか、中国人意識が植えつけられた。
何国正先生の家にお姉さんや姪二人がいた。お姉さんは尤何玉香さんで、その娘さん、そして、もう一人の姪はルイジアナ州立大学に通う食品化学を専攻している大学院生であった。
お姉さんの玉香さんは戦前の日本統治時代の日本人と台湾人の関係や何家の様子などを話してくれた。すでに述べたように何家は多くの土地を所有し、日本政府から塩の専売を委され、お父さんの山河清さんが、台北師範を出て高雄の国民学校の校長をしていた事などを話してくれた。台湾人は教頭までは多くの人がなったが、校長は日本人に比べ少なかった。清氏はやはり家柄がよかったので校長までなれたのだ。
台湾人は比較的穏和な性格、国民性のため、日本人の台湾での統治がうまくいったのだ。玉香さんの話からそれがわかった。これが気性が荒い朝鮮人には、日本が統治するのに軍事力、警察力をもって強く取締らなければならなかった。日本人に反抗し対立したからだ。
また、従順な南洋諸島のパラオ諸島とか、トラック諸島、サイパン島などの原住民に対しても、日本の統治は、日本語教育を通してうまくいっていた。そして、軍事占領したラバウルのあるパプア=ニューギニアでも、従順な原住民は日本人の農業指導もあり、日本人とうまくいった。
玉香さんは台湾人であったが、家柄がよかったので、当時の女子の高等教育である高雄高女に入れてもらえたそうで、戦後になっても日本人の卒業生達と高雄市でクラス会を時々やっていたそうだ。
その後、玉香さんは結婚し、御主人の大阪の商業学校入学のため、台湾の基隆から船で瀬戸内海を通り、神戸で上陸したそうで、初めて見る瀬戸内海の島々の美しさが良かったそうだ。関西に二年ぐらい住み、長男を出産し、その後、御主人の東京にある日大入学のため、東海道線に乗って上京し、東京の中野に下宿し住むことになる。列車で上京する途中、蒲原から沼津の間で、初めて見る冠雪の富士山の雄大な姿を列車の窓から真正面に見たので感激し、新ためて「富士山は日本一の山」と実感したそうだ。私が「台湾の新高山(中国名 玉山)の方が当時は、標高が高いのではなかったですか」と言ったところ、「富士山の方が麓からの高さのある大きな山で、雄大さがあったので、やはり富士山は『日本一の山』であると思います」と言ってくれた。
戦前、台湾人が日本語教育を受けたことで面白い現象がある。戦前の台湾人は家では当然、福建語から発展した台湾語を話すが、学校では日本語で教育を受けたので日本語も話す。そこで、台湾人同志で話すと、通常、当然のことながら台湾語で話すが、ある時、突然日本語に変わり、また台湾語に戻ったりする。そして、また日本語が出て来る。これが自然なのだ。意図的に日本語を使っているのではない。玉香さんによると、日本語の方が言い易い時は日本語で言うそうだ。例えば「早くいらっしゃい」など。このことは、戦前の日本の台湾人への日本語教育がかなり成功した事を意味している。蒋介石の国民党が台湾に来て、台湾人が反抗した時、連絡はすべて日本語を使ったそうだ。台湾語だと戦後、福建省から来た者に知られてしまうからである。
また、台湾人が台湾人同志で手紙を書く時は日本語で書く。それは、話すと違うが、台湾語も北京語も書くとすべて画数の多い漢字で書かなければならないが、日本語で書くと、ひらがな、カタカナを多く含んでいて、短時間で文章が書けるからである。つまり、日本語の方がすらすら書き易く便利だからだ。
若い世代の台湾人は、国民党による中国語(北京語)の教育を受けたので、台湾語と北京語しか話せなかった。何国正先生の奥さんは戦後派であったので、台湾語と北京語しか話せず、日本語は話せなかったので、私とは英語で話していた。玉香さんの娘さんは、学校で北京語を習っていたので、台湾語と北京語の他に、台湾に於て日本の企業に勤めていたので日本語が少し話せた。
面白いことに、戦前日本語教育が行なわれ、台湾語にも北京語にも日本語から入った言葉がいくつもある。「背広」「お酒」「みそ」「タクシーの運ちゃん」「油揚げ」「おじちゃん」「おばちゃん」「むずかしい」などなど。
何国正先生の息子ギルバート(何義抜)とは兄弟みたいに接していた。もちろん英語であったが、色々なことをして遊んであげた。一番最初に会った時は、テニスボールを使い、ピッチャーのまねをして、レストラン和園の玄関、入口の脇の壁にぶつけた投球をして、バッティングをさせた。ある時は近くのスーパーへ気晴しに連れて行った。部屋がなかったので、私は同じ部屋に寝泊まりをした。英語で面白い事を言って笑わせていた。
一番最初に会った時は、小学校五年生ぐらいであったが、兄弟がいなかったので、ちょうど私がレストランを手伝うため、一週間に一度泊まりに行っていたのでいい話し相手になった。面白い事を見つけては教えたりした。例えばヒューストン市内に日本の麦茶を売っていて、それを飲ませたり、日本のテレビ番組の話をしたり、当時、現地で放送していた日本のアニメの話をした。また、学校の宿題で数学やスペイン語の文法なども教えた。
私がテキサス=サザン大学卒業後、しばらく会っていなかったが、手紙をやりとりしていた。頭脳明晰であったギルバートはミズーリ大学の医学部に全米から十人選ばれた特待生になり、生物学の三年生で学部を終えずに三年間の医学部大学院に行ける六年間をセットされたコースに入学出来た。通常、アメリカで医師になるためには生物学で学士を取り、成績が良い場合、医学部の大学院で学士の上、九十単位を取り、MD(医学博士)になる。この場合、たいがい学部を卒業した学校と違う大学へ行くのが普通だが、ギルバートの場合はミズーリ大学医学部のセットされた特別コースである。MDは医師という職業に必要な学位で、学問的な学位の博士(PHD)例えば英文学や歴史学、政治学、生物学などの学問学位より下で、それらの修士と博士の中間の学位がMDなのだ。PHDもMDも学士の上、九十単位を取るが、MDには博士論文がないのでPHDより下なのだ。医者の中には、生物学の小分野、解剖学、病理学、免疫学、微生物学でPHDを取る人もいる。この方が医学部の教職に就けるからである。
その後、日本に戻っていた時に、ギルバートがミズーリ大学医学部の最後の年に、脳科学の実験をしていた。脳の神経細胞のつなぎ目に脳内のある酵素が入り込むのを阻害するのに、日本の化学メーカーのみが製造している炭素Cと全身麻酔薬エーテルのEの化合物C12E8の物質を捜していた。
ある日、ギルバートから手紙が来て、この物質のサンプルを買ってミズーリ大学医学部に送ってほしいという依頼があった。そのすぐ後に、ミズーリ大学の医学部の主任教授から依頼の手紙があったので、すぐに最寄りの図書館へ行き、電話帳を引くと、その化学メーカーの会社は東京の日本橋にある事がわかった。早速、電話連絡すると、C12E8の物質を製造している事がわかった。そればかりかC11E6、C10E6など炭素Cと麻酔薬Eの化合物をこの会社だけが製造している事がわかった。訪ねて行って担当者に会って聞いた所、日本の大学や工業会社にはほとんど納入していないが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアの大学、医学部や理工学部に納入している事が分った。すぐに二箱買い、自宅近くの郵便局から航空便でミズーリ大学の医学部に送った。これについては、アメリカ人の医学部主任教授から、お礼の手紙が届いた。後日、会社の担当者に聞いたら、ファックスでミズーリ大学の医学部から同化学物質の大量注文が来たそうである。
私がミズーリ大学医学部に依頼されたのは、ギルバートが主任教授に、以前にテキサスの実家で日本人の留学生の私を預かっていたことを話した事による。もう一つは、たとえ日本の医者に知り合いがいたとしても、ミズーリ大学の医学部としては自分達がやっている脳の実験を、その日本の医者に依頼することで知られてしまい、日本で先に実験をやられてしまい論文を発表される恐れがあるからだ。そこで、秘密の保持のため、医者でない私に白羽の矢が立ったようだ。
アメリカの医学部の日本の代理人をやって学んだのは、日本の医学部はアメリカやヨーロッパの大学の卓れた実験に、自分達の足元にある会社が作っている化学物質が使われている事を知らないという事実だ。それを知るのは、臨床上必要になった時、後日、論文を読んで知るのだ。そればかりか、医学に限らず、化学でも物理でも、アメリカやヨーロッパの研究者がノーベル賞を取った業績の影には、日本の無名の会社が作っている化学物質や部品が使われ、手助けしているのではないかと感じた。アメリカの医学部の代理人になったことで、同医学部の内幕を垣間見る事が出来た。
その後、ギルバートはミズーリ大学の医学部を終え、カリフォルニア大学サンティアゴ校の医学部脳科学研究所へ就職し、老人性の脳病、アルツハイマー病、パーキンソン氏病、ハリントン病、ピッグス病の臨床的研究をしている。ノーベル賞等を取る勢いである。
こうして、台湾人の教授の家に泊めてもらい、また中華レストランを手伝い、多くの地域の中国人の民族性、文化、習慣の違いを知ることが出来た。また、台湾人の家族の中で、台湾人のことを知ることも出来た。多くの地域の中国人が一ヶ所に集まっていたから出来たことで、もし実際に中国へ行ったら、何千キロも大陸を廻らなければ出来なかったろう。貴重な体験であった。また、台湾人の家族に世話になりながら、未だ台湾に行っていない。これから台湾へ行こうと思う。何家で学んだことは、何家族が台湾の習慣や文化を保ちつつ、アメリカ人の住宅地でアメリカの生活様式を合わせ持っていたことだ。ここが現地でアメリカの社会になじまず、自分達の社会を作る中国人や日本人と違っていた。
EU通貨統合による問題と、過去に於ける アメリカに於ける中国人、台湾人の社会
(流星群第24号掲載)