アメリカ銃社会の特質

 多くの日本人が海外で商社などの企業の社員として出張したり、また何年か企業の現地事務所に駐在したり、又一般の人が海外旅行を何回もして帰国すると、海外の色々な所へ行ったり、滞在した場所について、見聞したことを自慢して話し、あたかもその国の場所や社会を知っているかのように他人に話すことがしばしばある。しかし、彼らは、それら海外にいた土地の社会について何も知ってはいないのだ。彼らは海外旅行で行った土地や企業の出先機関のある海外の土地に何年か駐在した場所の町並みや風景、飲食店などを外観的に見て知っているにすぎない。
 なぜならば、滞在した海外の地の現地の人の社会に入り込んでいないからだ。現地の人の社会に身を置き、例えば現地の人の隣りに住んで現地の人の言語で話したり、教会に通ったりして現地人とコミュニケーションを取って、社会性をつけ、その国の日本と異なった国民性を何も身につけていないのだ。
 長期間海外の現地に駐在する商社などの社員は、取引上最小限に現地の外国人と接するが、英語など外国語が必要な時は、現地の外国人秘書に任せている。それ以外の時は、他の企業の日本人の人々と同じ地域に固まって住んで、飲食をしたりして、日本人のみと付きあい、親睦をし、日本に帰ってから役立つ、日本人同志の人脈づくりを海外で行っているのだ。やはり、現地人と外国語で話すのが困難で、慣れた日本語を話したいがため、日本人同志の付きあいとなる。そのため、滞在した国の外国人ともほとんど接しないので、外国語も苦労して身につけず、現地の人々の物の考え方や習慣も身につかない。つまり、日本人は海外に滞在しても、国際性を身につけて来ないのだ。
 この点、私はアメリカの大学の歴史学の大学院に在籍し、黒人大学であったので、他の黒人学生二、三人と寮の一室で生活を共にし、その廻りの黒人社会の人々と接し、泊めてもらったり、教会に行ったりし、黒人社会に馴染み、さらに白人社会、スペイン語を話す、メキシコ系米人の社会にも融込んだので、アメリカ人の習慣や英語を充分に身につけ、社会性、国際意識、感覚を身につけることが出来たのである。とりわけ、自分自身も銃を身につけ極貧の黒人社会を歩いたり、アメリカ銃社会の特質を見たり体験した。以下、日本人の企業社員がアメリカでは絶対に入り込まない銃社会体験について記してみたい。
 私が銃社会の体験があるのは住んでいたアメリカ社会の環境による。アメリカの黒人大学、テキサス州ヒューストン市にあるテキサス=サザン大学に留学したことによる。大学の廻りは黒人の住んでいる黒人社会であり、ヒューストン市の広域の黒人社会は、その中でも貧富の差があり、大学の廻りの黒人社会はさほど貧しくなかったが、黒人社会の中でも地域によっては、極貧で、危なく、強盗や銃の発砲による犯罪の起こる黒人社会もある。全体的に見て、白人社会に比べれば、黒人社会は貧しく、銃による犯罪が起きやすい社会であるが、そうかと言って、相当な貧しい、大変危険な地域と呼ばれている黒人社会でも、戦場のようにしょっちゅう弾丸が飛んでくるわけではない。
 テキサス=サザン大学に留学していた時、歴史学の大学院に留学していたので、勉学が大変きつかった。何冊もの歴史の厚い本を読むコース、論文を書くコースなど大変量が多かったので、毎日、こんな過酷な勉学をしていたならば、頭が疲れて働かなくなってしまう。何か本から離れ、気晴しをしなければならない。
 その方法として大学のあったアメリカ南部の大都市ヒューストン市内を隈なく網羅している市内バスを四方八方に乗り、市内を隅々まで見てやろうと思った。市内には、裕福な白人が住んでいる地域、スペイン語を話すメキシコ系米人が住む所(彼らはそれ程裕福でない)、不法にメキシコから渡って来た人々が住んでいる地区、その他中米の国々の人が住む地域、貧乏な白人の住む所、黒人の住む所、スペイン語を話す人と黒人や少しの裕福な人が混成して住んでいる所など様々な人種の地域社会がある。
 黒人の地域は、その内部の黒人社会で貧富の差があり、広くヒューストン市の東部を占めている。その黒人社会は、外部から社会全体を見ると白人社会から見れば、相対的に貧しいが、広い黒人社会の中でも、比較的裕福な地域とそうでない地域、そして極貧の地域がある。この広い黒人社会は、郵便番号では77003、77004、77005に分かれるが、それぞれ、・003、・004、・005に合せ、3RD(サード)ウォード(WARD地区)、4TH(フォース)ウォード、5TH(フィフス)ウォードと呼ばれる。ウォードは地区を意味し、日本のように東京の特別区や政令指定都市の区のように行政体を持たない、便宜上の通称の区なのだ。
 中でも、5THウォードが極貧な黒人社会なのだ。その中でもライオンズ=ストリートは、ボストンやニューオリンズの似たようなストリートと並んで、全米三大極貧ストリートの一つであった。ここへは、周辺の貧しい地域の黒人でも近寄らないという通りであった。  勉強の合間の気晴しに、ヒューストン市内の路線バスをすべて終点まで乗ってやろうとしていたので、市内の東西南北、白人社会、メキシコ系米人の住んでいる地域など色々な場所を訪ねて行った。黒人の社会は、いくつかの地域へ行ってみた。多くの黒人が礼拝に来ている黒人地区の教会に行ってみたり、黒人地区の古道具屋、古着屋へ行き安い物を買い、黒人相手の安い食堂や黒人のおばさんがやっている自宅を改造した内職の店で、ハンバーガーやホットドッグ、コーヒーなどを非常に廉価で食べて楽しんだりした。その後、極貧の黒人の地域、5THウォードのライオンズ=ストリートへも是非行ってみたいと思った。
 当時、大学の寮に住んでいたので、副寮長に「極貧のライオンズ=ストリートへ行きたい」という希望を話したところ、「黒人でも近寄らない場所だから、行かない方がいいよ」と忠告され、「あそこへ行く時は銃を持っていかなければならない」と教えてくれた。  大学に入ったばかりの時、大学の近くの小さな安酒場でテネシー=バーボンウイスキーを飲みながら話し、顔見知りになった大学の近くの黒人の家の主人に、スーパーマーケットへ行った帰りに立ち寄り、「5THウォードのライオンズ=ストリートへ行って歩いてみたい」と話したら、「危いからやめろ」と一応、諫められた。後日、その家へ遊びに行った時、「どうしても黒人の極貧の街、ライオンズ=ストリートへ行き、様子を見てみたい」という私の強い願望を話したら、「どうしても行くのか。それなら、行く時は必ずウチへ寄って声を掛けてから行けよ」と言ってくれた。この人はかつて立川基地に兵士として赴任していたことがある。
 そしてライオンズ=ストリートへ行くと決めた日に、その家に行くと、主人が「どうしても行くのか。それなら渡すものがあるから」と言って奥へ行き、手持ち金庫を出し、持って来て、中を開いて二十二口径のリボルバーの拳銃を出し、「何かあったらこれを使って身を守れ」と言ってそれを持たせてくれた。
 その日はバスに乗って黒人でもなかなか近づかない、極貧の街、ライオンズ=ストリートへ向った。私が在籍していたテキサス=サザン大学はヒューストン市の中心街ダウンタウンから南西に四キロ離れた所にある黒人大学であり、東に五百メートル離れた所に、もっと大きい州立大学、ヒューストン大学がある。
 バスに乗って北の方、ダウンタウンに向うと、古くなった木で出来た黒人の家々の住宅街を抜け、黒人がやっている古くなった靴屋、銃砲店、ケンタッキーフライド=チキンの店、黒人のやっている安バーなど店が並んでいるダウリング=ストリートを通る。廃校を利用した黒人の病院もある。その後二十分、大学から乗ると、ダウンタウンに着く。ここは中心街で、ビジネス街でもある。市役所、連邦政府支所、ヒューストン警察やFBI支所、裁判所などの官庁や会社のビル、デパートやスーパー、レストラン、洋品店など多くの店が並ぶ。バスはその中心街から北東に曲がり、やがて東の方へとライオンズ=ストリートへ向かう。十分くらいでライオンズ=ストリートを通る。通りは、かつては白人が住んでいたお店が並んだ所のおもかげがあり、その後黒人が入って、貧しい地域になったようだ。通りの両側に屋根や壁が崩れた家、災害の後のような壊れた家々、明らかに人が廃材で作ったバラック、壊れていないが黒ずんだりした広く大きな家、崩れかかった、かつての酒場、ビリヤード場、レストランなど極貧の街だと分かる。黒人の男達が汚れた上着を着て、椅子に座って、ウイスキーの小瓶で昼間から酒を飲んでいた。何人かの男達は通りの歩道や車道に足を投げ出し、酒に酔ったのか、寝ていた者もいた。
 私はバスを降り、その地点から二キロぐらい歩いてみた。初めてライオンズ=ストリートへ行った時もそうだが、それ以後そこへ行った時も、バッグの中に大学の近くの黒人の主人に借りた二十二口径の拳銃を入れて、隠し持っていた。アメリカの住所は、日本の住所のように一定の大きな土地に番号を打ち、○○町三百六十五とか21514のようになっているのと違い、ストリートに0から千番台まで等距離に番号を付け住所にしている。バスを下りた所がライオンズ=ストリートの千(一〇〇〇)だとすると、五〇〇〇番まで歩いた。約四キロである。歩いている途中、変な汚い格好の男が話しかけて来たが無視した。ライオンズ=ストリートの四〇〇〇番台になると、低所得者だが、崩れた家の極貧の黒人の街ではなく、スペイン語を話すメキシコ系米人が住んでいて、相当古くなったかつては白人が住んでいたであろう木造の家が並んだ所になる。
 ライオンズ=ストリートのような極貧の黒人の地域では、質の悪い人間が刃物で脅し、金を要求したり、強盗をしたり、時には、初めから殺しに来る場合もある。そのような時、丸腰では自分を守り切れないし、殺されるままだ。刃渡りの長いナイフで襲われたらたまったものではない。そこで、刃物で向って来た時に銃を出し、銃口を向けて相手を威嚇したり、場合によっては、そらして威嚇発射すれば、刃物を持った男の突進を止め、退散させることが出来る。ライオンズ=ストリートにはその後五回行ったが、幸いにして一度も銃を抜いて威嚇したり、発射することもなく済んだ。それは、前もって大学内で、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、マイアミなど犯罪が多発する大都市から来た黒人学生達に、それぞれの都市で最も危険な黒人社会の地域の特徴について事情を聞いていたからである。
 貧しい黒人の地域では貧しさから非行に走り、薬物を常用したり、ナイフなど刃物で強盗や殺しをやるのは言うまでもないが、私が黒人学生達に聞いた所によると、彼らは夜に暗躍し、昼間は寝ている事が多いという。従って、彼らが寝ている昼間に行けば、比較的安全だということである。正に、鬼のいない間の洗濯である。黒人社会という藪に悪いヘビがいないか竹棒でつついて慎重に行ったということだった。
 ライオンズ=ストリートは隅々まで見て歩いた。ある日、往きの市内バスがライオンズ=ストリートに差しかかった時、私が座っていた座席の窓ガラスが、酒に酔って通りに寝転んでいた黒人の男の投げたビール瓶によってヒビが入った。すぐに、黒人のバスの運転手が急ブレーキを掛け、バスを止めて降りて行って、その男を軽く蹴ってバスに戻り、再び運転し始めた。帰りのバスで、私はビールの空き瓶を拾っておき、その男がまだ道路に寝そべっていたので、お返しに空き瓶を投げてやった。その男の顔の近くで空き瓶が割れた。これを見て、帰りのバスの太った黒人の運転手は「よくやった!」と言いながら手を叩きゲラゲラ笑った。私は「往きのバスで窓に空き瓶を投げられたので、やり返した」と説明すると、太った運転手は首肯いてくれた。(ライオンズ=ストリートは十五年ぐらい前に、ヒューストン市の都市計画により整備され、現在は存在しない。)
 銃社会の経験に関連する事として、アメリカ大学警察での経験がある。一般的にアメリカの大学は面積が広く、また学問により高度な知識を養う聖なる地で、凶悪な暴力犯罪があってはならない。また勉学に励む学生も教育上、規律上、暴力的犯罪や窃盗などの犯罪を犯さないよう取締らなくてはならない。
 そこでアメリカの大学では、市の警察や州をいくつかに分けた郡の警察である保安官事務所から独立した警察権を、大学の自治の基に持っている。その捜査権、警察権は大学の敷地内とその周辺地域である。周辺地域で犯罪人を見つけても自ら逮捕せず、逃げないようにして、市の警察や保安官事務所に連絡し、そのいずれかに引き渡す。
 テキサス=サザン大学で、私は大学院生として選ばれた大学警察の捜査アシスタントとして少しの手当を貰い、活動した。それに選ばれた理由は、私のルームメイトが同じ大学のロースクール(法学大学院)の学生であって、寮でその学生とアメリカの法律と日本の法律は、どう違うかなどを議論していたので、そのことが伝わり、私は法律にある程度精通している者として推薦されたからだ。大学警察の部屋に於て、テキサス州の刑法などのあらましを必要な範囲で習い、必要な逮捕術として警棒の使い方などを正規の大学警察の制服の警察官に習ったりした。大学は教育という知識を養う神聖な場所であるので、銃は使用しない。一つにはあまり凶悪な犯罪が学生によって犯されないことと、学生から選ばれた捜査アシスタントとして自主的に大学の自治権に基づき、他の学生の犯罪を取締っているので、銃を使用すれば、捜査権を持つ学生が他の学生に銃口を向けることにもなるので、教育の場、大学としては好ましくないからである。
 学内で寮に住む学生が犯した犯罪について捜査したり取締ったりした。例えば鍵の掛っていない隣の学生の部屋から財布を盗んだ窃盗とか、軽い暴力行為とか、飲酒の取締りをもした。また学生が銃を持ち込んでいないか部屋にある持物検査をもした。時にはガールフレンドを奪い合った暴力事件も取り扱った。一番重要な捜査はマリファナなど薬物使用の捜査であった。前もって、大学警察の部屋で薬物の標本を見せられ、試しにそれら標本の薬物を燃やして煙の臭いを嗅ぐのである。ラテンアメリカのマリファナでもコロンビア産、メキシコ産などもあり、また東南アジアの国々の産など色々あり、それぞれ煙の臭いが違う。これらの臭いを覚えた。  マリファナなど薬物を取締るには部屋で学生が吸っていると部屋から薬物の臭いがする。それを探るため、廊下を靴を脱いで足音を立てずに、学生がマリファナを吸っている部屋に近づき、学生が吸っているのを確認すると、大学警察の本部に無線連絡し、外側で学生が窓の下の庇に隠れないか制服の警察官がパトカーで来て張り込み、捜査アシスタントと制服の警察官とでドアを開けさせ踏み込んで逮捕する。やってみて大変スリルがあった。
 学生から選ばれた捜査アシスタントは各寮から二人ずつ選ばれる。そして学内で黒人学生が犯した犯罪を大学警察からテキサス州ヒューストン市内の州郡裁判所内にある州検事局の(DISTRICT ATTORNEY,S OFFICE)検事に事件として送るための用紙に書き込み、他の捜査アシスタントと交代で、黒人学生が学内で犯した微罪を検察官に報告に行った。検察官はすべての犯罪を把握していなければならないという原則からである。
 検事局では白人の女の検察官と、黒人の男の検察官が大学の事件担当検事であった。大学で黒人学生が犯した軽微な犯罪は通常、白人の女性の州検事(検事補)に報告をする。女性の州検事が大学での学生の事件の報告を受けるのは、女子学生が性的犯罪に会ったりした場合に女性検事の方が対応を配慮できるからだ。男の検事の方は、めったに起こらないが学生が学内で殺人を犯したり、大学の建物に放火をしたとか悪質な犯罪や一般の人が独立した捜査権のある大学内で犯した事件を担当する。例えば銃を持ち込んだなど大学の学生が犯した軽微な事件の報告を受けた白人の女性検事補は、男の黒人の検事にもそれを説明し協議をする。
 通常、学生が犯した犯罪は検察官は初めから罰しない。それは学生の犯した犯罪は軽微であり、罰金刑ぐらいであり、また教育の場があっての司法手続きであって、大学は学生が犯した犯罪について、大学の方で停学や退学処分など懲戒的罰を与えているので、罰金刑など軽微な事件で起訴し二重に罰する必要はないからである。大学当局が停学や退学の処分では足りず、さらに罰する必要があると判断し、学長や学生部長の名で検察官に文書で請求した時に、罰金刑などを課す。
 例えばある学生が、盗みなどを前の大学で犯し、退学処分を受け、現在の大学でも再び犯罪を犯した場合などがそれに該当する。しかし、殺人を犯したとか、大学の建物に放火したなど、重大な悪質な犯罪については、有無を言わせず検察官は検察起訴陪審である大陪審に起訴の評決を求める手続きを取る。悪質な犯罪なので、大学教育の場の処分に委ねられないからだ。また大学内の職員が公金横領などを犯した汚職事件などは大学警察は捜査せず検事局が直接捜査する。  私は四回ぐらい検察官に学生の犯した犯罪について報告に行った。大学内に住む学生の寮毎に学生の犯罪について書いた検察官あての用紙に記入したものを集め、代表して交代で検察官に報告に行ったのだ。大学警察のパトカーに、大学警察が市の警察に連絡がある時などに乗せてもらって郡裁判所の検事局に行ったこともあれば、自分で市内バスに乗って書類を検事局に持って行ったこともあった。パトカーが学内パトロールであいてない時などバスを使った。
 ある時、バスで書類を検事局に持って行った時、帰りは白人の女性の州検事補が、ルイジアナ州の検事局に自動車で捜査に行くので乗せてもらい、大学まで送り届けてもらった。大学から少し行った所にルイジアナへ行く高速道路、ガルフ=フリーウエイの入口があったからであった。州検事は、テキサス州で強盗や放火を犯した男が、以前にもルイジアナ州でも同様な犯罪を犯していて、テキサスで起訴し量刑を決めるため、ルイジアナ州でどのように刑を課せられたかの記録を調べる捜査に行ったのだ。警察には出来ない捜査であった。ルイジアナ州はフランス領であったのでフランス法体系(ナポレオン=コード)(制定法)でイギリスの伝統の慣習法(コモン・ロー)のテキサス州と刑事裁判の手続きと量刑の課し方が違うのである。それを参考にするため州検事補はルイジアナ州へ捜査しに行ったのであった。このような経験は、日本の法手続きではありえないことで、日本の刑法学者、検察庁や警察も知り得ない法手続実務なので貴重な経験をした。
 テキサス=サザン大学の大学警察の本部長をやっていた人が、黒人の男の人で背の高さが二メートルぐらいある人で、かつてニューヨーク市立大学の犯罪学の大学院を出て、三十代でニューヨーク市警の殺人課課長をしていた。その後、テキサス=サザン大学の警察本部長として赴任した。日本だったら東大を出て警察庁のキャリア官僚にあたる。違うのは東大出のキャリアは行政官で銃も持たないし、パトカーにも乗らないが、黒人の本部長は、それが出来た。クリスマスと正月の冬休みなどにホーム=ステイして泊まり、ニューヨーク市警の業務などについて教えを請うたのである。
 ある日、破壊力のある四十五口径の銃を持った男が大学の構内に入って来たことがあった。危険な非常事態なので学生達を避難させなければならない。私は捜査アシスタントとして受け持ちの寮の学生の部屋のドアをドンドン叩いたり、内線で銃を持った男が捕まるまで、鍵を掛け、部屋を出るなと指示した。大学の敷地の両側の端にはヒューストン市警と郡保安官事務所のパトカーが、それぞれ待機していた。結局、大学警察のパトカーが逃げる銃を持った男を構内から外へ追って行き、郡保安官事務所のパトカーと近くの教会の玄関の所に追いつめ、保安官事務所のパトカーが逮捕した男を引き取り連行して行った。本当にひやりとした。アメリカで大学や高校で学生や侵入して来た男が銃を乱射して死者が出る悲惨な事件がテレビなどで時々報道されるが。被害のない、銃を持った男が入って来る事はニュースに取り上げられないが、頻繁に起きているのが実情だ。
 銃社会を象徴する事件が平成の初め頃起きた。米ルイジアナ州立大学に留学していた学生服部剛丈が、間違ってよその家に夜間行き、撃たれて死んだ事件である。一九九二年十月十七日に、米ルイジアナ州、バトン=ルージュにあるルイジアナ州立大学に日本から交換留学生として学んでいた服部剛丈が、ハロウィーンパーティーの日の夜にハメをはずし、自分が行こうとしていた友人の家と、まったく他人の家を間違え、入って行こうとしたところ、家の主人が驚き、警戒して家に近づかせまいとして、家の中から長いライフル銃を持ち、威嚇し、剛丈を追い払おうとして、銃を構え、「動くな! 近づくな!」と言い、退去させようとしたところ、剛丈は言葉が分からず、「何ですか」と言い、主人の方に近づいた所、主人は攻撃されると思い、身を守るため、ライフルを一発発射した。剛丈は胸を撃たれ死亡した。法的には正当防衛が成立した。
 この悲劇的な事件は、留学していた服部剛丈がアメリカの社会を知らず、日本にいる感覚で行動したために起ったのだった。アメリカでは通常、夜犯罪が多く、多発しているので夜は出来る限り、外出しないようにしている。特に夜に歩いて外出することは、襲われるので、白人の住む社会でも、黒人の住む社会でも禁物なのだ。もし、外出する時は、行く前に行く家、相手の家に「これから行く」旨の電話連絡をした上で、自動車で行くべきなのだ。そうしないと、相手の人は、いきなり訪問されれば、誰か見ず知らずの人が襲って来たと警戒し恐れるのだ。そのように白人や黒人社会では、夜は人通りがなく、人が外出しないので、目撃者がないため、強盗などの犯罪をする悪い人間が暗躍しやすいのだ。
 そんな環境で服部剛丈が、アメリカの社会の夜の習慣を理解せず、日本にいるつもりで夜にはしゃぎ回って、ハロウィンパーティーに行き、友人の家と間違え、知らない他人の家にいきなり行けば、その家の主人は、何者か不審者が襲って来たと思い、銃を持ち追い払おうとするのは当然である。家の主人が、「動くな!」と言って静止させようとしているのに、そこで直ぐに帰れば、無事で問題なかったのに、言葉が分らないというので「何ですか」と小走りに近よれば、襲って来たと思われ、撃たれるのは当然である。剛丈は、「郷に入れば郷に従え」の諺に反し、「郷に従わなかった」ことにより、撃たれたのだ。
 白人や黒人の地域では夜は外出しないが、メキシコ系米人の社会は夜外出する社会であり、前者とは異なるのである。従って、服部剛丈がメキシコ系米人の社会で夜、他人の家と友人の家と間違って行っても撃たれなかった可能性が大きい。ヒューストン市の中心街ダウンタウンの北側は、メキシコ系米人や不法滞在のメキシコの人々が住む地域で何度も足を運んだが、夜八時以後、十時近くなっても、人々が歩いて、レストラン、バーや酒場、スーパーマーケットへ買いに行ったりしていた。お母さんが女の子二人を連れて、夜九時過ぎに道を歩いて買い物に行っていた。まだ、多くの人々が道を歩いていた。白人や黒人の地域では同じ時間帯は外出せず、人出がないのと大違いだった。一つには所得が低いので自動車を持つ人が少ないこともあるが、民族性、国民性による習慣の違いによるだろう。スペイン系の人と混血している場合もあるが、メキシコ人の祖先はモンゴロイドのアジア人で、太古の昔、シベリアとアラスカが地続きであった時にアメリカ大陸に渡って住みつき、メキシコ人、中米人、南米人などの原住民となったので、メキシコ系米人のお母さんが子供を連れて歩いたりする習慣は、日本人と何か似ていると思える。服部剛丈がメキシコ系米人の所で夜、家を間違い、他人の家へ行っても銃を構えられず、行くべき家を教えてくれたであろう。人通りが多いのでメキシコ系米人の地域では夜、犯罪が起こりにくいのだ。目撃者が多いからである。
 服部剛丈の両親は、葬式の席で、息子が銃で撃たれたことについて、「こんなことがあってよいのでしょうか」と出席者に同情を買うように悔しさを憤懣やるかたない風に言って、アメリカ社会を非難していたが、息子の剛丈が、アメリカ銃社会のルール、つまり、夜の外出は控えるというルールを知らず、他人の家に間違えて行くなどという、やってはいけない事をした否については棚にあげて言っているのは、自己中心的な主張である。剛丈の両親の心情は、息子が米国への交換留学生に選ばれ自慢であったのだが、一転して銃で撃たれて息子が死に、悲劇になったので、その心理的落差からみじめになって、アメリカ社会のせいにして、怒りをぶつけたのだ。
 私は一度だけ、大学寮を出てアパートに住んだことがある。この時は、黒人の極貧の地域ライオンズ=ストリートへ行った時、二十二口径の銃を貸してくれた黒人の主人に保証人になってもらい、身を守るため、銃を持った。二重になっているベッドのマットレスの間に隠し持っていた。室内にいる時や寝ている時に、何者かが襲って来た時にすぐ銃を抜いて対応できるようにしていた。また、もしアパートに銃を持った人間が侵入して来た時は、一人で対応せず、前もって隣の部屋に住む人々と話し合っておき、何人もで応戦しようと申し合わせておいた。銃を持った男一人に対し何人もで応戦すれば、相手は逆に自分がやられると思い、退散するからである。
 銃を持つと大変な依存心が出て麻薬と同じである。銃を持つと持たないでは、安心感が違って来る。アパートの一室で銃を持たずに寝ている時など、いつ何時、誰かが襲ってくるのではないかという気があるので、眠っていても、何か音がすると、目が覚めてしまう。ところが、銃を持つと安心してぐっすり深く眠れるのである。
 考えてみれば、小さい二十二口径の銃であっても持っていれば、自分より体格のはるかに大きい、素手で戦っても敵わないプロレスラーやボクシングの世界ヘビー級チャンピオンにでも撃てば勝てるのだ。威嚇すれば対抗できるのである。このことが、アメリカの社会で、いくら銃を規制しようとしても(ガン=コントロール)できない理由である。人々が銃を持っていれば安心だが、手放した時の不安は大変なものである。
 例えば、アメリカでABCDと四つの家があったとする。その内B家の主人が銃撲滅主義者だったとする。他の三家ACDの主人達が身を守るため銃を所有したいとする。そこで銃規制を唱えるB家の主人が、一人だけ率先して銃を放棄し、丸腰になれるかと言うと現実的にはそれが出来ない。銃を放棄し、一人B家だけもっていないということが知れれば賊に狙われ、銃で襲われるからだ。銃の規制や放棄を唱える人が、引き続き銃を所持しなければならない事情が現実にある。それと、前に述べたように銃を所有することで銃の依存症というか、麻薬性があるので、銃の所持者はなかなか銃を手放せないという事情があるのだ。
 よく、日本人の銃の所持に反対する主婦達が「銃は絶対に許しません!」と強く言っているが、それは銃を完全規制し銃の所持のない日本の社会だから言える理想なのだ。銃に反対の主婦達が銃のあるアメリカ社会に住めば、その主婦達こそ、「銃の所持は許しません!」と言っておきながら、銃に怯え、誰言おう、真先に銃を持とうとするのである。それが現実なのだ。日本は銃を取り上げて安全性を保っているが、アメリカ社会は銃という毒に対して、別の銃という毒で拮抗して安全を保っているのである。(アメリカでは警察の管轄が東京から小田原ぐらいまで広い。ゆえに個人で銃を持って自分の身を守らなければならない。

(流星群第23号掲載)