多くの分野の知識を持つ筆者にとって考古学を学ぶ方法は、他の知識を身につけたやり方と違っていた。他の知識は、大学、大学院、そして多くの講習を受けた後自分でその分野の本を図書館から借りて読み深めたもの、電気回路や溶接など高等技術校に通って身につけたもの、自分で本を読み、独学で身につけたものだが、考古学を身につけた方法は特異なものだった。
初めて考古学に触れたのは、保育園に行っていた頃、父親に静岡市に連れて行ってもらい、古代人の住居が保存してある登呂遺跡を訪ねた時だった。ワラの屋根を持つ古代人の住んでいた竪穴式住居の中へ入ってみた時、古代の人々の家に感心したのだった。
小学校に入ってからは、あまり考古学に興味はなかったが、学習雑誌の特集で、南米インカの人々の骨、頭蓋骨に四角い切った痕があり、それが頭を手術していたのではないかという記事に興味を持ったのが一つ。それと、江戸時代に福岡市の志賀の島の農民が畑仕事をしていた時、小さな金印を発見し、それが当時の中国の王朝、後漢に、倭の王族が朝貢していたことを証する印章であった。「漢倭奴国王」と印にあり、後漢書東夷伝」にも記述がある。
この二つに興味を持った以外、大学生になるまで、中学、高校と殆ど考古学に興味を持たなかったが、弟の使っていた高等学校の国語の教科書に、小学校の学歴しかない行商人、相沢忠洋氏が、行商に行く途中の地層を調べ、それまで日本ではないとされていた旧石器時代が、日本にもあったことを証明した。群馬県岩宿で火山灰の層である関東ローム層の下から石器を発見したことが、相沢氏自身の体験記に載っていた。それを読み、考古学に興味を持った。昭和五十年頃のことである。
同じ頃、かつて私が住んでいた東京都港区の新堀にあるお寺さんが経営している幼稚園の境内から、江戸時代の女性のミイラが発見され、肌が生きていた時のようにみずみずしい状態だったことを知った。たまたま自宅にあった港区の郷土史の本の中に、小学校時代によく遊んだ東京タワーの近くの芝公園は、全体が古墳であることが書かれていた。同公園は、階段を昇るようになっていて、二階の藤棚がある休憩場、そしてさらに三階へ階段が続き、頂上はベンチのある見晴し台と、すぐ隣にゴルフ場のネットがある。頂上には江戸時代の地図の測量家、伊能忠敬の石碑の台がある三十メートルの高さの丘である。この丘の前には柵で囲んだ梅園がいくつかあり池もある。
この芝公園が、郷土史の本によると学術的に調査がまったく行われていない上に、残念なのは、半分以上ゴルフ場を建設した時、古墳の一部が切り崩されてしまったことだ。芝公園の隣は、徳川家ゆかりの増上寺や東照宮の分家があり、かつてはここで二代将軍、秀忠公の皮膚のみずみずしいミイラが発見された所である。
私はそれを知り、すぐに芝公園の現地へ行き、簡易調査を行った。一階の梅園から二階の休憩場へはやや急な斜面になっていて、雑草が生えていた。そこには多くの貝殻の破片と、ごく小さな土器のような欠片が得られ、それを横浜の自宅に持ち帰り、和菓子の箱を区分けした中に入れ、標本にしたものだった。
そのすぐ後、自宅の裏の小学校の社会科教師が、小学三年生の使う郷土の教科書を作るため、向い側の丘の私有地に遺跡があり発掘するというので、一緒に発掘を手伝った。約三十メートルの丘の斜面で、貝殻や土器の欠片を収拾できた。師岡遺跡であった。
このように考古学に興味を持ち、昭和四十九年初版の小学館の「日本の歴史Ⅰ」古代史編で考古学の歴史について調べてみた。すると、日本の考古学は、多くの在野の、それも学歴も高校程度の人々によって調べられ、発展してきたことを知った。
大学の考古学調査が行われず考古学者がいなかったのは、終戦前は、天皇が神格化され、紀元二千六百年前に誕生したという皇国史観が幅をきかせ、思想的にも取り締られ、科学的で客観的な考古学は、生神様である天皇の先祖を否定するものになるので、大学の学部に考古学が置かれることはなかった。そのため、多くの学歴のない庶民の研究家によって、考古学は調査、研究されることとなった。わずかに大学では、東大などの自然人類学などで、骨を中心に古代人の研究がなされているのみであった。
大学の研究者ではなく考古学をやっていた人の例をあげると、東京開成中学の英語教師だった酒詰伸男氏、古墳の調査を行い論文集「史論」を刊行。岩倉鉄道高校出身で、兵庫県明石で、明石原人を発見し、後に早稲田大学の教員になった直良信夫氏。京都大学で空いた教室で自主講座を開いていた森本六爾氏。旧制中学の学歴しかなく、銅鐸や弥生時代の農耕文化について多くの論文を雑誌「考古学研究」や「考古学」に載せ発刊したが、病に倒れ、わずか三十二才で没している。
森本氏に影響を受けた藤森栄一氏は、長野県諏訪で旅館を経営しながら、前記の「考古学」や独自のガリ版刷りの雑誌を作り、論文を発表していた。
その他に橿原考古学研究所の所長となった末永雅雄氏。九州の邪馬台国の発掘をした原田大六氏など、いずれも旧制中学の学歴であった。
中でも、前述の岩宿の発見をした相沢忠洋氏は、日本に旧石器時代の層を発見した考古学者だが、小学校ぐらいの学歴しかなかった。そして、それには伏線があった。この相沢氏の発掘を学術調査を行ったのが、明治大学考古学研究室の芹沢長介氏であったが、明治大学では先輩達が日本には旧石器時代は存在しないという説を教えていたので、旧石器時代の存在を主張する芹沢氏は、明大を追われることとなる。学歴のない相沢氏と共同調査を行ったこともその理由である。
その後、芹沢氏は東北大学に移ることになるが、さらなる伏線がある。二〇〇四年頃、高卒の考古学者の研究者が集まる東北考古学研究所が、珍しい土器を発見して実績を上げていたのだが、ある時、その一人で、これまで「神の手」「ゴッドハンド」と呼ばれた者が、意図的に珍しい土器を地面に事前に穴を掘り埋め、新たな石器を発見したように見せかけたねつ造が新聞記者に見つかり問題になった。同研究所を応援していたのが停年で東北学院大に移っていた芹沢長介氏であった。その後同研究所は、役所からの助成金が打ち切られた。相沢忠洋賞も取り消しとなった。
このように、学歴のない多くの人が、考古学の調査を行って来たことを知り、私も地域で考古学の活動をやってみたくなった。昭和六十年頃のことである。
まず、自宅のある横浜市港北区大倉山あたりの遺跡を回ることにした。自宅近くにある熊野神社の資料室博物館は、毎年八月末のお祭りの時には無料開放している。この神社の山全体が遺跡であって、多くの考古学の貴重な出土品と鎌倉時代以後の古文書が、資料室には展示してある。中でもピンク色のガラス質の石器と薬研は特に珍しい。宮司の娘さんの説明によると、戦前から先代の宮司さんが、地道に発掘をし、出土品を分類し、学芸員が年代を整理したそうだ。国学院大学を出た宮司さんが、皇国史観が唱えられた神社で、考古学的調査を行われていたのには驚かされた。
その他に自転車で菊名小学校にある菊名遺跡、網島遺跡、梶山遺跡、下末吉遺跡、川崎の夢見ケ崎公園の遺跡を回った。遠い所では、勝土遺跡、世田谷区の等々力渓谷の遺跡、大森貝塚、港区の亀塚古墳、横浜市南区の三殿台遺跡などを訪ねた。また、神奈川県の大和市や海老名市で、県庁がやっている発掘現場見学会にも参加した。一度、石原軍団の俳優で考古学研究家の苅谷俊介氏にお会いした。
この間に、古代ではないが、教師をしていた父親の紹介で、東京都品川区の教育委員会に協力する形で、大井町のジェームス坂下の江戸時代の味噌屋の跡の発掘に参加し、味噌樽の破片や茶碗の破片を自分の手で発掘し、手に取って喜んだものだった。
考古学現場に足を運ぶだけでなく、多少書物でも学ぶ機会を持った。港北区の持っているリサイクル文庫で、他の人がいらなくなった本を出し、別の人が出した本を無料で持ち帰ることが出来る書棚がある。ここで、東京都教育委員会の八丈島の遺跡考古学調査報告書、川崎市教育委員会の発掘調査紀要、富士吉田市教育委員会の考古学研究紀要などを無料で入手出来た。川崎区の貝塚町の歴史と名前の由来、忍野八海の古代遺跡などが勉強になった。中でも圧巻だったのは、八丈島は、元来鎌倉以来、犯罪を犯した者が島流しとなって、流刑者として一生を過ごした場所であったが、それより遥か前に、古代の人が船を作り島に渡って来た遺跡がある。そして、八丈島の地層には、大昔の九州桜島や阿蘇山が噴火した時に、黒潮に沿った風に乗って、火山灰が降った地層が見られることだ。そのくらい、二つの火山の噴火は大きかったことがわかる。鹿児島のシラス台地の地層と同じである。
これからの筆者の抱負として、「自転車で回る考古学調査」として住んでいる港北区師岡町の周辺の町、樽町、新吉田町、篠原町には小さな遺跡があったが、家を建てた時に調査もされずに失われてしまった。家が建っている周辺から貝殻や土器片でも見つけ、ここには遺跡があったと推定される記録を残したいと思っている。
かつて樽町の農家の畑に貝殻が多く出ており、何回も教育委員会に貝塚として保存を申し入れたが受け入れられず、しばらくしたら、ダイクマが建ってしまった苦い思い出がある。
自転車で考古学の調査をやるだけでなく、近くの港北区の鶴見川の流域には、相模川大堰にしかないと言われるタコの足と呼ばれる吸盤のようなものを持つ赤い葉の雑草がある。それの植生を川の土手で監視しようと思う。さらに、新吉田町や樽町の丘で、枝葉の断層がないか調べてみたい。東日本大震災では、福島県などで枝葉の断層が動き、地滑り被害をだしたから。防災になるので。
我が考古学修得の体験記
(流星群だより26号に掲載)