従来の経済学理論と異なるアジア、アフリカ、オセアニアの経済学

 現在我々日本やアメリカ、ヨーロッパで使われている経済知識、経済学や経済論は、ヨーロッパの国々、とりわけ、イギリス、フランス、ドイツやアメリカの学者が、それらの国々を中心に世界を見た視点に立ち、打ち立てられたものである。そして、それが主流となって世界中で受け入れられているが、人々は、そのことを意識せず、気付いていない。
 日本も、ヨーロッパやアメリカの経済学の本を読んで、経済学や経済論の本や論文を書いているので、日本の経済学もそれらの国々によって確立されたものであるという事を意識していない人が多い。官庁エコノミスト、経済学者、経済評論家なども当り前と思って、欧米視点の経済論を標準経済学として受け止め、大学の経済論として講義され、また高校や中学の教科書の経済論として記述されている。
 ヨーロッパ諸国、とりわけイギリス、フランス、ドイツの経済学がいかに構築したか、その時の経済や社会情勢背景についてみてみる。
 ヨーロッパの国々は中世以来、農業経済を基盤とする封建領土を持つ封建領主が公となり、その領国がいくつか連合し、王を君臨させ、封建王国が形成されてきた。その後、自由都市に商業や工業が発達し、資本主義の基礎を作った。
 十四世紀からポルトガルが海路でアフリカ中部へ向い、時を同じくして北アフリカ、マグリブのムアッハド王朝が、サハラ砂漠を縦に横切り、今のマリ王国のツンブクトゥまで達し、その後西アフリカのガーナに達した。またポルトガルはナイジェリアに商業貿易及び軍事拠点を築いた。
 十三世紀までは北アフリカの西部、とりわけ、今のモロッコのあたりまでを、イスラムのアラビア語で「マグリブ」即ち「西の端て」と呼ばれ、ムアッハド王朝が領土を治めていたが、今のアフリカ大陸の西端の岬、「セネガルの鼻」と呼ばれている所までがわかっていて、それ以南は、天地が落ち込んでいると信じられていた。
 ゆえに、イスラムのムアッハド王朝は、サハラ砂漠を大きく縦断し、ポルトガルは海路で大きく回り、西アフリカ南端の海岸線を発見し、アフリカを回る「セネガルの鼻」以南の地理を陸路と海路から双方で発見し、アフリカの地理上の発見となった。双方が貿易、交易の拠点を作り、商業交易のための植民地化の先例となる。
 十五世紀終わりから十六世紀に入ると、スペインやポルトガルが地理上の発見で互いに競争になり、アフリカの南海岸やアメリカ大陸を新大陸として、地理上の発見となる。
 スペインは新大陸に於いて、広大な地域を植民地とし、金銀などの金属材料や香料、農産物を本国に輸送し、大規模な資本主義を打ち立てた。
 イギリス、フランスそしてオランダは、スペインやポルトガルに一世紀遅れて、商業、交易目的で、主として北米大陸を植民地にし、毛皮、漁業産物、オットセイの毛皮などを本国に運送し、本国の商業交易の供給地とした。
 一般的には、食料資源、鉱物資源、毛皮、香辛料を求め、海外に拠点を設け、本国から本国人を移住させ、それらの供給物を集める交易に従事させ本国へそれらを安く輸入させることで本国の経済を発展、繁栄させる植民地依存の資本主義経済体制の確立であった。
 二十世紀に入り、イギリス、フランスやドイツ、ベルギーの国々は、アフリカやアジアの国々に、本国の繁栄、つまり経済を中心にした国力の向上、富国政策を取ることになる。
 言うまでもなく、食物資源、鉱物資源などを求め、交易拠点とするのだが、本国から市民を移住させず、本国人は最低限の統治する役人や軍人に限り、軍事力を背景に植民地化し、恒久に領有した。
 無知な原住民から原料を廉価で買い叩き、利益を与えず、それらを本国へ運送し、本国だけが繁栄するという本国を中心とした資本主義体制を作った。これを帝国主義という。海外の植民地と本国を海と航路で結ぶ資本主義体制である。
 一方、アメリカはというと、ヨーロッパの国々とは別の、そして違った資本主義経済体制の形成を見る。一七七五年に独立宣言し、一七七八年のパリ条約によって獲得した大西洋岸からミシシッピー川東岸までの領地の他に、同州の西岸の膨大な太平洋岸に至る外国領の土地を、一八〇三年にナポレオンから広大なフランス領ルイジアナを買収し、一八四八年には米墨戦争の結果として、メキシコ領だった西部のカリフォルニアに達する土地を手に入れることになる。
 これによってアメリカは、大西洋から太平洋岸に達する大陸国家となった。
 この間に人々は西の方の開拓地に移動をして行った。南部では人々は奴隷を使役し、プランテーション農業による綿花や農産物を生産し、中西部では穀物と牧畜による食肉を生産した。西部ではカリフォルニアから東へネバダ、コロラドへと人々が移住し、金や銀など鉱物資源を掘り起こした。
 さて、アメリカの経済がどのように発展したかと言うと、ニューヨークを中心とした東部地区の工業商業地帯は、南部の農業地帯、中西部の小麦を中心とする穀物地帯、さらに西部の鉱山まで鉄道を敷き、産業に必要な資源や原料や農産物、食肉を輸送し、産業の発展でアメリカの資本主義経済を確立していった。ヨーロッパの国々が海外の交易拠点、植民地を海路で結んだのに対し、アメリカは領土とした国内の原料供給地を陸路、長距離貨物鉄道で結び、独自の資本主義経済を打ち立てた。それ以後、百年以上も農村を中心とする農業社会とそれを経済支配する東部商工業社会との対立で、経済は進むことになる。
 アメリカも帝国主義形成期にハワイ、サモア諸島、フィリピン、キューバをも領有したが、ヨーロッパ諸国に比べ、強い統制や経済搾取などによる統制をしなかった。
 このようにヨーロッパやアメリカが植民地や原料供給地を支配して、商工業の発展を通じて本国の経済発展によった資本主義経済が確立する中で、現在までの世界で主流の経済学は、ヨーロッパの国々、とりわけイギリス、フランス、ドイツで原料供給地である植民地を搾取、踏み台にした本国中心に見た視点の経済学として確立したのだ。それが世界で標準の経済学として受け入れられた。アメリカもヨーロッパの経済学の影響を受けて発展した。
 日本は伝統的な江戸時代前の独特の経済学はあるにしろ、現代の日本の経済学は、ヨーロッパ、アメリカの資本主義経済学を手本にしているので、亜流ヨーロッパ型経済学と言えよう。ただ、アメリカは広大な南部や中西部の大規模農業地帯を対象にした農業経済学を発達させた。
 オーストラリアの大学で使用される厚い経済学の本は、「オーストラリアの経済学」と呼ばれ、アメリカなどと同じ英語で書かれているが、内容はヨーロッパで打ち立てられた標準型の経済学と視点がかなり異なる。需要と供給線とか、景気循環線などの基本経済理論は同じであるが、市場論や経済流通論などは、オーストラリアも含むかつてヨーロッパが植民地としたアジア、アフリカ諸国の側から見た経済学及びその理論なのだ。つまりヨーロッパ型の標準型経済学では、オーストラリアも含むアジア、アフリカの経済事情に合わず、役に立たず、彼ら独自の経済学理論を構築したのだ。
 南アフリカの経済学も視点をアジア、アフリカの側に置いたものである。また、同国の国際法や国際関係論もアジア、アフリカ、オセアニアに視点を置いたもので、それらを大学等で講義している。
 ベトナム人の学者の書いたエスペラント語版の経済を中心とした国際関係論を読んでみると、東南アジアの経済圏を中心とした貿易論を展開していて、なるほどヨーロッパやアメリカの経済学や経済国際関係論と違った、大変卓れた理論だなと感じる。ベトナムにも独自の優秀な学者はいるものだと思わせる。
 また、タイの経済学の本をタイ語で読むと、やはり、東南アジアに視点を置いた卓れた経済論を唱えている。
 東南アジアの国々は、一般的に言って、都会と地方の経済格差が大きい。特に、農村は自給自足の状態に近い。この都市と地方、特に農村との格差は、東南アジアの国々によって事情が異なる。また、これらの都会との格差を生む道路などの整備の状況も国によって異なり、商品の流通の仕方も東南アジアの国々によって異なる。
 これらの例からわかる通り、アジア、アフリカ、オセアニアの国々の経済学、経済論は、彼らの地域経済圏に当てはめた独自の理論に基づくもので、かって、それらの国々を植民地にして、工業資源を吸い上げ本国が繁栄した過程で打ち立てられたヨーロッパの経済学とは大きく異なり、世界で一般的に受け入れられている標準型のヨーロッパ中心に見た従来の経済学では、アジア、アフリカ諸国、オセアニアの経済実情には当てはまらない。
 二十一世紀に入って、東南アジアの国々が教育も普及し、工業化が進み、発展途上国から先進国へと変わりつつあり、毎年六%の経済成長を遂げている。そして、インド、ブラジル、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドの国々も、経済発展を遂げ、先進国の仲間入りをしている。
 かつて、スペイン、イギリス、フランスなどに植民され、原料供給で搾取されたアジア、アフリカ、オセアニアの国々は、ヨーロッパへの原料供給源とされ、また、ヨーロッパの作った商品のマーケットとして経済支配され、ヨーロッパが繁栄する一方で、百五十年もの間、経済的貧困の状態に置かれた。
 二十一世紀になった現在、経済発展を遂げ、先進国になりつつあり、ヨーロッパ、アメリカ、日本に追従している。
 ヨーロッパの国々やアメリカ、日本など先進国は、かってのようにアジア、アフリカ等の国々から安く原料を買い叩くことで経済繁栄をすることはできない。工業化したアジア、アフリカの製造した商品、民芸品、特産物を交換する貿易による経済関係を行うしかない。フェアートレードなどのように、アジア、アフリカの諸国が、かってのようにヨーロッパに搾取されず、相当の利益の上がる貿易でなければならない。
 このような国際経済関係の状況では、従来のヨーロッパ中心の観点からの標準化された経済学では、もはや有効ではなく、アジア、アフリカ、オセアニアの新興国のベトナム語、タイ語、インドネシア語などで書かれた、それも、もっと細かく、これらの国々の地域の実情に合わせた現実的な経済学、経済理論が重んじられなければならない。

(流星群だより24号に掲載)