現在の日本人の選挙、例えば国会議員や市長、知事の選挙候補の選び方を見ていると、大変いただけない。日本人の有権者の選挙の際の、立候補者を選ぶ時の候補者に対する予備知識のなさはあきれるほどだ。選ぶ側、つまり投票者が、行政に対する知識もなければ、立候補の人物評価や、もしその立候補者が当選したならば、何を政治でやってもらえるかの可能性について、何の考慮もせず、ただ、思いつきで候補者に投票している。
とりわけ問題なのが芸能人や有名人、スポーツ選手で名の知られている人が立候補したりすると、彼らが行政についての知識もなければ、議員になったら何をするのかという目的や政治に対する良識もないのに、顔を知っているというだけで、単に「この人を議員や市長、知事に当選させたら面白いわね」という安易な興味本位だけで投票して、当選させているのだ。
そして、人気によって当選しても、選挙の運動中に公約したことを殆んど実行できてないことが多い。政治家として大した活躍をしていない。
青島幸男は、テレビタレントとして当時の「いじ悪ばあさん」の主役の人気で、昭和四十三年に国会議員に当選し、その後、数回当選した後、大した活躍もせず、九〇年代終わりに都知事選に当選し、知事になったが、その実績はたいしたことはなかった。当選する前は、「都庁に風穴をあけてみせる」などと、豪語していたが、結局は役所の幹部にあやつられ、指導力を発揮できず、テーマ万博に失敗し、退任した。その時、「やるべき事はやれたと思う」などと強がりを言って、数年後、失意の中で他界した。
たけし軍団のそのまんま東こと、東国原英夫は、たけし軍団のお笑いの人気にかこつけ、「故郷、宮崎をどげんかせんといかん」と県政を憂う、悲愴なキャッチ=フレーズで県民の人気者嗜好の心を得、当選したが、確固たる行政目標を持たず、役所の人間をしっかりとしたビジョンで指導しえず、たいした政策をしなかった。 やった事と言えば、自己の人気にかこつけ、観光客を知事室に招き入れた事と、宮崎産マンゴーや産物を自己のブランドで宣伝し、売り上げを延ばしただけであった。知事になっても相変わらず、タレント意識は抜けず、公務そっちのけでテレビに出演していた。「宮崎をどげんかせんといかん」と言っておきながら、「どげんもせず」、総理大臣をめざし国政に出ると言って任期半ばで知事職を投げ出した。
この三人が、人気を武器に当選したが、当時、人気を武器に当選をねらったタレント候補の立候補に強い反対論があったことも事実である。たとえ、知名度は無くとも、立候補者の実力や見識を有権者は評価判断をし、選ぶべきだという強い声があった。それにも拘わらず世論は、テレビの画面を通して、人々に浸透している人を当選させた。
これは人々の頭に、人気タレントのイメージが押しつけられ、タレントに投票すれば、何かをやってくれるのではないかという、(実際には、それはありえない架空のイメージなのだが)、マインド=コントロールになって投票させられているのだ。
その良い例が、最近、俳優の森田健作を千葉県知事に選んだ選挙がある。千葉県民は、四十年も前の森田健作が出演した青春ドラマで、恋人役の早瀬久美とのシーンが心の奥底に焼きつき、潜在意識となり、マインド=コントロールされた。それが投票時に心の奥から湧き出し、現実は違うのに、青春ドラマと同じようなことを現実としてやってくれると思い投票しているのだ。本気でそう思っているのだ。
このような思いで投票したタレント候補には、石原や青島以後、西川きよし、立川談志、扇千景、三原じゅん子など多くの有名人がいるが、人気のイメージとは掛け離れ、大した事をやっていない。人気倒れである。わずかに、野末陳平が庶民の税金問題に取り組んだだけである。
筆者は、二十年以上前に、テキサス州ヒューストンにある黒人大学の大学院に留学していた時、大学の廻りの黒人社会や、他州の黒人社会を訪ね、四十代以上の黒人の人々、店のおばさんとか多くの年輩の人、労働者、サラリーマンなど庶民に会い、選挙時に各候補について話をし、候補者について質問するなどして政治論議をした。
多くの学歴のある日本人の有権者に比べ、彼らは貧しく、差別され、かつて教育チャンスに恵まれなかったが、多くのアメリカ黒人の選挙に対する政治家の評価、即ち、市長、州知事、市会、州議院、上下両院、そして、間接選挙に於ける大統領候補に対する力量分析は大変卓越していた。選挙時の各政治家を選ぶ時の各候補者の知識と力量、つまり、過去の職歴、実績、見識、そして、もし当選した時は何が実行出来るかについて、他の候補と比較して、正確な分析が出来ていた。
例えば、教育についてはA候補の方が市長になったら良いが、労働問題、特に労使関係や環境問題はB候補の方が良い。そして、さらにC候補の学歴や職歴を強調し、経済政策についてはC候補の方が良く、またC候補の会社履歴から、市長として役人の指導力があるだろうなどなど、実に詳細に分析出来ていた。
私が選挙について話した何人もの黒人は、その当時、少なくとも四十才以上の人は、南部で黒人差別にあった環境で、劣悪な教育環境で教育を受けた人であり、不十分な教育機会にしか恵まれなかった。それなのに、政治に関する知識や見識はあり、的確に選挙分析が出来ている。
それに比べ、日本人の大半は、大卒者にも拘わらず、選挙時に各候補者を慎重に分析し、適切な人を投票せず、タレント候補の有名なタレントとしてのイメージでマインド=コントロールされ、「あのタレントを当選させたら面白いね」と、他の有能な候補者に投票する事も考慮せず、安易な気持で投票している。なぜ、アメリカ黒人と日本人には選挙行動に差があるのだろうか。
その理由は貪欲な知識の吸収力の差にあると思われる。アメリカ黒人は確かに前述のように、過去に差別され、貧しく、教育も十分に受けていない人が多いのだが、教育、学歴の高い人、特に白人と積極的に議論をする機会を見つけ、議論することで、素直に知識が劣っているのを認め、高学歴の人から知識を学ぼうとすることだ。
これに比し、日本人の場合は、たとえ大学を出ていても、大学在学中、学生同志で遊びやクラブ活動に明け暮れ、授業には殆ど出ず、学問、知識を身につけていない。試験の前に友人のノートを借りたりして、単位を取り、お茶を濁しているだけである。殆どが名前だけの大卒者なのだ。
大卒後も、仕事に就いた後、日常に於いて、日本人の場合は人との触れ合いに於いて、見識や教養を身につけることはない。職場で仕事後も上下関係が続き、つきあいと称し、飲食店に於いて会食をさせられる。早く帰って自分で本を読み、教養を身につけることが出来にくい。上役のくだらない話、仕事の話、時にはワイセツな話を、いやでも聞いたりしなければならない。黙って聞き役にならなければならない。西洋のように、教養のある者が、上役や先輩に話せば、その者は、「アイツは堅っ苦しい話をする」だとか、「なまいきだ」などと言って嫌われたり、イジメを受ける。そんな理不尽さがある。
また、中学卒や高卒などの人間は、飲みに行った時、博学の者が高度な話をすれば、それを熱心に聞き、自分の欠点である教養のなさを補うどころか、反発をする。彼らは学歴コンプレックス、大学を出た者に対抗意識があり、難しい話をすると反発し、忌み嫌う。「オレをバカにする」とか言って、大卒者に対して嫌がらせをする。
このような学のない者が学のある者から真摯に知識を吸収しようとする素直な姿勢がないので、学歴が劣っていながら、高学歴の人から会話して知識を吸収するアメリカ黒人より見識が劣っているのである。その結果、日本人の見識のなさが、安易にタレント候補に投票し、無名だが有能な者に投票しない行動パターンになっている。
日常茶飯事に他人と積極的に議論をして教養を高める姿勢は、ヨーロッパ人やアジア人にも見られる。テレビ朝日の定番、「車窓から」を見ると、列車の座席で、色々な国の人々が、友人、家族、他人と議論しているシーンが度々見られる。
また、かつて近世のイギリスでオックス=フォード大学やケンブリッジ大学の回りには、大学街が出来、その中でコーヒーハウス(喫茶店)が出来たが、その喫茶店は教授や学生達と近所のお店をやる人々のたまり場だったのである。(注) 当時は、大学は家柄の良い、優秀な、ほんの一握りの人しか入れない場所だった。そこで、あまり学校に行っていない、お店の経営者達は、こぞって教授や大学生が集まるコーヒーハウスへ足を運び、彼らと会って、積極的に議論し、彼らから知識を得て自分達の教養を高めたのである。
(注)
日本人には普段の生活で、このようなことをしないので、教養が高まらず、おろかな選挙投票をするのであろう。 (注)中央公論社「世界の歴史」8 絶対君主と人民 昭和五十四年 P494‐P496
アメリカ黒人より劣った日本人の選挙行動
(流星群だより22号に掲載)