奇妙な川崎市内電話回線の配線とその歴史的背景

 人は普段、なにげなく電話を掛けている。しかし、意外に知られていないのが、川崎市の電話回線が特異な配線になっていることだ。例えば、東京に住む人が川崎市内に住む知り合いに電話を掛けたとする。すると、その人は先ず川崎市の市外番号、〇四四をダイヤルし、そして残りの三ケタと四ケタの市内番号を回す。相手が受話器を取って話せば、ごく普通の電話に見える。が、電話回線の配線から見ると、川崎市内への別の所に住む人からの通話は異常な回線を経由しているのだが、ほとんどの人がそれに気付いていない。
 東京に住む人が川崎市の人に電話すると、誰でもが、東京から直接、相手につながっていると思っている。それは、JRの東海道線が東京‐川崎‐横浜と走り、それと同様に電話回線も通じていると人は思うからである。しかし、実際には東京から一旦、横浜へ行って斜め北上して、川崎に戻るルートを取っているのだ。
 もっと詳しくは、東京の電話キーステーションから、一旦横浜へ行き、そこから斜め、川崎市中原区の中原電話局の近くにある子母口の中継所を経て、西へは高津区、宮前区、そして、小田急線沿線の登戸や百合ヶ丘のある麻生区へ、さらに、反対方向へは幸区や川崎駅、京急大師駅などのある、川崎区へと通話が分散される。いわば、川崎市内の電話回線は本線から内陸に入った、陸の孤島のようなものなのだ。
 なぜ、そうなったかは戦争を含んだ歴史的背景による。
 戦前は、明治時代に電話回線が敷かれていたのであるが、陸軍が軍事通信権を持っていたため、電信電話回線は陸軍の本部通信施設のあった、今の世田谷区三宿あたりから二子玉川を経て、川崎市の蟹ヶ谷に行き、横浜の瀬谷、そして海老名の通信中継地を経て、御殿場を通り関西方面へと行っていた。
 陸軍が通信回線の主導権を持っていたのは一つには、当時は、今と違って安価な契約料金で誰でもが電話を持てた時代ではなく、一般の人が家庭で電話を持つには、相当高額な電話債券を購入しなければならなかった。そのため、一握りのお金持ちでなければ電話機を使用できなかったのだ。
 それ故、一般の電話加入者が当時は相対的に少数であったため、電話通信の需要は組織的な軍事利用の方が圧倒的に多く、電話通信回線は陸軍が支配していたのだ。これは、丁度、戦前は、五万分の一の地図の測量と製作は地図の軍事利用優先のため、陸軍の測量部が作っていて、戦後、陸軍の解体と共に、地図作製権が国土地理院に移管されたのと事情が似ている。
 戦時中、この陸軍軍用管理の電話回線が破壊される事態が起きる。太平洋戦争末期に米軍が本土を攻撃し、空爆を行った時である。
 現在もイラク戦争やカダフィ大佐のリビアを空から攻撃した時に、橋や通信連絡網をピンポイント爆撃をしたように、陸軍の世田谷からの軍事電話通信回線を分断するため、川崎市の蟹ヶ谷の通信中継地を爆破したのだった。
 川崎市中原区の旧米軍施設である印刷工場が返還された跡地に作られた平和公園の一角にある、川崎市立平和館には戦争の悲惨さを伝えるため防空壕の実物大模型と共に、爆破される前の蟹ヶ谷の通信中継所と爆破された後の中継所の写真が明かりをつけたフィルム状のパネルで壁に展示されている。また、本など資料もある。
 戦後電話回線は日本電々公社によって復旧された。東京の千代田区あたりから、東海道線と同じように東京、横浜と新しい電話回線を敷設した。問題は川崎市内への中継をどうするかであった。
 破壊された蟹ヶ谷の少し距離のある隣町、子母口に新しい電話通信中継地を作り、前述のように横浜から斜め戻るように子母口まで回線を継ぎ、中原局をキーステーションにして川崎市の東方、西方へと配信する形を取ったのだった。
 他の土地から川崎へ電話をすると、相手の人が受話器を取ると、プツッというパルス音が二度鳴り、つながる音が聞えるようだ。横浜につながる音と川崎でつながる音のようだ。
 そして、旧陸軍の軍事電話通信回線の中継地であった瀬谷と海老名の通信中継地はアメリカ軍が占領、駐留した時、接収し、それぞれ座間と厚木基地の通信中継施設として使っている。
 戦後、新しい電話回線が作られたことで、横浜市港北区北部の一部の地域が、横浜市内であるのに川崎市の中原局の配線となっていたという奇妙な現象があった。港北区箕輪町、日吉本町、日吉、下田町などが、横浜市内であるのに、市外局番が横浜の〇四五ではなく、川崎市のそれ、〇四四であった。平成四年まで〇四四であり、その後、中原局から網島局に配線が変わり、〇四五が市外局番となった。
 川崎市の電話回線が横浜からの枝派で継がっているのを知ったのは偶然のことであった。二〇〇三年の二月、川崎中原区にある、旧中原職業訓練校で当時の川崎高等技術校で、一回だけの四日間のデジタル工事担当者の受験講座を受講した時だった。旧電々公社、NTTで電信電話回線の配線工事を長年やっていた講師から説明を受けた時だった。
 当時一九九四年頃から、理工系やイスラム史、心理学、病院管理など色々な講座や講習を受けていた。高等技術校は中原区の川崎、川崎区の京浜、鶴見、二侯川の技術短大へ行き、板金加工、デジタル回路、電気工事士用の電気回路、ガスとアーク溶接など種々の職業的技術を学んでいた。ガスとアーク溶接、研削機械の資格免許も貰えた。受講料はタダだった。
 そして平成十七年頃から、川崎市公害研究所の環境セミナーで毎年学んでいたが、平成二十一年夏、同セミナーで、旧電々公社とNTTで、大学の理工系を出た後、技術者をしていた大学教授と一緒になった。その時、その人に高等技術校で習った川崎市の電話回線の特異さを話してみた所、その人はその事を知らなかった。
 このことは同じ旧電々公社やその後のNTTでも、大学や大学院卒で本社などで研究開発する人と工業高校を出て現場で電話回線を主として配線工事する人では、一線が引かれ別世界で、交流があまりなく、互いの技術知識を知らないことがわかった。

(流星群だより第19号より)