あれは小学校六年生ぐらいの時だったと思う。昭和四十年、その時、川上哲治氏が巨人軍監督をしていて、それまで、初期の頃巨人軍の監督をし、昭和三十六年に阪神タイガースの監督になりダイナマイト打線を率いていた強敵、藤本定義氏と、同年に巨人軍の監督になった川上氏との間で巨人と阪神が交互に優勝していた。その年、昭和四十年は、V9、即ち、巨人軍が九年連続セ・リーグ優勝をした、V1、初めて優勝した年だった。
この年のV1、優勝が出来た一番大きな理由は、当時の国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルト)から金田正一投手が巨人に移籍したのと、城の内、中村稔、宮田征典の三投手三人がシーズン二十勝を上げたことが大きいが、何と言っても特筆されるのは最初のリリーフ専門投手宮田投手の活躍だった。
宮田氏は当時、「八時半の男」と呼ばれ、文字通り当時テレビの野球中継が九時少し前に終る八時半になると、必ず登板したものだった。宮田氏は、昭和三十七年巨人軍に入団したが、肝臓に持病があったため、先発完投型の投手としては目がでなかったが、昭和三十九年頃、投手コーチの勧めもあり、短いイニングならいけるということでリリーフ専門投手となった。昭和四十年に、当時はセーブ=ポイント制は記録になかったが、今で言う二十勝、二十セーブ、合わせて四十セーブ=ポイントを上げ、巨人のV1に大貢献したのだった。
結局、肝臓病のため、その年とその翌年五勝ぐらいを上げ、昭和四十五年に引退したが、今なお伝説の投手である。その理由は同投手が当時、「決め球」として使い多くのバッターを空振りさせ三振を取り、誰も打てなかった伝説の魔球、「落ちるタマ」を投げていたからである。当時宮田投手が投げる「落ちるタマ」の正体が何だろうという疑問が新聞記者、解説者アナウンサー、そしてファンの間に湧き、噂が噂を呼び、「落ちるタマ」がフォークボールなのか、ナックルボールなのか、パームボールか、それとも、別の新たな魔球なのか解らず、それが各バッターの心理的プレッシャーになり、さらに打てなくしていた。
後に、引退し、コーチや解説者になってから宮田氏本人が語っているが、「落ちるタマ」の正体は、スピードがあるタテに垂直に曲がる捻ったカーブだったそうである。そうすると、宮田投手はカーブ、シュート、スライダー、直球と「落ちるタマ」の五種類の投球をしていたので、カーブは二種類投げていたことになる。宮田氏にしか出来ない独特で特殊なカーブだったようである。宮田氏がコーチをして、巨人や南海ホークスにいた山内新一投手がやってみたが、「落ちるタマ」にならなかったそうだ。
当時、テレビの画面で宮田投手の「落ちるタマ」を見ていてすごい魔球だと思っていたが、同時に自分自身で新しい魔球か変化球を生みだすべく開発をしたいという意欲が出た。同じ頃、野球マンガがいくつか雑誌連載されていて、中でも「誓いの魔球」の題のマンガの主人公椿林太郎の投げる「ゼロの魔球」に影響されたからである。何か自分以外、誰も出来ない魔球を投げてみたいと決心した。頭に浮んだのは、単純に宮田投手の「落ちるタマ」の反対で、「浮くタマ」の発明だった。
その年の六月だったと思う。学校から帰るとすぐ、一目散に家の近くのコンクリートの塀のある工場跡の空地へ行き、新しい変化球の開発に励んだ。「浮くタマ」を投げるのに、下手投げで(アンダースロー)でボールに回転を与えた上で、地面スレスレに直球を投げ、バッターの足元から浮き上がることを想定していた。しかし、実際にやってみたら、ボールに回転を与えすぎ、ボールが斜めに直球で上がって行き、塀を越し、塀の向こうの家の二階の窓の所に行き、ガラスを割ってしまった。後日、その家に弁償しに謝りに行くハメになってしまった。最悪である。失敗の原因はマンガに刺激され、空想的現実離れした魔球を作ろうとしたことと、引力に逆らいタマを浮かせることは理論上不可能である事が、小学生の理科の知識では解らなかったからである。これが中学だと引力の方程式を習うので、不可能な「浮くタマ」を開発したりしなかっただろう。それ以来、「浮くタマ」を作ることを封印し試みなかった。
その代り、この当時、投げるのに成功した魔球、変化球がある。超スロー、フォークボールである。逆フォークボールだ。これは文字通り中指と人差し指でボールを挟んで投げるのだが、ボールを投げる時にちょうど鉄棒の逆上がりをやる時の逆手のように、手のひらを顔に向けたまま投げるので逆フォークボールというのだ。普通のフォークボールは、両指で挟んだ手のひらを打者の方に向け、足を上げモーションをつけ、手首手のひらに体重を載せて投げるが、逆フォークボールは逆手で投げるので、手首を痛めるので、ノーワインドアップで、上の方へ向け、挟んだボールを放つ、スローボールである。超スローのフォークボールだ。挟んだ指からボールを放つと、ゆっくりと斜めに直球で、回転しないで高く上がり、やがて上り切ると折れ曲るように、ゆっくりと真っ直ぐに下降する。もちろん、ストライクも入るが実践向きではない。逆手で多投すると手首を痛めて直球もスピードが落ちるからである。手首のやわらかい私は投げられるが、硬い人は投げることが出来ない。投手が登板したとして、完投をするなら一試合一球から三球が限度である。
その他に小学校六年生の時に出来た変化球は、現在メージャーリーグで時たま、限られた投手が投げるサークル=チェンジである。これは親指と人差し指を十字に組み(人差し指を親指に乗せる)、そして残りの指、三本でボールを握り、直球を投げるようにボールを放すと直球で行って、バッターの少し手前にやや斜めに落ちるタマである。
その時から二十数年、かって住んでいた東京都港区から横浜市港北区へと引越していた。ある時、それまではなかったのだが、自宅の裏の小学校に、まん中に的をペンキで書いた厚いコンクリートの小学生などがボールを投げて遊ぶ投球板が建設された。そこで、かつて小六の時にやっていた新しい変化球を再び発明しようと思いついた。日曜日にピッチャーのまねをして健康のため、投球板の的をめざし、直球やフォークボール、ナックルボールなど在り来たりのボールを投げる一方、自分独自の変化球を作りたいと思い、握りを変えたりして色々やってみた。
その結果、二つの変化球を投げることに成功した。一つは回転を与えず、ボールを捻らず、直球で高く上げ鋭角に落下させる力を抜いたカーブである。これを投げたきっかけは、私自身、手首を捻りボールに回転を与えるカーブをやってみたが、投げられないので、苦肉の策として試ったのがこの投球法だった。投げ方は、バッターをイメージし、バッターの頭の上一メートルぐらいの高さに直球を投げるのだ。すると、球は伸びずに、鋭角に上の方から、やや斜めに下降するように折れ曲がるのだ。この鋭角に曲がる角度が、前述の通り、宮田投手がかって投げた「落ちるタマ」と同じだが、宮田投手のそれは、鋭角に曲げるため強い捻りをし、回転を与えた直球で行き、バッターの手前で胸あたりで急に落ちたものだったが、こっちの方はもっと、頭の上の方からやや斜めに落ちるものである。この方法だと、実際にピッチャーとして試合で登板し、バッターに投げた経験はないが、バッターの上の方から折れ曲がるように落ちてくるので、相当打ちにくいと思われる。
そして、もう一つがナックルボールによる「浮くタマ」が出来た事である。ナックルボールをアンダースローですくい上げるようにして投げてみた。手の角度を水平より四十五度の角度にする。すると蝶のようにひらひらと、左右に揺れながら投球板の的に当たった。すぐそばでキャッチボールをしていた小学生がグラグラしていたと言っていた。
その他に、アンダースローのナックルでも地面スレスレに投げる方法も試みた。投げ方はロッテの渡辺俊介投手の投げ方と同じで、手を地面から十センチぐらいの高さで、ボールを水平に投げるのだ。すると、どうだろう。ボールが地面に水平に行き、斜めに浮き上がり、さらに水平に曲がったのだ。感動であった。小学生の時に失敗した「浮くタマ」が偶然出来た瞬間だった。小学生の時に浮くタマを投げて、他人の家のガラスを割ったので、開発するのを封印していたのが、偶然に封印を解いた形になった、感無量だった。同時に思った。なぜ、小学生の時、ナックルで「浮くタマ」が出来なかったのかと。しかし、考えてみると、小学生の腕の力では無理だった。
以上のようにいくつかの変化球、魔球を開発して来たが、軟球でしか試みていない。硬球ではやっていない。今後、それもやり、そして他の変化球も開発してみたい。
それと共に、世の中の野球をする人にお願いしたいのは、私の開発した変化球を参考にし、試合で実践し役立ててほしい。
野球の新しい変化球の開発の実績
(流星群だより第15号掲載)