「新数の論理」

平凡な才能でも数多く積み重ねれば、大家と認められる

 「数の論理」と言うと、大概の人は、かつて闇将軍として政界に君臨した田中角栄が自分の派閥の議員を与党自民党内で最大多数を占め、党内の政策決定や首相の決定を数に物を言わせ意のままにし、牛耳りさらに国会内に於いて、与党過半数を武器に法案すべて自分の思う通り政治を動かした「数の論理」を思い浮かべるであろう。が、ここで言う「数の論理」は、具体的には後に述べるとして、ありふれた平凡な才能の人でも、芸術にしろ、スポーツにしろ自分のやっている事を能力が向上しなくても、平凡な才能のままの実績を数多く積み重ねれば、大家として認められるという論理、法則についてである。
 先ず、私自身の体験から。一九九五年以来私は自己流でキーボードやピアノでやさしく弾ける曲を数多く弾くことを趣味としている。きっかけは、自宅の向いの安アパートに住んでいた人が引っ越しの時、使った古いキーボードを譲ってくれた事だった。「引っ越し先で新しいキーボードを買うので捨てる」というので、もったいないので引き取ることにした。自分自身、小学校でオルガンの入門を習ったことはあるが、それ以来、鍵盤を弾くことはなかった。その時から十年、やさしく弾ける曲を出来るだけ増やし、数多く弾き、楽しんでいる。
 初歩のオルガンを習ったのは東京都港区に住んでいた小学一年生の時であった。きっかけは、母方のおばの家がそろばん塾を開いていたが、休みの水曜日に教室が空いているので、その日にピアノ普及のためライバルのヤマハと競っていたカワイ楽器がそこでオルガン教室を開いた事だった。その教室の生徒が足りないので頼まれ私が参加し、オルガンを習う事になった。最終的には小学四年生まで習い、一応修了証は貰った。
 オルガンは、中学に入って音楽の教師が教材として買わせた歌集が唱歌やドイツ等外国民謡で知らない良い曲がたくさん載っていたので、自宅にあったオルガンで実際に弾いて、どんな曲か確かめ楽しんでいたが、それ以来長年近所にいた人にキーボードを貰うまでは鍵盤を弾くことはなく、大きなブランクがあった。キーボードを手に入れた私は、保育園時代から耳にした曲すべてを弾くことにした。童謡、小中学校で習う唱歌、マンガの主題歌、演歌、歌謡曲、フォーク、ニュー=ミュージック、ポップス、CMソング、クラシックで比較的やさしい曲などすべてを当時から持っていたレコード、ソノシートそして最近のCD、テレビでの歌謡曲を聞き、耳で音をおぼえて、楽譜を見ずに、試行錯誤して弾いていると、何とか弾くことが出来たら、次の曲へとまた、適当に弾いていると何とか出来るようになる。そして、さらに別の曲へと試みる。という風に次々に多くの曲をマスターしていく。そうやって積重ねて弾ける曲が三百を越えた。かつてオルガン教室で習った弾き方はまったく忘れたので、楽譜を見ずに自己流で弾いている。一つには、やさしい曲でも楽譜を見て弾くと間違えるとイライラして、さらに間違えるからである。初歩のオルガンしか習っていない私は、自己流で両手で弾けるが、左手の和音は適当である。従って小学生レベルのピアノすら習ってないので、ちょっと難しいクラシックは弾けない。楽譜を見なければならないからだ。そんな私でも、子供会やクリスマス会などに呼ばれ次々に多くの曲を弾いてあげると、色々な人に「何でも弾ける天才だね」とか、「音楽の大家?」と呼ばれたのだ。まさに平凡な積み重ねによる「数の論理」である。
 おなじ事が登山にも言える。平凡な庶民は、ヒマラヤやスイス=アルプスに登る事は体力的にも能力的にも不可能である。また、山岳部やワンダーフォーゲル部の人々のように天候等厳しい自然を克服して日本全国の主要な山々へ登る事も困難である。それでは登山家でない普通の人はまったく登山家として認められないだろうか。否である。一生の内に出来るだけ多く、軽装で登れる低い山でも、少し高い山でも数をこなして登り、記録を残す事である。埼玉県に住んでいる人ならば、まず有名な山々だと秩父の名山、両神山、武甲山などは素人でも登れる。次に一千メートル以下の伊豆ヶ丘、九山、黒山三滝、正丸峠、五百メートル以下は宝登山や飯能の天覧山、物見山等があり、これ以外の無名な山は数多くある。所は変わるが横浜では九三メートルの天王台や百四五メートルの円海山も山として認められている。これらの山々を一生の内に出来るだけ多く登り、山の姿の写真を取り、スケッチを描き、登山記のエッセー、俳句、短歌、歌詞等を残し、安い印刷屋やワープロで本を自費出版しておけば、地方の登山家として認められるだろう。ヒマラヤなどの登山家は難関の峰を登るため、何年もかかって準備をし、世界の高山のみを登るので、地域の山など相手にしないので、知らない。富士山なんかも登ろうとはしない。登山道があり、素人でも登れる山だからだ。それだけに地域の山々を凡人が数多く登り、所感を残すのは、登山家として価値がある。
 世の中には平凡な能力の人でも数多く実績を積み重ね大家になった人はいる。元広島カープの衣笠祥雄選手は打撃については三割をも打てない平凡な選手だったが、試合を積み重ね連続試合出場で世界記録を作り、川相昌弘選手も巨人や中日に在籍した平凡な守備の選手だったが、バントを積み重ね犠牲打の世界記録を作った。将棋の世界でタイトル一つで八段、名人だと九段になれるが、タイトルを取れる人は何人もいない。が、通算二百勝以上、一勝一勝積み重ねれば、普通の棋士でも八段九段になれる。相撲で高見山や青葉城は並の力士だったが、長年相撲を取り積み重ね、出場記録と通算勝ち星歴代何位だ。牧本という力士は、長年幕下と十両を往復し、一場所だけ幕内をつとめたのみだったが四十歳まで取り、入門から出場数は歴代何位の数である。北陸石川県のあるお寺の何代か前の和尚が、生涯千五百もの俳句を残した。殆んどが駄作であったが、同和尚を記念した俳句の賞がある。植物学の大学者で、高等小しか学歴のなかった牧野富太郎博士は、莫大な草を収集し、分類して植物学の権威になり、東大の講師となった。地味な草集めの積み重ねだった。心臓や脳外科手術の大家は異口同音に平凡な手術の何千もの積み重ねが大家となると言っている。色々な物のコレクターも平凡な物を多く集める事で大家となる。地味な平凡な努力が芸術に於いても趣味に於いても大家となる。全日本女子バレーの監督柳本氏が、「一試合一試合の勝利の積み重ねが世界を制す。全日本女子は横綱にはなれないが、名大関になって世界を取る」と言ったが名言である。四流五流の能力でも、人並みはずれた数を実績として大家になろう。

(流星群だより第14号掲載)