人生にまつわる、述懐

 8月11日(金曜日)。夏の朝が訪れている。いや、真夏の朝が訪れている。しかし、カレンダーの上ではすでに、「立秋」(8月8日)へと、替わっている。忘れていた季節変わりは、寝室の網戸から零(こぼ)れてきた、風の冷たさで感じている。自然界の営みは、常に平静淡々である。決して人間界は、それを真似ることはできない。なぜなら人間界は、常に煩悩まみれである。私にかぎらず人は、淡々と生きることはできない。実際のところ人はだれしも、煩悩にまみれて絶えず「つっかい棒」につかまりながら生きている。この苦しさを口にするか、それともしないか。それは、器量の大小の違いとして表れる。すると私は、きわめて小器で絶えず口にしている。
 わが小器の証しは精神のマイナス思考であり、その表れは愚痴こぼしである。もとより私には、望んでも「淡々と生きる人生」はあり得ない。だからと言って私は、当てにならない神様頼みはしない。身近なところでエール(応援歌)を聞きたくて、私は両耳に集音機を嵌めてパソコンを起ち上げた。ところが今朝もまた、朝鳴きのウグイスの声は途絶えている。いや、このところこの状態が続いている。私には、ウグイスの鳴き声を聞き分ける能力はない。ウグイスとてときには、愚痴をこぼしているはずである。朝のうちはまだ、セミも鳴いていない。短い命のセミは、愚痴をこぼす間もなく、やがては屍(しかばね)となる。愚痴をこぼしながらもそれらより長いわが人生は、とことん幸福のはずである。だけど、そう感じないのはわが驕(おご)りなのか、いや口にすることのできるつらさなのか。
 8月は過去の出来事を顧みて、もとより「命、重たい月」である。淡々と生きたいけれど叶わないのは、「生きとし生けるもの」、すべての宿命であろう。私の場合は、その度が酷(ひど)すぎる。いやひとだれしも、人生は淡々と生きられる代物(しろもの)ではない。
 青空に、淡々と朝日が光はじめている。私は、大空を眺めるのが好きである。