「夏の朝」三れんちゃん

 8月4日(金曜日)。また、朝が来た。そして、出合えた。このことは、このところやけにうれしさつのる気分をなしている。なぜなら、まだ生きている証しである。確かに、この先、朝は必ず訪れる。だけど、私が必ず出合えることはない。それゆえに、きょうもまた出合えたことにはうれしさつのるのだ。とりわけ、夏の朝に出合えることには、心浮かれる気分旺盛となる。この先出合える回数は片手の指ほどに、いや未満ほどに限られているせいであろう。
 澄んだ夏の青い大空に朝日が音なく光り、空中そして地上満遍なく、のどかなパノラマを映している。この情景を見るかぎり、日本、世界、いや地球は、「平和」である。わが文章は、惰性で書いている。だから、きょう休めばあしたは、書けなくなる恐れがある。私にとってこのことは、トコトンつらいことである。それゆえに私は、迷い文、駄文などお構いなく、なお恥を晒してまでも、書かなければならない。わが偽りのない現在の心境である。
 あれ! ウグイスが鳴いている。まだ、鳴いているかな? と思って試しに、私は両耳に集音機を嵌めて、パソコンを起ち上げた。文章を書くには、集音機はなんらのお助けにはならない。ところが、ウグイスの鳴き声に出合えるのは、集音機のおかげである。わが人生は、人間他人様はもとより、自然界の眺望、ウグイスの鳴き声、庭中へ飛んで来るメジロ、シジュウカラ、コジュケイなどにおんぶにだっこである。
 わが人生になんらの役立たずのものは、虫けらなかでもムカデ、スズメバチ、そして青大将をはじめとする蛇類である。これらは、怖くて肝を冷やすだけである。なんら役立たずの文章を書いたけれど、一縷の望みはあしたへ繋げる文章にはなるのかもしれない。実際には、あしたでなければ分からない。ただわかりきっていることは、あしたも必ず、私の好きな「夏の朝」が来ることだけは請け合いである。
 学童の頃の夏休み中にあっての私は、「内田川」に夕方、「はいこみ」(ふるさとの川魚取りの漁法)を仕掛けて、夜明けを待って引き上げに出向いた。ウナギやナマズが掛かっていた。今や、楽しかった「夏の朝」の夢まぼろしである。ウグイスに負けず、セミも鳴いてほしい。相身互い身、命を惜しむ、わが格好の同類である。