再びの「夏の朝」礼賛

 8月3日(木曜日)、このところの定番の表現をなす、心地良い「夏の朝」が訪れている。しかし、いくらか悪乗りをして、こんなことを心中に浮かべて起き出している。浮かべていたことは、身も蓋もないこんなことである。夏の朝はこの先、途切れることなく未来永劫に訪れる。ところが、わが命はそうはいかない。現在、わが命はカウントダウンのさ中にあって、もはや数値の小さい後半戦へ差しかかっている。
 確かに、こんなことを浮かべて起き出すようでは、きょうの始動もまた、思いやられるところである。文章さえ書かなければ、こんな恥を晒すことはない。ところが、マスメディアが伝えるこのところの世相を鑑みれば、ほぼ人みんな、なんらかの悩みを抱えて生きることに苦しんでいる。挙句、みずからの命を絶つだけでなく、他人様の命を殺める事件が多発している。これらのことに比べれば、わが恥晒しは些細なことと言えそうである。結局人間は、大小さまざまに何かの悩みを抱えながら生きている。それゆえにもとより、わが恥かきなど小さな悩みと言っていいはずである。しかしながら、マイナス思考著しい私にはやはり、ずっしりと重たい悩みである。
 いつものことだが起き立ての朦朧頭で書く文章は、書き殴りに加えて、恥かきまみれになる。もちろん、書かなければ済むことだけれど、「ひぐらしの記」の継続を願うことに付き纏う悲しさである。唯一、書き殴りの文章の妙味と言えば自分自身、出まかせに何が飛び出すかわからないことである。
 テレビ視聴にあってこのところのわが定番は、朝の内はNHKのテレビ小説『らんまん』(15分間)である。そして、夕方6時前から試合終了の夜九時過ぎあたりまでは、「阪神タイガース戦のテレビ観戦」である。これら以外は妻の視聴に合わせて、気乗りのしない「料理番組」を横目に留める程度である。確かに書き殴りの文章は、何が飛び出すかわからない。先ほどはあえて妙味と書いたけれど、もちろん妙味のところはまったく無く、文章を止めたい気分だけが横溢している。この気分癒しにすがるのはやはり、夏の朝のもたらす清々しさである。
 ここまで書いて私は、パソコンから目を外し、背筋を立て雨戸を閉めていない前面の窓ガラスを通して、しばし家並みの甍(いらか)の上に広がる大空を眺めている。大空は見渡すかぎりに青空を広げて、ところどころに白くかすかな浮雲を散らしている。これらに満遍なく朝日がキラキラと射して、のどかな夏の朝のたたずまいを醸している。すると、限りある命をいとおしんで私には、もうしばらく生きたい欲望が溢れている。天変地異さえなければ自然界の恵みは、無限かつ膨大である。その確かな証しは、ごく身近にそしてきわめてきっちりと、「夏の朝」に表れている。