寸時の幸福を呼ぶ「冷ややっこ」

 「海の日」を含む三連休明けの夜明けが訪れている。いや、もはや夜明けの頃は過ぎて、まがうことない夏の朝である。見渡す天上の大空は一面、純粋無垢の青色の広がりである。それに朝日が輝いて空中と地上もまた、朝日の恩恵を得て純粋無垢に輝いている。この光景をしばし眺めているわが気分は、すこぶる付きにのどかで穏やかである。夏の朝はやはり、人間が自然界からたまわる無償のプレゼントと言えそうである。
 本当のところこんな夏の朝に出遭わなければ、きょうの私は極めて気分の重たい日である。なぜならきょうの私には、午前10時予約済の歯医者通いが予定されている。このこともあって遅く目覚めた私は、文章は端から休むつもりだった(6:21)。ところが、パソコンを起ち上げてしまった。喜ぶべきか、それとも悲しむべきか。わが性(さが)は、習性になりかかっている。やはり、悲しむべきであろう。なぜなら、ネタのない文章に呻吟を強いられている。しかしながら、パソコンへ向かえば何かを書いて、消化不良のままであっても、閉じなければならない。これこそ、悲しい性のゆえんである。
 歯医者通いを始めて以降の私は、御飯時に難渋を極めている。おのずから、硬い食べ物は遠ざけている。いや、具体的には夏という時節もあってか、必然的に「冷ややっこ」(豆腐)が増えている。ところが、幸いにも子どもの頃から冷ややっこは好物の一つである。好物に助けられることは、身に沁みて幸福である。しかしブランドを変えて、冷ややっこを貪るたびに私には、不満タラタラの思いが駆けめぐる。不満の元は、もちろん郷愁ばかりではない。すなわちそれは、子どもの頃に村中のご夫婦の豆腐屋から買っていた手作り豆腐の美味しさゆえんである。確かにそれは、ブランドを変えて売り場にあふれている現代製法の豆腐の味をはるかに凌いでいる。夏の夕方、母に頼まれて買っていた四角四面の分厚い豆腐の味は、現代のあらゆるブランド名を超越し、飛びっきりの美味しさだった。布目の跡がくっきりとして、文字どおり冷ややっこの食感あふれるものだった。今でもありありと浮かぶのは、「栗原豆腐店」の豆腐の美味しさである。きょうはこのことを書き殴りに書いて、歯医者通いの準備にとりかかる。
 朝日は夏の風を呼び込んで、いっそうさわやかに輝いている(6:43)。