主治医にとってほかの医院や病院の医師との立ち合い診察は、みずからの技量の未熟さを認めるようであり、耐えられない屈辱でもあるという。そのため主治医がそれを拒むため患者は、可惜(あたら)命を亡くす人が多々いるという。ところが幸いにも内田医師には、そんな自己保身の考えはまったく無く、ひたすら母の病気の快復にみずからの命をかけてくださったのである。内田医師はみずからの意思で、町中の某医院のK医師に立ち合い診察を依頼された。そして、K医師と内田医師の立ち合い診断の結果、とうとう看護団に「敗血症」という病名が伝えられたのである。当時はもとより、現下の医療にあっても敗血症は、きわめて厄介な病気の一つと言われている。
手許の電子辞書を開いた。
「敗血症:血液およびリンパ管中に病原細菌が侵入して、頻呼吸、頻脈、体温上昇また低下、白血球増多または減少などの症状を示す症候群。重症の場合は循環障害・敗血症性ショックを起こす」
病名が分かっても安堵することなく、いやむしろ内田医師の苦悩の様子はいっそういや増した。病名を告げられた看護団もまた、敗血症? まったく聞き覚えのない病名に不安を募らせた。看護団のなかで内田医師にたいして、「どんなもんでしょうか? 治りますでしょうか…」と聞く、勇気ある者はだれひとりいなかった。
内田医師はこんな不安な空気をみずから絶つかのように覚悟を決めて、まるで自分自身に言い含めるかのように表情を崩さず硬い面持ちで、看護団にたいしてこう言われた。
「この病気は何かの拍子に、血液に細菌が入り、その毒素が中毒症状を引き起こし、いろんなところに炎症をもたらし、高熱が出るのです。幻覚は高熱のせいです。難しい病気だが、諦めちゃいけません」
こののちは内田医師主導の下、看護団に臨戦態勢が指示された。指示に基づいて看護団は、看護体制の強化を図った。内田医師の下、看護婦役を務めたのは、異母長兄の二女だった。二女は内田中学校を卒業するとはるかに遠い、兵庫県西宮市のS外科医院に就き、看護婦になり立てだった。ところが二女は、たまたま休暇をもらい帰省していた。看護団の祈るような期待を担って若い二女は、手慣れた看護役になりきって内田医師を助け、自分は孫にもなり伯母にもあたる母を懸命に看護した。
高熱対策には切れ目のない氷が必要だった。村内にはアイスキャンデー屋はあっても、製氷を商いとするところはなかった。このため、必要な氷の対応には四兄が庭先にバイクを留めて、看護団から頼まれればすぐに町中の製氷屋へ走る態勢を構えていた。もっとも肝心で急を要したのは、輸血の補給体制だった。幸い母の血液型は、人には二番目に多いと言われるO型だった。看護団は、親類縁者を頼りに血眼でO型の人を探した。看護団の中にもO型の者がいて一時しのぎには救われた。記憶は薄いけれど、たぶん四兄はO型だったような気がする。ところが、輸血に最大の貢献をしてくださったのは、それまでまったく見ず知らずの他人様だった。
自衛隊に入隊していた三兄は、「母、危篤」の知らせを受けたときには、北海道空知郡滝川駐屯地にいた。当時の三兄は飛行機ではなく、汽車を乗り継いで帰って来たと言う。普段の便りで三兄は、「長距離競走では、いつも上位に入っています」と書いて、訓練の頑張りぶりを父と母そして家族に、誇らしげに伝えていた。家族には三兄がはるかに遠い異郷で頑張っている様子を知る、何よりのうれしい便りだった。三兄は「汽車があまりにものろいので、床を走り続けてきた」と言って、憤懣やるかたない面持ちで家族に伝えた。
三兄の熊本・健軍駐屯地時代の同僚に吉野さんという人がいた。元同僚と三兄は、駐屯地は変わっていても、友情はまったく変わらなかった。母と看護団は、未知の吉野さんに助けられた。三兄から連絡を受けた吉野さんは隊務の合間を縫って、熊本市内から駆けつけてくださった。吉野さんの血液型はO型だった。時間をおいて内田医師の注射針で抜き取られて注入される、自衛隊で鍛えた吉野さんの体の新鮮な血液は、そのたびに母を救い生き長らえさせてくれたのである。
文章を書いている私の目から、こんどはたらたらと涙が落ちている。看護団はそろって、吉野さんに拍手したい気持ちをじっとこらえていた。吉野さんは隊務をやりくりしたり、所定の休暇を変更したりして幾日か病床の母の脇で、輸血の補給要員を務めてくださった。母の命の恩人・吉野さんのお名前は、わが生涯において消えることはない。吉野さんは今いづこ、どこにおられるのだろうか。つつがなく、ご存命だろうか。90歳近くになられるが、ご存命であってほしい。三兄は、もうこの世にいない。
母を襲った難病「敗血症」との闘いは、内田医師、吉野様、看護団の一糸乱れぬ熱意と連携の下、今にも絶え消えそうな母の命を奇跡的に蘇らせた。母の命は、まさしく見事に「蘇生」したのである。母の命を救ってくださった内田医師は、後日、いつもの端然とした温和なお顔の満面に笑みをたたえて、「快気祝いは派手にやるんでしょうね」と父に言って、相好を崩された。同時に、母の病気ではじめて、本格的な治療にたずさわられたと思われる、二代目内田医師の評判は内田村に沸騰した。私の心残りは、内田医師と吉野様にたいして、御礼の言葉を言わずじまいになったことである。現在、内田医院は村中にはなく、その後の内田医師は、熊本市内で「内田医院」を開業されている。
母の病気の快癒は、人間神様・内田医師が成し遂げられた大偉業だった。これまた、自分史に書かずにはおれない、途轍もなく切なくも、それを超える大きな果報だったのである。母は元の元気な体に復し、また働き尽くめだったが、子孫に慕われた豊かな人生をまっとうした。