欲得まみれの「この先のわが生活信条」

 4月18日(火曜日)、4:24。実際にははるか前に目覚めて、起きている。やはり願う、熟睡と安眠は叶えられず、挙句この先、寝不足状態が続きそうである。人生の晩年と精神の動揺にあっては、仕方ないと思うところである。次兄の終焉の病床で看取りを続けて、通夜・葬儀に明け暮れていたため、この間は長く文章を休んだ。これに加えて機を同一にして、パソコンのメール機能の不全を被っていた。パソコンのメール機能は、パソコン上のやり取りで、昨日回復した。これには後払いで、臨時の8800円の金がかかった。それでも、金に換えられないほどに、心は安堵した。
 パソコン機能が復活すると、たちまち思いがけないわが無礼と失態が現れた。文章が沙汰止みになっていることを案じて、「ひぐらしの記」ではお馴染みの渡部さんは、わが体調伺いのメールをくださっていたのである。ところが、余儀ないこととはいえ私は、心温まる渡部さんのメールに対し返信無し、すなわち梨の礫(つぶて)を続けていたのである。メール機能の回復はきのうだけれど、渡部さんの送信メールに気づいたのは「今」である。それゆえに私は、大慌てで返信メールを書いて、次にこの文章を書いている。私は、恥をかくために生きているのかもしれない。
 さて、私にはもはや百年(一世紀)および五十年(半世紀)の大計は望めない。だからせめて、三か年計画くらいを心中に模索している。短いけれど、欲張りいっぱいの期間である。すなわち、この間に希望することは、認知症は免れて、かつ闘病の苦しみのない安らかな永眠である。そして、日々の生活信条の一つには、果て無く、望郷や懐郷に浸ることである。さらに一つは、親きょうだいのレイクエム(鎮魂歌)と思慕すがり、すなわち面影にかぎりなく耽ることである。結局、この二つを軸にして私は、人生の様々な思い出に助けられて、生存の余りを生きる覚悟である。残念ながら「ひぐらしの記」の単行本100冊の目標は、余命では叶わずおのずから未達である。頃は晩春、わが命は晩節である。
 きょうの文章は、欲張りまみれの「晩節の誓い、いや希望」である。夜明けの空は、風の揺らぐ薄曇りである。5:35、夜明けは未熟である。