「われ一人に思う」

 4月17日(月曜日)、夜明け前にある。諸々の心痛でこのところは、普段にも増して睡眠不足に陥っていた。けれど、昨夜はいくぶん眠れた。一晩だけでは、まだわからない。この先、睡眠不足は改善傾向をたどるかもしれない。いやそれともぶり返し、もっと深みにはまるかもしれない。どちらにしてもわが心理状態ゆえに、人様にすがることはできない。挙句、自分自身で心理状態をコントロールしなければならない。いずれにしても、悩ましいことである。
 恥を晒してという表現と、恥じ入ることなくという表現は、相対する表現である。きのうの私は後者の表現で、心中に浮かんだままのことを不特定多数のブログ「ひぐらしの記」に記した。それでも、恥を晒したかな! という思いはある。だけど、記した後の祭りである。いや、恥じ入ることはないと、ひたすら自己慰安に努めている。
 私は、親の優しさと多くのきょうだいの情愛に育まれて、こんにちまで生きてきた。それゆえきのうの私は、心中に今は亡き親・きょうだいを浮かべて記した。それは無粋な、親・きょうだいの数の一覧表を成した。しかしながらそれには、わが思いが凝縮していたのである。かつての私は、親・きょうだいの情愛や絆を断たないために、ひたすら文章を書き続けていた。そして、『ひと想う』という手作りの単行本を五巻ほど編んだ。それらを生存中の姉や兄に贈った。この試みは功を奏して、多額の金とわが苦労は、十分に報われたのである。
 ところがとうとう、生存者は自分一人となってしまった。もはや書いても、読んでくれるきょうだいはいない。わが役割は、終わったのである。つらく、心寂しいわが役割の終焉である。挙句に私は、この先を生きる気力を殺がれている。朝日が射して、のどかな夜明けが訪れている。わが余生が思いやられる夜明けでもある。