心満たさない夜明け

 4月3日(月曜日)、すでに夜が明けている。朝日はまったく見えない。けれど、雨・風・嵐はない。久しぶりに二度寝にありつけて、半面、心が急いている。みずからの縄張りで、ウグイスが鳴いている。起き立てに心急いて書く文章は、とことん手に負えない難物である。いやこのことは、口実まがいのとんでもなく間違った表現である。なぜなら、起き立てでなければ文章書きは、容易いと言うことではない。昼間にあってたっぷりと時間をかけて書く文章であってもやはり、私には変わりようなく手に負えない難物である。起き立ての文章は、心に余裕なく書き殴りに甘んじる。それゆえに起き立ての文章は、書く気分が殺がれている。
 わが長い人生行路を省みては、限りなく悔恨がよみがえる。もちろん「後の祭り」であり、それゆえいまさらの悔恨である。文字どおり、悔しさと恨みつらみはいや増すばかりである。
 文章書きにまつわる悔恨の一つは、子どもの頃よりこんにちにいたるまで、私には教科書と新聞以外に読書歴はない。ところが実際のところこれらは、読書歴の範疇とは言えない。すると私には、読書歴は皆無である。だからこのことは、わが人生行路における悔いごとの一つをなしている。挙句に私は、もし仮に読書歴があれば人様の文章を真似て、わが文章書きは容易くなったのでは? という、「捕らぬ狸の皮算用」を浮かべている。
 このところの私は、長い文章をグダグダと書いて、疲れている。そのうえきょうは、遅い起き出しにあって心が急いている。疲れはいや増しそうである。身も蓋もない文章を書いてしまった。書かなきゃ、よかった。だからこの文章は、これでおしまい。
 朝日が光り始めている。二度寝にありつけるのも、ありつけないのも、どちらもつらいわが晩年の生き様である。心焦っての、せっかくの文章だから、心満たされずとも、投稿ボタンに指先を触れてみる。