雨・風・嵐の仕打ち、桜の花に対するわが情け

 3月26日(日曜日)。窓の外は真っ暗闇にあって、夜明け模様は描写できない(4:46)。窓ガラスに掛かる二重のカーテンを開くことなく、私はパソコンを前にして椅子に座っている。起き立ての洗面にあっては歯を磨き、固定剤をたっぷりまぶして入れ歯を入れた。パソコン画面と目元の間は、30センチ程度である。そのため、メガネは掛けなくても構わない。だから、ときには外し、現在はかけている。難聴用の集音機は外して寝るままに、文章を書くには不要のため嵌めていない。キーボードの音は、響きではなく指先で感じている。音を感ずるのは、猛烈な雨・風・嵐、そして揺れをともなう地震のときである。しかし、それらの音はない。頭上の二輪の蛍光灯の明かりは、音なく光っている。ゆえに現在の私は、内外の音なし状態の中にある。大空は、地上に雨を降らしているであろうか。それさえわからないままに私は、五月雨式(さみだれしき)にキーを叩いている。夜明けの空の天気模様が、気に懸かるところである。
 桜の花と雨・風・嵐は、自然界においては仲間や同僚同然である。それなのに雨・風・嵐は、なぜこうも! 桜の花を妬み、悪態をつくのであろうかと、思う。ようやく開いた桜の花は、このところの雨・風・嵐のせいで、一遍に地上に振り落とされ、濡れてちりぢりになった花びらは見るも哀れである。私は桜の花にたいする雨・風・嵐の仕打ちの酷さに遭遇している。普段の私は、天変地異には怯えているものの自然界崇拝著しいところがある。だけど、桜の花に対する雨・風・嵐の妬みと仕打ちに遭遇すると、まるで人間界の悪徳を見ているようである。夜明けて大空は、またもや大雨を降らしている。柄になく、桜の花の哀しさを愛しむ、夜明けである。