2月21日(火曜日)。寒さは緩んでいる。夜明けは早くなっている。これらのことでは、私には二律背反するところがある。確かに、寒さが緩むことでは、文章を書くには好季節である。ところが一方、夜明けが早くなれば、文章を書く時間に切迫感を被る。挙句、心が急いて、走り書きを強いられる。物事を為すには一挙両得など、そうあり得ない。その証しには、「二兎を追えば一兎も得ず」という、成句もある。ところがきのうの私は、棚ぼたのごとく二つの幸運にありついたのである。幸運をもたらしたのは、思いがけない「ふるさと便」の宅配であった。ふるさと便は、コラボレーション(協和)を為していた。すなわち、寒い身体を温め、同時に鬱な精神を癒した。まさしく協和して、ふるさと便特有の和みを恵んでくれたのである。このたびのふるさと便の荷造り人は、身内や親類縁者ではない。不意打ちを突かれて、驚きを誘うものだった。そのぶん余計、私はありがたみとうれしさに小躍りした。送ってくれたのは熊本県の片田舎を離れて、今や熊本市の中心市街地に住む、小・中・高生時代の親しい学友である。当時の熊本県鹿本郡内田村(現在、山鹿市菊鹿町)は、学友と私にはふるさとに名を変えて、共に懐かしく心の拠りどころを為している。私は、宅配された段ボール箱をを心弾ませて開いた。掛け値なしの、ふるさと便であった。食べつけの味覚はもとより、子どもの頃より慣れ親しんでいた品々が詰まっていた。早速、私はスマホを難聴の耳に当てた。「今、贈り物が届いた。びっくりしたよ。なんで、送ったの?」「もう着いたの? 速かなあ…、きのう送ったばかりだったのに。相良(あいら)へ行ってきたから、そのとき送ったよ」。相良地区には、子授かりの霊験あらたかを謳う「相良観音」がある。「観音様」は近郊近在の人たちのみならず遠方へも名を馳せる、ふるさと唯一の名刹である。それゆえ観音様はわが子どもの頃より、大勢のお参り客を呼ぶ、村一番の観光の名所を為している。学友の生家は相良地区にある。実際には「内田川」を挟んで川向こうにあり、わが生家からは目と鼻の先に真正面で見えている。「父の命日だったから、相良へ行ってきた。そのとき、いつもの階段下の土産屋で送った。懐かしかろと、思って…」「そうな。命日で行ったの? ありがとう。俺の好きなものばかりが、いっぱい入っていた」。お父様の何回忌かの命日は侘しいけれど、ところが身勝手にも私には、生きる喜びを実感する「ふるさと便」だった。走り書きにも利がある。心急いて書いたのに、薄っすらと夜が明けたばかりである。ふるさと便は常に、わが心身を和ませる筆頭にある。