1月27日(金曜日)、起きて、水道の蛇口をひねった。水が出た。きのうは出なかった。きのう出なかったのは二階の蛇口だけで、一階の台所の蛇口は、いつものように水を流した。大本の水道管の破裂は免れて、二階へ延ばしている鉄管が剝き出しにあり、そのせいで鉄管がいっとき凍っていたのであろう。のちにひねると、二階の蛇口からも水が溢れた。それでも、悔やんでも悔やみきれない、確かなあばら家の証しである。それゆえにきのうの文章には、ズバリ「あばら家のつらさ」と記した。正直なところは、つらさに加えて「つらさ、かなしさ」である。水道の蛇口は、寒暖を表すには正鵠無類である。起き立てにあって体感気温は、きのうよりかなり緩んでいる。確かにわが家は、貧相、貧弱、みすぼらしい、お粗末など、いくら同義語を重ねても尽きない「あばら家」である。ようやく免れるのは、掘っ建て小屋くらいである。こんな建屋なのに私は、文章の中では意識して見栄っ張りのごとくに、「茶の間」と記している。もちろん実際には、「茶の間」と呼べる、洒落た部屋(スペース)はない。これまた正直に言えば、「茶の間、もどき」である。なぜならそこは、小さなテーブルを挟んで、相対にソファを置いているにすぎない。傍らには、テレビを置いている。壁付けのエアコンと置き型のガスストーブがある。これらの装置のせいと、老夫婦は日常生活のほとんどをここで過ごすため、おのずから私は「茶の間」と呼んでいるにすぎない。実際には、茶の間の体裁からは程遠いところである。しかしながら、あばら家のわが家にあってはここしか、嘘を承知でそう呼ぶところはほかにない。明らかな自演だけれど、「茶の間」と呼べば、心が和らぎ、気分が寛(くつろ)ぐところはある。それゆえに私は、似非(えせ)の「茶の間」にすがり、わが日常気分を癒している。いや、実際のところはソファに背凭れて、窓ガラスを通してふりそそぐ、暖かい太陽光線に鬱な気分を癒している。確かに、太陽光線のありがたさ横溢である。すると、太陽光線の恵みに応えて、不断の私は、まるで呪文のごとく「太陽礼賛」を唱えている。一方、茶の間には、わが家の日常生活のつらさが凝縮している。いや、つらさはただ一点、ここに尽きる。それは相対で見遣る、互いの老いさらばえてゆく姿である。つまるところわが家の日常生活のつらさは、互いの目から見遣る配偶者の「老いの身」の確認である。姿を変えてゆく妻を見るつらさは、ずばり現在のわが日常生活における、「つらさ、かなしさ」の筆頭である。すなわちこれこそ、「あばら家のつらさ」をはるかに凌ぐ、わが日常生活における現実である。水道水が元に戻り、寒気が緩むと、碌なことは書かない。しかしながら、書かずにはおれない、わが日常生活における、つらさ、かなしさである。