1月19日(木曜日)。気象庁の予報に違わず、頗る低気温の夜明け前に起き出している(3:58)。起き立てのわが身は、ガタガタと震えている。風袋(ふうたい)の就寝時間は大きく間引きされて、正味の就寝時間はいくらもない。悪の根源は、頻尿のせいである。その回数は、6回ほどを数えている。パソコン部屋の熱源は、頭上の二輪の蛍光灯の明かりだけである。しかし、あたりまえだがまったく熱源の用はなさず、静かに本来の明かりだけを灯している。さらにきょうは、これまで隠していた生き恥を晒そう。わがひとり部屋の寝室のエアコンは、壊れたままで修復がきかずにほったらかしのままで、これまたまったくの用無しである。妻は階下に寝んで、長年、別就寝である。この状態は、文章を書く上では都合がいいためでもある。階下にはエアコンやガスストーブの人工の暖炉がある。私はエアコンの買い替えの金をケチっているわけではない。けれど、つまるところ私は、買い替えなしに冬の寒さや夏の暑さを我慢して寝んでいる。確かに、人生行路は艱難辛苦の茨道である。生きているかぎり、まるで陸上競技のハードル種目さながらに、越えても次のハードル(障害物)に遭遇する。人の世のこの艱難辛苦を出し(方便)にしてお釈迦様は、この世(現世)は「厭離穢土」(おんりえど)、あの世(来世)は「極楽浄土」(ごくらきじょうど)と説法される。挙句、「衆生(しゅじょう)を悟りの異界に」に導かれる。ところが、お釈迦様の施しとて無償ではなく、いや箆棒(べらぼう)に供物や賽銭を求められる。この世、あの世、共に俗物(金)の世に変わりない。寒さに震えて、こんなことを書くくらいなら、これで書き止めがわが身のためである。夜明けの明かり(熱源)はまだ先である。わが生き様の不甲斐なさが、全身いや心身に沁みる。明日は「大寒」(20日)」である。