12月30日(金曜日)。今年1年間、溜まりにたまった澱(おり)のごとく、次々に浮かぶ雑念に耐えきれず起き出して来た。横目で見遣る壁時計の針は、夜中の2時半近くを回っている。起き立ての気分は、良いはずはない。きのうの胃カメラ検査の結果は、無傷すなわち無事放免だった。そのおり、主治医先生からカメラが写した四コマの写真を戴いた。写真にはごま塩みたいな傷一つどこにもなく、到底わが家では買えない特上の牛肉みたいな胃肉がピカピカ光っていた。主治医先生は写真を見ながら、「何でもありません」という、言葉の太鼓判を押された。しかしながら、検査前の胃部不快感は、今なお消えていない。カメラの捉えきれない、駄菓子の食べ過ぎのせいであろうか。それでも、胃潰瘍や胃癌は免れた検査結果だった。確かに、駄菓子や富有柿あるいは次郎柿などの生柿の食べ過ぎは自認するところである。これらに加えてこのところの私は、大袈裟に言えば生きることに疲れている。やや小さいことでは、日々の起き立ての文章書きに疲れている。本音のところは「もう書けない、もう書きたくない」という、強迫観念に脅かされている。それなのに凡愚をわきまえず私は、「ひぐらしの記」単行本、「夢の100号」への到達という、大それた夢見を決意した。書く気力を喪失しては、もちろん「空夢」さえ叶わない。まさしく現在の私は、「後悔、先に立たず」の心境に悩まされて、これこそ胃部不快感の元凶なのかもしれない。「芋蔓式」という言葉がある。この言葉を用いれば雑念は、まさに芋蔓式の状態にある。令和4年(2022年)の「掉尾(ちょうび)を飾る」文章は書けずじまいに、いよいよ明日は大晦日である。確かに、こんな文章は書かないほうが、わが身のためではある。それゆえ、文を結んで寝床に返るけれど、雑念は再び藪蚊のごとく沸くであろう。壁時計の針は、いまだ三時前を回っている。「冬至」は過ぎてもなお、私には寝付けない長い夜である。