老境の哀しみ

十一月二十六日(土曜日)、目覚めて寝床の中で、しばし気分直しをして起き出して来た。壁時計の針は五時近くだけれど、前方の雨戸開けっ広げの窓ガラスを通して、未だ暗闇である。夜長は冬至(十二月二十二日)へ向かって、まだまだ長くなるばかりである。このところの私は、さしたるわけもなく、心寂しい状態にある。たぶん、人生の晩年における、どうもがいても避けられない、心模様なのであろう。ところがこれまたこの先、このような心模様は、いっそう増勢すること請け合いである。おのずから、文章を書く気は、さらに殺がれるばかりである。確かに、「もう、書き止めにしなさい!」という、早鐘がけたたましく打ち鳴らされている。「文は孤独」、いや私は、なんだか心寂しい心境にある。すなわち、老境の証し、極みにある。もちろん、こんなことを書くために起き出して来たわけではない。ところが、脳髄指令を素直に受けて、指先がキーを叩いている。挙句、私は、バカなことを書いている。こんなことでは確かに、心中の早鐘に応じて、文章は書き止めにすべきところにある。子どもの頃、近隣の火事を知らせる半鐘の早鐘は、今なお最も怖かった記憶の一つとなっている。幸いなるかな! 地震、雷、泥棒などの記憶はない。まして、父親の怖さの記憶など、微塵もない。やはり、恐ろしさの記憶は、火事を告げる早鐘の連打に尽きる。さて、五度目の新型コロナウイルス対応のワクチン接種後の現在、二夜を過ごして注射針が射された左上腕の痛みは緩んでいる。右の手の平で抑えて、痛みが分かる程度である。「良薬、口に苦し」と言うけれど、この程度の痛みで済むようでは、ワクチン効果が怪しまれるところである。これまた、わがバカな下種の勘繰りである。わけのわからぬ心寂しさがつのり、この先書いても、文章の体(てい)を為さない。それゆえに、これで書き止めである。壁時計の針は、いくらか進んでいる。しかし、夜明けの明かりは、未だ見えない。寂しさつのる老境とは、人間の哀しい宿命なのであろう。「そうそう」と、したり顔で納得はしたくない。