十一月二十五日(金曜日)、夜明けまでは、未(いま)だのところで起き出している。この文章を閉じる頃には、天気模様の判定がつきそうである。今、気懸かりなのは、きのうできずじまいになっている道路の掃除である。おとといの雨は夜が明けると、山からの落ち葉を幾重にもして、道路の隅々にべたついていた。昼までには、掃除などできる状態ではなかった。私には、きのうの午後には予約済みの行動予定があった。それゆえに道路の掃除は、きょうへ持ち越しとなっている。さて、きのうの行動予定とは、新型コロナウイルスにたいする五度目のワクチン接種である。私は入念な準備をして、決められた時間に、決められていた接種会場の「武道館」へ出向いた。不断、馴染みのない武道館は、ワクチン接種会場となり、私には二度目の出向きである。コロナの接種会場になっていなければ、館内に入ることなど、まったくないところである。五度目にあって接種会場は、今回で三か所に及んでいる。行政・鎌倉市とて大掛かりの接種会場探しに、苦心惨憺している証しと言えそうである。同時に私には、市の財政の逼迫度を見て取れるところもあった。四度目までは、無料の往復タクシー券が接種案内状に同封されていた。ところが今回は、そんな小粋な配慮は無しであった。もちろん私は、ダボハゼのごとくに大口開けて、無料タクシー券を欲しがっていたわけではない。身銭を切ってでも、わが命は自分自身、守らなければならない。鎌倉市そしてわが身共に、無料タクシー券のほどこしにすがることは野暮である。なぜなら、市の財政の破綻は、どこかでわが身にふりかかる。だから、無料タクシー券の廃止は、この先なお止むことの見えない接種回数をかんがみれば、私とて十分理解するところである。接種会場にはいつもどおりに、多くの高齢者がワンさと詰めかけていた。それらの人込みをテキパキと整頓し、的確に導くのは若年および中年男女の入り交じりである。私は接種会場へ出向くたびに、これらの光景にさわやかと胸の透く思いをいだいている。ひとことで言えば、これらの人たちの直(ひた)向きな行動である。決して大袈裟ではない。それらの光景を見るたびに私は、「生きていて、よかった!」という、幸せな心地になる。同時に、日本人の良さを垣間見る、うれしさがつのってくる。確かに、コロナ騒動がなければ、こんな素敵な光景には出遭えなかったことになる。だからと言ってもちろん、「コロナ、様様」ではない。けれど、一服の清涼剤にありついたような愉快な光景である。私は左上腕に、優しくワクチン注射を打ってもらった。一夜寝て、現在の上腕の痛みは、蚊の鳴く程度である。係の人たちの優しさと連携プレイの素晴らしさにありつきたくて、六度目あるいはそれ以上を望むのは、わが生来のへそ曲がりの発露であろう。晩年の私は、人の優しさに飢えているのかもしれない。ワクチン接種会場は、人間が紡(つむ)ぎ出す「美的光景」である。壁時計の針は六時近くにあるのに外界は、薄闇模様のほのかな明かりである。ここで文章を閉じても、道路の掃除へ出向くことはできない。心焦って、出向けば気違い沙汰になる。