人生において、「生き恥を曝(さら)す」人はたくさんいる。それぞれの人生における、逃れられない宿命とも、言えそうである。同義語としては、「晩節を汚(けが)す」という、言葉が浮かんでいる。必ずしも、同義語ではないのかもしれないが、そうであればわが知識の貧弱さである。
国内外を問わず首班選挙に立候補する人は、必ずしもすべての選挙民に崇(あが)められることはない。いや、おうおうにして恥を晒(さら)したり、非難を蒙(こうむ)らなければならない。しかし、相手の候補者を打ち負かし勝利すれば、宿願の栄光と憧憬の座にありつける。すなわちそれは、だれもが体験できない快感と名声にあふれている。そうであれば就寝中の夢見にあって、だれしも一度くらい見てみたい栄光の座である。
まるでアメリカが日本の国に憑依(ひょうい)でもしたかのような、騒々しアメリカ大統領の中間選挙戦は、ようやく決着の時を迎えている。騒々しさに辟易していた私にすれば、この日の到来は願ったり叶ったりである。すなわち、長い選挙戦の結末日が訪れている。
【トランプ政治の継続か終焉か 米大統領選、投票始まる】(朝日新聞デジタル)。「共和党のドナルド・トランプ米大統領(74)と民主党のジョー・バイデン前副大統領(77)が争う米大統領選は3日、投票が始まった。即日開票されるが、郵便投票の急増から一部の州では開票作業が遅れる見通しで、両者が競り合う展開となれば、勝者判明まで時間がかかる可能性もある。」
この選挙戦で私は、二つのことを学んだ。一つは日本の国に居ながらにして、アメリカの地理や国民感情をちょっぴり学んだことである。そしてこれは、教科書による空虚な学びをはるかに超えて、臨場感あふれる生々しい学びだったのである。
そして一つは、人間の勝利にたいする執念と言おうか、いや、単刀直入言えば相手を蹴落とすための手練手管と罵詈雑言の浅ましさであった。それは、強欲(ごうよく)むき出しの人間の浅ましさでもあった。言うなれば、人間の言葉のしでかす惨劇を観た思いだった。劇仕立ては、嘘八百はおろか、共に人格喪失の詰(なじ)り合いがあらすじだったのである。「勝てば官軍負ければ賊軍」。栄光の座につきまとう、人格喪失の哀しさである。私は「生き恥は曝す」けれど、幸いにもこうまで醜(みにく)い恥を晒すことはない。言うなれば「庶民ゆえの幸福」である。
秋の夜長は、負け惜しみの瞑想(迷想)に耽(ふけ)るばかりである。おのずから、悪戯(いたずら)書きをともなっている。