十月二十四日(月曜日)、このところの三日、未だ夜明け前にあって、ほぼ同時刻に起き出している。二度寝にも恵まれている。できれば三日程度で終わらず、欲張りはしないけど、一週間くらい続くことを願っている。もちろん、定着は最大願望である。人間の欲望にはキリがなく、望んでも果たされることはない。それゆえさしあたり、一週間程度の継続を願うところである。三日目の言葉「未明」を添えて、きょうの天気は知るよしない。文章を書き終えて、爽快感に浸ることはめったにない。それは、常に文章の出来不出来に悩まされているからである。それでも、書き終えると、安堵感だけは味わえる。それはずばり、きょうも続いたという、安堵感である。表現を替えればそれは、「継続」のもたらす安堵感である。私は身の程知らずの欲張りではないけれど、それでも常に文章の出来を願って書いている。しかしそれは、いつも叶わずじまいである。確かに、文章を書かなければ、生き恥を晒すことは免れる。ところが一方、私は「語彙」の生涯学習を掲げている。語彙は、文章の道具である。だから、文章という実践をすることなく、語彙を心中におぼえるだけではつまらない。それゆえ私は、文章においては六十(歳)の手習いを発意した。そんなおり、「ひぐらしの記」という命題で、大沢さまから語彙の実践(文章)の場を授かったのである。こののちの私は、大沢さまのご好意には背くまいという、一念をいだいてひたすら書き続けてきた。繰り返すと私は、継続だけが大沢さまへのお礼返しと心に決めて、書き続けてきたのである。同時に、「ひぐらしの記」は、私にとって、願ったり、叶ったりの語彙実践の場となったのである。おのずから私は、もっとましなもの書きたいという強い願望、いや、かすかな欲望をいだいていた。しかしながらそれはかなわず、どうにかとぎれとぎれの「継続」で、いくらかの恩返しにありついている。もちろん継続には、限られたご常連の人たちのご好意と支えもまた、大沢さまのご好意に上乗りしている。起き立にあってきょうの私は、これらのことを書かずにおれなかったのである。結局、「ひぐらしの記」は、わが人生行路において、人様から授かっているわが身に余る、「べらぼうな果報」である。文章は能力を超えた「上出来」など欲張らず、しがない脳髄相応の「継続」でいいのかもしれない。夜明けの空は、彩雲をいだいてのどかである。