実のない文章、継続は限界

十月五日(水曜日)、現在の時刻は夜明け前にあって、五時近くである。パソコンを起ち上げても書くことなく、机上に長く頬杖をついている。鼻炎症状は今なお二分ほど残し、鼻先ムズムズの不快感を引きずっている。おのずから朦朧頭にある。こんなことを書くために、パソコンを起ち上げたのではない。頬杖をついていると、来し方(過去)、この先(余生)への行きし方が、堂々巡りしている。過去のことではいろんな後悔ごとに苛まれて、余生のことでは矢鱈と不安感がつのってくる。結局、生きることは、死ぬまでの闘いである。確かに、生まれなければ、この苦しみ免れる。私は、とことんバカなことを書いている。そしてそれを、秘かに私日記で留めることなく、ブログで公開している。まさしく、現在の私は「雉も鳴かずば撃たれまい」という成句に、ピッタシカンカンの心境にある。「継続は力なり」という成句は、広く人口に膾炙(かいしゃ)している言葉である。私は長年、文章を書いてきた。六十(歳)の手習いをかんがみれば、かなりの継続にありついている。ゆえに、ちょっぴり自惚れるところはある。しかしながら、ちっとも力にはなり得ていない。継続が力になり得るのは、際限ない(無期限)継続あってのことゆえである。私の場合は、生来の三日坊主を少しだけ克服しているにすぎない。それも多くは、こんな実のない文章を書いて、続いているだけである。実際には、心侘しい継続である。きょうは起き立てにあって長く頬杖をついて、パソコンを起ち上げても頬杖をついたままに書いている。もとより、夜明けまでの時間潰しにすぎない。二十分ほどの指先運動の合間に、夜明けが訪れている。いまだ夜を引き継いだ、朝日の見えない夜明けである。単なる時間潰しのはずだったけれど、挙句、恥を晒してしまった。パソコンは閉じるけれど、頬杖はなお先へ継続である。