疲れが招いている「迷想文」

九月十四日(水曜日)、夜明けの空は曇り。このところぐだぐだと書いた長い文章のせいで、疲れ果てている。その祟りなのか? 寝床の中で、突拍子もないことを浮かべていた。人間、生存中に格差をこうむることには、仕方がないところはある。なぜなら、すべてではないけれど格差は、競争原理に基づく本人個人の努力の差でもある。しかしながら死は、人間の最期に与えられたまったくの平等である。そして死後のことは、死者本人の意思とはかかわりなく、遺されたものがつくる不平等である。おのずからそれには、見栄や外聞がともなってくる。言うなれば、人間の浅ましさの再現でもある。長い文章を書いたせいによる疲れは、確かにある。それよりなにより疲れのもとを成しているのはやはり、素人ゆえの文章の難しさに基因している。文章を書くことには、薄っぺらいわが脳髄の知恵をフル回転しなければならないからである。こんなことを書いて今朝は、半透明の袋に草取りの草を詰めた、ごみ出し準備に取りかかる。この手のゴミ出しは、一週にあって一度(水曜日)だけである。私が都会の僻地生活を余儀なくしているのは、確かに仕方がない。なぜなら、わが生存中の努力不足のせいで、競争原理に負けているせいだからである。わが心鎮まり、わが心安らぐときは、つまるところ死以外にはなさうである。だから言って私には、「死」を待って泰然とする勇気も心地もない。もとより、生来の小器ゆえであろう。曇り空に朝日が輝き始めている。消しゴムで消して、「曇りのち晴れ」と書き替えたいところである。こんな文章では疲れようはないと言いたいけれど、私は書き疲れている。