九月十三日(水曜日)、夜明け時の天気はいまだ夜明け前の暗がりのため、わからない。日付と天気は、日記帳の必須項目である。このところの私は、いくらか図に乗って、書き殴りにかまけてぐだぐだと、長い文章を書いてしまった。恥晒しに恥はないけれど、ご好意のご常連の人たちにたいしては、いたくかたじけなく思うところがある。それゆえにきょうは、心して短い文章を書くつもりでいる。そうは言っても書き殴りゆえに、それはあてにならない。私は一日にきっちり三度、パンや麺類ではなく、白米の御飯を食べている。いや白米ご飯は、生きてこの方、食べ続けてきた。それでもまったく飽きや嫌気のこない、わが生涯の美味しい常食である。そして、夫唱婦随で結婚以来、妻もまた同然である。常食ではないけれど、ときたま二人が口に運ぶものでは、即席のカップ入り麺類がある。妻は白米ご飯に加えて、あまたある麺類も好物である。この証しに妻は、カップ入り麺にかぎらず、生そば、生うどん、ソーメン、冷や麦などなんでもござれ、煮立てている。私の場合麺類は、好物の埒外にある。ところが、味と手軽さに誘われて唯一食べるものがある。それは「日清のカップヌードル」である。矛盾しているけれどこれだけは、大の文字を添えても構わないほどのわが好物である。たぶん、味というより安価なせいなのかもしれない。そうであれば、わがお里の知れるところである。大好きだけれど財布(お金)のせいで常食になり切れないものでは、妻の場合は寿司がある。確かに寿司は、私も準じて好物である。準じてと書いたからには、それを凌ぐものを書かなければならない。するとそれは、「ごま塩、ふりかけの赤飯」である。ところが赤飯には、私のこだわりがある。すなわち私は、小豆(あずき)入りの柔らかくごちゃごちゃ煮の赤飯だけは、真っ平御免である。わが好むものは、大角豆(ささげ)入りのふわふわ赤飯である。ささげ入りの赤飯にごま塩ふりかけ、シンプルだけれどなんと美味しい食べ物であろうか。わが子どもの頃にあって生前の母は、わが好物を知りすぎていたのであろうか、ときたまというよりしょっちゅう、ささげ入りご飯を蒸かしていた。わが買う市販の赤飯は、食べるたびに母の面影が浮かぶ、「おふくろの味」の代行役になっている。妻が好む寿司には値段を基にランク付け、すなわち格別旨い「特上寿司」がある。しかし、ささげ入りの赤飯は、ランク付けなど用無しの常に旨い「特上」である。きょうもまただらだらと長く、書きすぎたようである。平に、詫びるところである。日記帳であれば夜が明けて、天気の欄には「曇り」と記すこととなる。