私にとってパソコンは、文明の利器と言えるのか? おそらく、最重要な利器と言えるであろう。一方でパソコンは、そうとも言えないところもある。私はパソコンがなければ、文章が書けない。一方、パソコンが無ければ、文章を書くことから免れる。私にとってパソコンは、確かな文明の利器である。一方、精神を虐め尽くす悪魔でもある。
実際のところ私は、日々心中で「もう書けない、書きたくない」と、呟きながらパソコンを起ち上げている。登山家は「山があるから登るんだ!」と、言う。これに準(なぞら)えれば私は、パソコンがあるから起き立てに開いている。確かに私は、パソコンが無ければ文章が書けない。一方、パソコントラブルに見舞われたときの私は、たちまち精神破綻を招いて半狂人さながらになる。これらのことをかんがみればパソコンは、私にとってはどっちつかずの文明の利器と言えるかもしれない。
パソコンにかぎらず世の中には、文明の利器ともてはやされるものにあっても、必ずしも便益ばかりをもたらすことはない。ふと浮べても、芋づる式に連なって浮かんでくる。自動車が無ければ、自動車事故は免れる。嗜好するアルコール類が無ければ、アルコール中毒は免れる。日常生活にあってこんな得失現象は数多あり、もちろん一々挙げれば切りがない。すなわち、文明の利器と思えるものであっても得ばかりとは言えず、多くは得失相まみれにある。その挙句、人は得失をコントロールしながら日常生活を営んでいる。その決め手は、コントロールの巧拙と言えそうである。上手くコントロールできる人にとっては文明の利器となり、一方コントロールできない人にとっては、人間喪失さえ免れない悪魔ともなる。
パソコンの利便性に救われて私は、ブログ上に文章を書き続けている。そのことで私は、多くの人様との出会いにさずかっている。私にとってのパソコンは、やはり文明の利器と言えそうである。パソコンには、長い夜の時間潰しの恩恵にもさずかっている。文章を書く苦難を強いられているのは、パソコンのせいではなく、わが無能力すなわち「身から出た錆」のせいである。