きのう(十二月一日・火曜日)から、今年(令和二年・二〇二〇年)の最終月に入っている。残りひと月とはいえ世の中が新型コロナウイルス禍にあっては、オチオチしておれない年の瀬となりそうである。まさしく、恐々(きょうきょう)とする年の瀬である。
降って湧いた新型コロナウイルスの恐怖なくとも人生は、だれしも艱難辛苦(かんなんしんく)の茨道である。そうであっても人は、みずから生存を放擲(ほうてき)することはできない。それゆえに人は、日々歯を食いしばり、茨道を踏んでいる。
こんな日常にあって、ありがたいことの一つには自然界からたまわる恩恵がある。今年にかぎればずばり、この時期の昼夜の気温の高さである。すなわち、このところは寒気の遠のいた暖かい日に恵まれている。もちろん、いつなんどき天変地異の鳴動に見舞われるかもしれないと、このことでは気分の休まるところがない。しかしながらこのところの暖かさは、わが日常生活に確かな恵みをもたらしている。
高い気温が続いているせいか木々の枝葉は、例年より早く枯れ落ちている。そのため、今では道路に散り敷く落ち葉の量を減らしている。さらに加えて、道路を掃除するにも、北風、木枯らしに身を縮める日は滅多にない。これらのことは、このところの自然界からわが身にさずかる恩恵である。いやこの恩恵は、私にかぎらず人様共通のようにも思えている。その証しは道路を掃きながら、散歩めぐりの人たちとの出会いの多さである。確かな実感をともなって出会いは、いつもより増えている。この現象には、是非それぞれに一つずつの誘因がありそうである。是は、高気温がもたらす恵みである。多くの人たちは、高気温にさずかり散歩めぐりを発意されているのであろう。一方で非は、新型コロナウイルスのせいで、やむにやまれず散歩めぐりをされているのであろう。すると私は、箒の手を休めてしばし道路にたたずみ、初対面の人たちと会釈を交わす場面が多くなっている。
出会う人たちの多くは高齢者である。年齢を尋ねることは野暮だけれど、高齢者の筆頭は、たぶん私自身なのかもしれない。なぜなら、初対面でありながら私は、温かいまなざしを受けている。ときには立ち止まられて、私はひと声の激励を受けている。もちろん私は、不断のへそ曲がりを封じてひねくれることなく素直に、「ありがとうございます」のことばを返している。そして、束の間の生きる喜びに浸っている。
人間が出会いを失くしたら、もはや生きる屍(しかばね)である。ところが、新型コロナウイルスは、出会いの機会を妨(さまた)げている。これだけでも、ほとほと恨めしいかぎりである。道路上の出会いの多さは、人様が街中への出向きを阻(はば)まれた証しと、言えそうである。同時に、人みな、生きることに必死の確かな証しとも、言えそうである。人様の年の瀬の無事安寧を祈るところである。いやいや、綺麗ごと、他人事(ひとごと)ではなく、わが身の安寧こそ、いっそう欲深く願うところである。